2006-08-22

「石斧と十字架・パプアニュギニア・インボング年代記」 塩田光喜 彩流社 2006.7. ¥4,700.

 まさに、年代記なのである。
 「石器時代に生きる人々の行動と心性、そして文明と遭遇し、文明にのみこまれることによって彼らの精神にいかなる変容が生じたのか、そこからいかなる新たな精神のドラマが展開してくるのかが本書の主題である。そしてそのためには、私は絶妙のタイミングで最高のフィールドに入っていったのだった。いまから20年前、文明接触から30年、石器時代に生を受け、其の中で成人となり、石器時代の生を鮮明に記憶している老人達が未だ多数生存していた。今やインボング族に残る語り部は、私のニューギニアにおける父ウィンディ老人やわが人生の師モゴイ・オガイエ老人など十指に満たない。」

 筆者塩田氏は1985年1月から1987年4月までニューギニアに滞在し、其のうちの一年半は高地のインボングの人々とくらした。ひたすら聞き書きをし、録音し、映像で記録する。ピジンイングリッシュを習い、インボング語を習い、微妙な言い回しに戸惑いつつ、文明の誕生に立ち会っているのだと高揚した気持ちで共に暮らす。夕食を「保護者」のごとき家族と共にし、8時ごろに散会、「雨季の雨はすでに夕方から降り始め、夜になってからは篠突くように大粒の雨滴を地面にたたきつけている。.....とうとうと降り注ぐ雨に打たれながら、洗い物をする私は幸福感で息も詰まらんばかりでだった。」何の説明もなく、唐突に塩田氏は家族になり、父を持つ。読んでいてあれっと思うのだが、前のどこを捲ってみてもそんなことは書いていない。聞きたがり屋の外国人では無くなっているのである。
高地の人々との会話や語りは、(よく分からないが多分)関西言葉である。それがまた柔らかな物言いであって、標準語にはない軽妙な味をだしている。

 こういう風に言ったら如何か。氏は稗田阿礼に出会ったのだ。30年前 まだ少年か青年になりかかりの頃、父は倭国大乱で戦い、もしかしたら自分もその戦いに加わったかもしれない。文字の無い社会では覚えるということが記録することであり、当たり前の日常でもあった。恐れを知らぬ宣教師が入り、石器時代の暮らしも宗教も習俗もすべてが邪教として忌み排除したが、老人たちは記憶を奥深くしまい込んだかも知れないが、忘れ去ったわけではなかった。氏の求めに応じて豊かな表現で語り、氏は指が擦り切れるほど記録した。

 縄文からいきなり文明開化だ。たった30年で大学にいく子供もいる、純粋なほどのクリスチャンになる、白人のするビジネスというものをもたらしている通貨が白蝶貝より有利だと気づき、店というビジネスを始める。30年前までは金属の存在も知らなかった石器時代から(多少の躊躇いはあったにせよ)喜々として乗り切ってしまう。それなりに成熟した社会でなければ出来ることではない。
 思い出した。この孤立していたニューギニアで、7千年前の農耕の跡が発見された報道があったのを。日本の縄文時代だ。バナナやタロイモの栽培がされていた。(2003年6月20日の記事)

 第一部の「石斧」では長いインボング大乱やらの話。第二部の「十字架」はこういう書き出しだ。
「それまでサラサラと音を立てて流れていた時がドロリと粘って動かなくなる。心と体が弾みを失って、どんな面白い話にも無感覚で無反応になってゆく。ウィンディ老人の言葉は私の外をいたずらに通りすぎていく。」「帰ろう、ポート・モレスビーに。.....」町で文明を貪り、次の段落では懐かしい我が家の小道を踊るように通り抜けている。「シオタ。何しとったんや!アンブプルでマガリの踊りやって、オレイの衆とアンブプルの間でそらおもろい悪口歌合戦やったのに」 一ヶ月の留守は無いに等しかった。

 それから三千人も集まるブタ屠りの儀式があり、第一部でさりげなく伏線が張られていた世紀末を目の前にした最後の審判の噂、畳み掛けるように一度死んでよみがえった女の噂。噂ではなくその女にはアンボ・ルートという名前があり、村々を回って自分の経験した奇跡の話する。シオタは ラジカセに90分を超える説教を収め、「意味は分からないながら、私はその張りのある中性的な声に魅入られていた。その声に込められた深遠な謎には私の心をとらえて離さぬものがあった」村人の間では、改悛と悔い改まりが熱波のように広まり、シオタのテープを聴きにくる者が多くいた。宗教的熱狂に包まれた村では「昼と夜、安息日と日常生活の区別も失って、始終、(教会で)集会を開いているようになった。塩田氏の言うように、アンボ・ルートの説教は、つい30年前までは石器時代であったのに真にキリスト教の道理にのっとって、ひたすらに純粋にキリストと天国の話をしている。ここでも塩田氏は論評しない。インボングの人々との交わりで価値観の違いやらで戸惑うことはあっても、それはたとえば日本の中で環境の異なった土地へ単身赴任した時に感ずる類いのものとして“さよか”と受ける。インボングの人々もどうやら同じように感じて接しているようだ。

 アンボ・ルートの説教の翻訳を完成させるために、塩田氏はまた町におりる。もう村に帰らない。通訳を買って出た青年とともにインボング語のテープを書き起こし、それを日本語に翻訳するのに神経をすり減らす毎日。「このままいたら、俺はほんまに神経が参って、ノイローゼになってしまいそうなんや」ということで、ふたりは休養日を設ける。塩田氏は新聞を買いビデオを借り、BBCやABCのテレビを見る。「分厚いノートにびっちり書き込まれたアンボ・ルートの説教のトランスクリプションと翻訳を辿るうちに、私は興奮に駆られ、言葉が始原の無音の世界から生み出されてきた人類史の100万年を追体験しているように感じ、.......そして、翌朝、目が覚めた時、私は言葉を失っていた。」

 「体を切れば旋律が吹きだすまでに」音楽をきく。ブラームス、ヘンデル、シューベルト etc. 一ヶ月かけて言葉を取り戻した。日本語が読めるようになって、ピジンが話せ、「たどたどしくはあっても、曲がりなりにも日本語の文章を紡ぎだせるようになっていく」 説教の翻訳が終わる頃、通訳の青年は新しい老人に引き合わせた。なんと、その老人はカーゴ・カルトの目撃者なのだ。また翌日から新しい聞き書きが始まる。話好きなパレ老人は カーゴ・カルトの話や、白人達が来た時のインボングの老人達の驚きと誤解にまつわるさまざまな笑い話、御伽噺などをテープに10本分も話した。

「老人は戦の時代を戦い抜き、白人統治の時代の屈辱を耐え、.....そして過去の己が人生を深い満足と自信を持って眺め、楽しい追憶として祖父が孫にでも語って聞かせるように私とテレマ(通訳)に己が体験を語った。老人は石器時代、白人支配の時代、それに独立パプアニューギニアの三代を見事に生き抜いてきたのだ。そしてワイガニに林立する政府の高層ビルディングを見物し、ボロゴのスーパーマーケットに溢れかえっているモダンな電気製品や見たことも無い珍奇な食物の数々を見、まるで御伽噺の世界に紛れ込んだかのように驚き、それが自分の一代で達成されたことに誇りを抱いていたのだ。」

 1987年四月九日、塩田氏は日本へ向かった。心の半ばはインボング族として.......

注:カーゴ・カルト~パプア・ニューギニア各地で事例が報告されている宗教運動。船(または飛行機)が祖先(あるいは神格)があの世で造った富をじきに運んでくるから、もう労働する必要もなくなり、貧しかったパプアニューギニア人は富み栄え楽園の生活を送るようになるというのが共通する教義。

(本文中に多数のモノクロ写真、巻頭にはまた多量のカラー写真。だが この類いの著者にある記念写真的もしくは研究対象(人のこと)と並んで写した写真は一枚も公表されていない。)

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