2006-11-30

WAVY さん! 

J: いつもお訪ね戴いて有難うございます。なんやらこのブログはへんですね。じつは、投稿した記事もこんな風に超長駄文が続かないように「一つ目の段落、もしくは全角で127字の短い方」に設定してあるのですが、Mr.Google はちっとも言う事を聞いてくれません。どうなっているんでしょうね、これこそ何かのエラーなのに。それについて彼は黙して語らず。先頭のみ/完全 なんて選択させない方がいいのに。でもいまのところ、彼のご機嫌はいいのであまり悪口を言いたくありません。 2006.10.30. 00:02

J:えぇっと、どなたかは存じませんが、はじめまして。(初めての方の前では丁寧語も使えます。大人ですから.....) お近くへお出での際はどうぞお立ち寄りください、でしょうか。この出会いではどんな挨拶がいいか、難しいです。ともかく よろしく!
          

2006-11-23

「祖先の物語 」  リチャード・ドーキンス  2006.9.   小学館 上下 各3,200円

THE ANCESTOR'S TALE:A Piligrimage to the Dawn of Life
「祖先の物語:ドーキンスの生命史」

 歴史の本はどれもそもそもの始まりから記述されている。お伽話も「昔々あるところに...」から始まる。生命史の場合、極端に言えば、濃いスープの中の化学反応から始まり、進化が進むにつれて生物達は複雑になり、最高位の哺乳類の頂点に人間:ヒトが君臨している、という図式だ。他の霊長類はヒトになれなかった劣った生物となり、発展した現代社会が享受している文化を持たない社会は劣った社会という認識が自然に生まれてくる。
 ドーキンス先生は別の考え方を示した。今までの歴史の記述法は「前向きの年代記」で枝別れして多様化していく物語で「いま」で終わる。では「後ろ向きの年代記」ではどうか。どこから出発しようと生命の単一性へ向かい、共通の祖先への収斂へと導かれる筈だ。これならばヒトを主人公に据えても問題はない。我々はヒトであり、ヒトのことは一番よく知っているからだ。あなたがイヌならばイヌを主人公にしようではないか。ヒトが生命の根源・始源に向かって旅するのを、チョーサーの「カンタベリー物語」の巡礼になぞらえて生命史を書いたのがこの著書である。
 
思い上がりの歴史観: 「生物学的な進化には、いかなる特権的な地位を占める家系もなければ、あらかじめ設計された目的もない。進化は何百万回となくその折々での暫定的な目標(観察時点で生き残っている種)を達成してきており、どれか一つの目標をほかの目標よりも特権的であるとか、究極的であるとか称するのは、虚しい自惚れ(あいにくそれは人間の自惚れである。なぜなら私たちが代弁しているのだから)以外の何者でもない。」

「生物学的な進化は方向性を持ち、進歩的で予測可能と言えるような場面が存在すると私は思う。しかし、進歩は断じて人間に向かう進歩ではなく、その予測についての判断や感覚は確固としたものではなく、都合よく思い込むべきものではないことを、私たちは受け入れなければならない。歴史家は、どんなわずかな程度であってさえ、人間という極相(クライマックス)に向かっているという物語を紡ぎ出すことのないよう、注意しなければならない。」

 「後ろ向きの年代記は、現生の哺乳類のどれを出発点に選んでも、つねに同じ唯一無二の原哺乳類、すなわち、恐竜と同時代の、謎につつまれた食虫性の夜行性動物に収斂していく。...中略...私は“収斂 convergence” という言葉を使ったが、これは前向きの年代記では全く違う意味で使うために、是非ともとっておきたいと思っている。したがって私は、本書の目的に合うようこれを“合流 confluence”あるいはすぐ説明する理由によって、“ランデヴー rendezvous”に置き換える積りである。...中略...後ろ向きの年代記では、どの種の組み合わせを取り上げても、その祖先どうしは、かならずどこか特定の地質学的な瞬間に出会うことになる。そのランデヴーの時点は、彼らすべてにとっての最後の共通の祖先で、私はこれを彼らの“concestor”と呼ぶことにする。コンセスターとは、すなわちたとえば、合流点にいる齧歯類、合流点にいる哺乳類、合流点にいる脊椎動物のことである。また最も古いコンセスターは、現在生きているすべての生物の始祖で、おそらくは一種の細菌であろう。

 この地球上に現在生きているすべての生物のたった一つのコンセスターが、本当に存在することについては強い確信がある。証拠は、これまで調べられたすべての生物が、同じ遺伝暗号を共有していることである。(大部分は厳密に同じ、その他はほぼ厳密に同じ。)遺伝暗号は、その複雑さのあらゆる部分に至るまで、あまりにも詳細に決定されているために、二度も発明されたとは考えられない。」

 「他の種に属する動物、植物が存在することも忘れてはならない。彼らは、それぞれ異なった出発点から独立に過去に向かって歩み、最終的に私たちと共有するものを含めて、それぞれの祖先を求めての巡礼の旅をするのである。もし、私たちが祖先の足跡を逆にたどっていけば、必然的に、ある定められた順序で、他の巡礼者たちと合流することになるだろう。その順序とは、彼らの系統が私たちの系統とランデヴーし、しだいしだいに親戚関係の幅を広げていく順序である。」

 具体的に言えば、およそ500万年さかのぼった時点で、すでに合流を果たしたボノボとチンパンジーに出会うのだ。それからゴリラと合流し、オランと合流する。こんな風にたった40回のランデブーで、我々ヒトの巡礼者は生命の起源そのものに行き当たるというのは、驚くべきことだ!

 ドーキンス先生は巡礼の旅に送り出す選にかかる。古代型ホモ・サピエンス(アファール原人)は10万年前まで現代型人類ホモ・サピエンスと共存していた。勿論ネアンデルタール人も一緒に。彼らは2万8千年前に消滅したが。100万年もさかのぼるとホモ・エレクトゥスで出会う。150万年前にケニアに住んでいた「トゥルカナ・ボーイ」。200万年前はホモ・ハビリスの時代、ケニアの「KNM-1470」と呼ばれているヒトは190万年前。
 「私たちの先祖であって、チンパンジーの先祖でない最初の動物はどれだったのか。」 どうやら、ホモ属の直接の祖先は頑丈型のロブストゥスではなく、華奢型アウストラロピテクスのどれかの種であったようだ。250万年前プレトリアにいたMrs.プレス。320万年前のMs.ルーシー。360万年前、ラエトリで並んで歩いていた親子を思われる三人は足跡だけ残している。そして、440万年前のラミダス猿人、「リトル・フット」が最古のヒトの化石ではないかと思われていたが、2000年にケニアで発見された「オロリン」は600万年前、2001年にはサハラ南部のチャドから7~800万年前の「トゥマイ」と名づけられた化石が発見された。サルではない特徴の方が多いので、目下のところ彼らがヒトの最初と見られている。

 このヒトの過去に遡る旅の中で、ドーキンス先生はそれぞれがそれだけで一冊の本が出来るぐらいの問題を提示している。出アフリカは従来考えてこられた二回ではなく三回(15~8万年前・84~42万年前・170万年前)であったとするアラン・テンプルトン説。狩猟採集・牧畜・農耕民の文化のあり方。ネアンデルタール人。ミトコンドリア・イブ(14万年前)とY染色体アダム(6万年前)。二足歩行を選択した理由。ネオテニー論。ミーム説。脳重量の対数.......。
 これらの問題はこれからどこかの合流点で出会う他の生物達が語ってくれる、チョーサーの物語のように。

 人選の最初に先生は今はもういないタスマニア島人ではとも考える。彼らは1万3千年の間孤立して生活していたが、19世紀の白人入植者達によって農業の外敵として絶滅させられた。タスマニア島人の最後の一人、トルカニニが1876年に死んだ。1万3千年の孤立は巡礼の旅に出すに充分な資格ではないか、と。

700万年前から500万年前の何処かで、初めて他の種の巡礼者と出会う。すでにチンパンジーとランデヴーを済ませたボノボであった。我々ヒト属と違って、彼らがどのような道のりでここまでやって来たのかはわからない。途中の証拠(化石)が何も発見されていないからだ。森に住んでいたというのも一つの理由だが、彼らが出会ったヒト属はさほど彼らと異なった姿ではなかった筈だ。ヒトとチンプに共通する化石はまだ見つかっていない。

我らが巡礼の旅:矢印→の先にいるのは次にランデヴーする相手であるが、現生動物の分類法による約1,000万種の生き物が我々と同時に巡礼に出て出会うのだが、もしかしたら今日我々が目にしている姿とは似ても似つかぬ姿であるかもしれない。「彼らの祖先であって他の生物の祖先でない最初の生物」という理論はここでも有効である。彼らも彼らなりの巡礼をしてきているのだから。既に何回かの合流を果たして大人数になった巡礼団やナメクジウオのように自分達だけの道をひっそりと旅して5億6千万年後にヒトの巡礼団と合流するものもいる。

 2006年11月16日、ネアンデルタール人のDNA断片解析から、37万年前に現代人と分岐したと報道された。つい最近まで共存していた彼らに敬意を表していまから2万8千年後に巡礼の旅に出発させてもドーキンス先生はうなずいてくれると思う。

 ヒト→チンプ・ボノボ→ゴリラ→オラン→テナガザル(系統樹と分岐樹、種の系統樹と遺伝子の系統樹)→旧世界ザル(世界の気候と植生が現在とほぼ同じだと認められる最後の地点・2,500万年前)→新世界ザル(色覚のこと)→メガネザル(毛のはえたカエル)→キツネザル(6,300万年前・白亜紀の大絶滅を終えて)→ヒヨケザル(滑空する!)・ツバイ(植物の隆盛)→齧歯類とウサギ類(遺伝子の延長された表現型)→ローラシア獣(カバ・アザラシなど異質な哺乳類たち)→異節類(貧歯類・アルマジロ)→アフリカ獣類→有袋類→単孔類(カモノハシ)→蜥形類(爬虫類・鳥類:ゴンドワナ大陸の分裂と走鳥類の分布、古磁気)→両生類(サンショウウオ・ネオテニー説)→肺魚→シーラカンス→条鮱類(ヴィクトリア湖のシグリット)→サメとその仲間→ヤツメウナギ・メクラウナギ→ナメクジウオ→ホヤ類→ヒトデとその仲間→旧口類(分子時計・牧畜と農業・光感受性・眼の誕生・交雑と種内差異・ショウジョウバエに於ける発生学と遺伝学・ホック遺伝子・中立説)(愛しのカイアシ類とはここで合流!)→無体腔型扁形動物(スノーボールアース説)→刺胞動物(クラゲなど)→有櫛類(ゴカイ・バッタ・フジツボ・ハキリアリなど)→板形動物→カイメン類→襟鞭毛毛虫類→ドリップス→菌類→アメーバ動物→植物→不確かなグループ→古細菌→真性細菌

 生命の始原までの巡礼を終えてドーキンス先生はこう問いかける。生物の進化=進歩の原動力である軍拡戦争とは? もう一度始原から始められたらどんな生き物が生まれるか?これについて先生はこんな風に書いている。赤外線感熱・反響ソナー・電気的接触・パラボラ反射器などの光学的原理に基づいた眼は宇宙の他の惑星に生命が存在しうるなら、私たちが地球上で知っていると同じやり方で発達させたという方に賭けてもいいだろう。それから、毒針・発音・滑空・ジェット推進方・反響定位などは多様の生物がそれぞれ工夫して進化させたであろう(一種の収斂現象)。また一つの種だけに見られる一回かぎりの進化もあるだろう。移動方法は二足歩行・四足歩行・うねらせての移行・滑空・飛行などあろう。だが、我々のような異常に発達した脳細胞を持つ二足歩行の奇妙な生物が誕生することは無いかもしれない。

 「島」という概念:生物学的な制約から移動できない距離が二つの場所を隔てていること。尾根の反対側や密度に異なる水、隣の浅瀬もある生き物にとっては「島」になる。地球自体も「島」なのだ。

 「最初に自然淘汰を始動させ、最終的に累積的な進化の壮大な叙事詩のすえに、ネズミや人類にまでたどり着かせることになった決定的な要素は何だったのか」
 「最初の遺伝子(自己複製子)」「最初の細胞(代謝体)」

 「超音波を発するコウモリは、一連の一寸刻みの微細な改良の結果であり、それぞれの改良は同じ方向上にある進化的趨勢を前に進めるように先行物に累積的な付け加えをして行く。これは当然ながら進歩である。...中略...しかし、こういった種類の進歩は、進化が始まったときから現在まで不変の、一様なものではない。それは韻を踏むのである。...軍拡戦争の過程における進歩...個別の軍拡戦争は、ひょっとしたら恐竜におこったような種類の大量大惨事の過程を通じて、やがて終わる。そしてまたふたたび全プロセスが始まるが、まったくのゼロからではなく、その軍拡戦争のはっきりと認められる初期の段階から始まるのである。...恐竜絶滅の後を受けてただちに上昇をはじめて以来、哺乳類もまたいくつもの絶滅の後のいくつもの小さな軍拡戦争、そのまた後の新たな軍拡戦争を行ってきたのである。軍拡戦争は、周期的な何段階もの進歩的進化の奔流において、以前の軍拡競争の韻を踏むのである。」

我々は、自らを知恵ある人 ホモ・サピエンス Homo-sapience と称しているが、何万年もあとの古生物学者はもしかしたら、愚かなるヒトという動物 Homo-insipience と呼ぶかもしれないとドーキンス先生は予見する。
 
 生命という点では植物の存在も私の始原の先祖とは思うのだが、古細菌や真性細菌になると、彼らに対する親近感はない。生命の誕生は濃いスープからなのは理解するが、(化学は昔から苦手だ)よく分からない。何年かたったら理解できるようになっているかもしれない。この著書自体が生物学の濃いスープのようなものだと思う。

2006-11-10

「レッドパージ・ハリウッド」 上島 春彦 2006.7.    作品社 3,800円

 私が始めて自分の小遣いで映画を見たのは1951年作「探偵物語」であった。渋谷東急名画座。授業の終わった後だったから四時ごろからの上映だったろう。館内は空いていたけれど、なんだか許されていない場所に潜り込んだような気がして、一番後ろの席でみた。その後では自信も付いてきてしばしば映画をみた。地下にはニュース映画だけの館もあり、そこは10円で、名画座は60円、まもなく75円に値上げされた。そのころは封切館は日比谷で,二番館といっていた新宿・渋谷になるとほとんど2本立て、その次の近所の小さな映画館では3本立てで、どこも満員で座れるのは一巡した後でやっとという時代。

 1938年、非米活動調査委員会(HUAC)が設立された。この委員会は演劇人団体を召喚して“左翼的”と非難している。だが一方で真珠湾攻撃の年には左翼主導による「脚本家戦時動員組織」も発足し、1942年には戦時情報局(OWI)が設立され、リベラル派の拠点になった。大戦が終わってすぐの1946年には“鉄のカーテン”で隔たれた冷戦が始まった。翌47年にはHUACによる映画人の喚問が開始された。ブラックリスト体制が公然化し、ハリウッドテンの業界追放がはじまった。1951年、映画人喚問が再開し、いわゆる「密告・ネーミング ネームズ」の時代がきた。「ブラックリストへの反対者は即、共産主義者の陰謀に加担する者としてブラックリストにのせる。」そして業界追放。公民権に関する嘆願書に署名?追放だ。アクターズ・スタジオ?この俳優集団は爆竹花火のように赤い連中だ。どいつを追放しようか。

 この、戦後アメリカにおける極端に排他的・全体主義的でヒステリックな反共産主義を一般的にマッカーシズムと呼ぶ。ただし、上院議員J.R.マッカーシーが活躍したのは50年代初頭の数年間であったが、そのずっと前からのマッカーシー主義的政治委員会がHUACなのだ。反ニューディール主義、反リベラル、反ユダヤ主義、人種差別主義などで、一言でいえば極右だ。
 映画産業から始まったブラックリスト作りはやがてTV産業、新聞、ラジオ、教育施設さらに公務員、公社職員へと爆発的に広まっていった。映画制作者協会は「自分が共産党員ではないことを公に誓約するまでは誰も再雇用しない」と宣言した。マスメディアの発展と共にいよいよヒステリックになっていく。

 奥平康弘氏はその著書「表現の自由を求めて」で次のように書いている。「マッカーシズムとは何であったのだろうか。これはワシントン政府ー合衆国議会・大統領府・国務省・司法省などーがとったさまざまな種類の権力装置を頂点に、諸州・地方公共団体の多種多様な同調的な類似政策を含む。そしてそれは、たとえばもっとも典型的には、学問の府である大学その他研究機関内部の人事のありように響き、同じ動きが法曹界その他の自由職業分野に及び、果ては、鉛管工・医療関係者などの職場に波及し、さらに社会保険受給者の需給資格を脅かす、といったありさまであったのである。つまりマッカーシズムは公私の区別を越え、社会の風潮、ひとびとの思想・信条の中身にまで食い込む態のものであった。」 2006年に封切りの「Good night and Good Luck」(アカデミー監督賞?作品賞?最優秀賞?を受賞した。なんとも皮肉なこと。)に詳しい。

 50年代はTV時代の幕開けだ。勿論、TV局内には思想傾向取締り機関が元FBI職員の天下り先として設置されていた。映画業界から追放された脚本家たちは変名を使い、またフロントと呼ばれる表の実在人物の名前を借りて、仕事をしていた。50年代はまた黒人主導による人種差別撤廃運動が高まり、55年にキング牧師による人種差別バスのボイコットが始まっている。それにリベラルであることはもはや左翼的ではなくなってきていた。59年、アカデミー賞の規約から「ブラックリスティ排除」の項目が消えた。ブラックリスティたちの活動を無視することが困難になって来たからでもあった。

 「探偵物語」51年、監督はウィリアム・ワイラー、脚本はブラックリスター。主演のカーク・ダグラスはバート・ランカスターと並んでブラックリスターの脚本家に理解があったという。助演の女優リー・グラントは批評家協会賞をとりオスカーにノミネートされ、カンヌでは最優秀女優賞までもらったが、ブラックリスターの葬儀でHUACに批判的な発言をしたためにTV・映画からもしめだされている。
 50年代に殆ど毎週、父に映画館に連れて行かれた。60年代も随分映画館にいった。そのころ見た映画が大なり小なりこの「レッド・パージ」に関係があることを認識してあらためて思い出すと、また違ったものが出てくる。

 その頃役者を志す人間にとっては、スタニスラフスキー・システムという演技理論は絶対であり、アメリカでそれを実践に移して活動している、リー・ストラスバーグやエリア・カザンを中心としたアクターズ・スタジオは憧れの的でもあった。ブラックリスターであった脚本家たちの名誉が復活した後で、密告者として名高いエリヤ・カザンにアカデミー特別賞が与えられた。会場は拍手と失笑が半々だった。

 著者の「注」について:章ごとに数多くの「注」がある。これだけ読んでも価値のあるという素晴らしい力作といえる。が、「注」だけでは読めない。本文と照らし合わせなければ一体誰についての「注」なのかわからないのだ。また、本文を読みながら「注」に出会ったからといっていちいち参照しながら読むことはしない。実際「注」はこのようになっている。
 *66 監督。ハリウッドテンの一人。メッセンジャーボーイからスタートし、編集者を経て監督に。低予算の反日プロバガンダ映画で評価され、やがて製作者E. スコットとのコンビで.....後略
とこんな具合。「注」66は誰かといえば、87頁5行目、エドワード・ドミトリクでなかなか見つからない。非常に不親切な「注」で、もったいない作り方と思う。全部で20章あり行数が増え、ページ立てが何ページか増えたにしてもそうして見るべきであった。

2004年9月出版のサラ・パレッキー「ブラック・リスト」はこの赤狩りの旋風に巻き込まれ、翻弄された人々の癒えることなき傷を描いてある。また彼女は9.11以後の社会を憂えている。そのわずか一ヶ月半ののちに成立した「愛国者法」に危惧を抱いている。今のアメリカは、かっての「赤狩り」時代のアメリカに戻りつつある...そんな危機感から、この作品が誕生したのであろう。...訳者山本弥生氏のあとがきから...
 

2006-11-05

「カイアシ類・水平進化という戦略」 大塚 攻 2006.9. NHK出版 1,070円

副題に「海洋生態系を支える微小生物の世界」とある。著者は「はじめに」でつぎのように記している。
「はじめに」が面白ければ本文も面白い、その通り!

右図:カンブリア紀末期のオルステン動物群の生態図
左図:深海のカイアシ類 
    A・カイアシ類を襲う肉食性
      ヘテロラブドゥス属




「生物のヒトに至る複雑化・高度化を“タテ”の進化とすれば、カイアシ類のように多様化によって地球生命圏にあまねくはびこる生命は“水平進化”という戦略を選んだのではないだろうか。われわれヒトが知性を得てからは、まだたった10万年にすぎない。しかし、すでに地球環境に大きな影響を与え、自滅の兆候さえある。一方、カイアシ類は四億年以上のたゆみなき多様化に道をたどり、ヒトが絶滅した後も地球にはびこり続けるだろう。」

 では、そのカイアシ類とは一体どんな生物なのか。要約してみる。...海では動物プランクトンとして最も生物量(バイオマス)が多いものの一つで、通常、プランクトンサンプルの総固体数の7~8割を占めるほど圧倒的に優占する。
 プランクトン? 水中を漂う生き物の総称で、大きさは1m、重さ200kgにもなるエチゼンクラゲから、数マイクロメートル以下のバクテリアなども包合する。つまり、大きさでなくその遊泳能力で定義されており、遊泳能力がゼロか、ごくわずかな水中浮遊生物群の総称。

 カイアシ類は海洋微小甲殻類で、大きいもので1cmぐらい、普通は1~2mm。東南アジア・ヨーロッパでは地方食とされているが、日本では同じプランクトンのアミ・オキアミ以外は食さない。魚類は、特にサンマ・イワシは一生カイアシ類を食べ続ける。シラスの腹部の赤い点が甲殻類カイアシの入っている胃袋だ。生息場所はヒマラヤの氷河から湖沼・田んぼ・地下水・古タイヤに溜まった水溜りから水深1万mの深海など、ありとあらゆる水圏に進出している。その中には魚介類に寄生する種類もあり、養殖場では被害も出ている。

食事:雑食性、つまり何でも食べる。数マイクロメートル~体長の20~30%前後の大きさの別の種類のカイアシ類の卵・繊毛虫などの原生動物・植物プランクトン・マリンスノー。

休眠する卵!:300年たって目を覚ました例有り。この休眠卵は乾燥・高湿・低温に強く、常温で25年耐えられる種もいる。

成長段階:受精してから成体まで基本的に12ステージ。成体になってからは脱皮しないで成長が打ち止 めとなる。

カイアシ類の眼:現生種のカイアシ類には複眼がなく、通常単眼のみを備える。結像する機能は持たないと推定。深海性カイアシ類の眼は広範な波長の光を効率よくキャッチする集光器と分析されている。視覚 以外の感覚器官を特化した動物であり、このおかげで光のない世界にもおおいに進出した。

運動能力:浮遊性のプランクトンであるのに、捕食者から逃げるために、海面から15cmもジャンプする。たいしたことないって! とんでもない。体長2~3mmのカイアシ類からみれば体長の50倍だ。

最古のカイアシ類の化石:一億二千万年~一億七千万年前、ブラジル白亜紀前期の汽水産硬骨魚化石の鰓腔に寄生していたのが見つかっているという。彼は寄生性カイアシで体長1mm、現生の分類群におさまるのだそうだ。彼らはいってみればカブトガニたちと同様生きた化石なのだ!

 さあ、ページを開いて、本文に進もう。
著者のいう奇妙奇天烈な生物の驚天動地の世界へ...

2006-11-03

「旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶」   読売新聞西部本社編 2006.7. みずのわ出版 3,000円


 1969年八月、会津若松駅で目じりに皺をいっぱい寄せて笑う宮本常一の写真でこの本は始まる。「民俗学者宮本常一は、生涯のうち四千日以上を民俗調査に充てた。作家の佐野真一さんは“旅する巨人”と呼ぶ。三千を超える地域を訪ね、子どもや労働に汗を流す男や女たち、街角、橋、看板、洗濯物~~とあらゆるものにレンズを向けてきた。戦後だけで約十万枚。山口県周防大島町で2004年開館した周防大島文化交流センターが保管している写真から、九州・山口の戦後をたどり、“いま”を取材する。」

 最初の一枚は、長崎県対馬・厳原町浅藻。ここは宮本常一の生まれ故郷である周防大島から渡ってきた漁師たちが移って来て出来た集落である。1950年、浅藻に最初に住み着いた人の家で、梶田富五郎と会う。今八十一歳になる梶田富五郎さんの五男の嫁、梶田味木さんは写真を手にして当時を思い出す。「私はお茶を出しました。じいちゃんは上半身裸、宮本先生は半袖シャツ。長いこと話しているもんだから、ちらっと様子を見に行くと、山口弁でのやりとりに夢中、昼ごはんも食べずにね。じいちゃんも先生も何だかうれしそうでしたよ。」
 また、別の土地でのこと。当地の民謡を夜の更けるのを忘れて歌ってくれた年寄りの女性達については、「もうお目にかかることはないだろうが、ゆうべのようにたのしかったことはなかった。死ぬまで忘れないだろうが、あなたもいつまでもゆうべのことをわすれないでほしい。」 宮本は出会った人々とこんな風に接し、そしてそのことを「私の日本地図」という著書に書き留めている。

 宮本が出会った土地の人びとのまなざしもまた優しい。「一升は入るホラガイでみんなが酒の飲み比べをするのを眺めて楽しそうでした。」熊本県矢部町、通潤橋を訪ねて出会った高宮家現当主晃裕氏。
萩市浜崎の蒲鉾店の主、一利さんはこう回想する。「そういえば八月一日の住吉祭りの時。暑いのに、炭火で蒲鉾を焼いているのを目の前で、長いこと一生懸命見ていた人がいた。こんな本を書く人やったんか。」宮本はこう書いているという。“ーまぁ食べて見なさい”と主人。これは“うまい”と宮本。話を弾ませた後、“持っていきなさい”と勧めるのを丁重に断っている。名乗りあうこともなく別れ、二度と会うことのなかった二人。本の中には名前も屋号も出てこない。その主は四年前に他界し柳井良子さん(70才)は夫を偲ぶ。

 失われた風景、幼いころの友や自分、逝ってしまった夫・父母・祖父、あそこにあった店、そんなものがいっぺんに胸に溢れてくる。その写真を目にしなければ思い出すこともなかったのに。誰もが暮らしの中に埋没させている記憶。戦後の食糧難の時代から「もはや戦後ではない」といわれた復興の大波の押し寄せる中で、その土地から失われつつある風景、利便性の大鉈で切り落とされていく暮らし。そんな日常を宮本は十万枚もの記録に残した。
 「島をほんとに発展させてゆくのは、ここに住んでいる人たちの努力にたよる外はない。」と記す一方で、「やがて消え行くもの」の気配、「地方の町の個性が失われていく」のを確実に予見している。残念ながら記者たちが古い写真をもっておとずれた場所には宮本の見たであろう風景は残っていなかった。老いた人たちの色褪せていない記憶に「その時代」が残っていた。

 民俗学者宮本常一の姿勢は何だろう。彼に接した人々を魅了する宮本常一。膨大な写真の中から宮本に語りかけるもの。同時にその写真を手に新聞記者は写された関係者を探し、その土地に流れた三十年から五十年の時間を辿り直した記録である。二十一人の手になる記録ではあるが、まるで一人の宮本に執り付かれた人間が書いているようだ。これは一体なんだろう。多分、これが「宮本常一」なのだ。

民俗学者である宮本常一はまた営農指導者でもあった。訪れた農村・漁村・島でどうしたらその土地が、土地にすむ人々が活気ずくのか、中央や大きな資本に収奪されずに地場産業が興せるかということを真剣に考え、その土地の人たちと議論した。
「地方にいくほど銀座が多い。涙ぐましいほどの中央追随の姿である。そして、そういうことによって次第に地方都市の自主性を失っていくようである。」
「この町が長い歴史の中から生み出したようなよさを、いつまで持ち伝えていくことができるであろうか。」
「島の人々は島につよい愛着をもっており、何とか島をよくしようとしているのだが、今の政治はそういう意欲をそぐ方向に向かっている」
「離島振興事業もかならずしも期待するほどの効果をあげているとはいえない。次々に無人島のふえてきていることがそれをものがたる。」2006年、過疎の村は増加し日本から切り捨てられつつある。
「進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。」

長崎県長崎半島の突端に野母崎がある。そこから椛島まで赤いアーチの樺島大橋が架かっている。まだ橋のなかった1961年、宮本は島の悲願である架橋についてこう記している。「“橋でも架かるといいのですが”と島の人がこぼすから“その気になりなさい。わずか300メートルの海に橋がかからぬこともありますまい。ただ、その橋を観光めあてにかけたのでは意味がない。できあがった橋がほんとに役にたつ産業をもつということでしょう。お互いに考えてみようではありませんか”とはなしたのであった。」
1966年、宮本は種子島にいた。離島振興法の施行から13年たって、産業や人びとの暮らしぶりなどについての調査団を率い、約10日間滞在した。当時、調査団に同行した田上利男さん(74歳)は「宮本先生はほとんど休むことなく、島中を駆け回っていたのを思い出します。本当に忙しそうでしたが、人と話すときだけは時間を忘れていました。」

 ずっと前、TVの特集番組で佐渡の漁師が「宮本常一」のことを懐かしんで話していた。何故かその情景が思い出される。

*山口県周防大島にある宮本の古里、東和町に彼自身が設立した「郷土大学」がある。この大学は彼の精神の継承を掲げ、いまも地域の人びとの学びの場になっている。この「宮本学」の中心施設として2004年に、町立の周防大島文化交流センターが開設された。
 この本の監修は全国離島振興協議会・財団法人日本離島センター・周防大島文化センターである。

*「土佐源氏」という彼の収録した話を、沼田耀一氏は一人芝居に仕立てて全国を回った。沼田氏は2005年  逝去された。