2006-11-23

「祖先の物語 」  リチャード・ドーキンス  2006.9.   小学館 上下 各3,200円

THE ANCESTOR'S TALE:A Piligrimage to the Dawn of Life
「祖先の物語:ドーキンスの生命史」

 歴史の本はどれもそもそもの始まりから記述されている。お伽話も「昔々あるところに...」から始まる。生命史の場合、極端に言えば、濃いスープの中の化学反応から始まり、進化が進むにつれて生物達は複雑になり、最高位の哺乳類の頂点に人間:ヒトが君臨している、という図式だ。他の霊長類はヒトになれなかった劣った生物となり、発展した現代社会が享受している文化を持たない社会は劣った社会という認識が自然に生まれてくる。
 ドーキンス先生は別の考え方を示した。今までの歴史の記述法は「前向きの年代記」で枝別れして多様化していく物語で「いま」で終わる。では「後ろ向きの年代記」ではどうか。どこから出発しようと生命の単一性へ向かい、共通の祖先への収斂へと導かれる筈だ。これならばヒトを主人公に据えても問題はない。我々はヒトであり、ヒトのことは一番よく知っているからだ。あなたがイヌならばイヌを主人公にしようではないか。ヒトが生命の根源・始源に向かって旅するのを、チョーサーの「カンタベリー物語」の巡礼になぞらえて生命史を書いたのがこの著書である。
 
思い上がりの歴史観: 「生物学的な進化には、いかなる特権的な地位を占める家系もなければ、あらかじめ設計された目的もない。進化は何百万回となくその折々での暫定的な目標(観察時点で生き残っている種)を達成してきており、どれか一つの目標をほかの目標よりも特権的であるとか、究極的であるとか称するのは、虚しい自惚れ(あいにくそれは人間の自惚れである。なぜなら私たちが代弁しているのだから)以外の何者でもない。」

「生物学的な進化は方向性を持ち、進歩的で予測可能と言えるような場面が存在すると私は思う。しかし、進歩は断じて人間に向かう進歩ではなく、その予測についての判断や感覚は確固としたものではなく、都合よく思い込むべきものではないことを、私たちは受け入れなければならない。歴史家は、どんなわずかな程度であってさえ、人間という極相(クライマックス)に向かっているという物語を紡ぎ出すことのないよう、注意しなければならない。」

 「後ろ向きの年代記は、現生の哺乳類のどれを出発点に選んでも、つねに同じ唯一無二の原哺乳類、すなわち、恐竜と同時代の、謎につつまれた食虫性の夜行性動物に収斂していく。...中略...私は“収斂 convergence” という言葉を使ったが、これは前向きの年代記では全く違う意味で使うために、是非ともとっておきたいと思っている。したがって私は、本書の目的に合うようこれを“合流 confluence”あるいはすぐ説明する理由によって、“ランデヴー rendezvous”に置き換える積りである。...中略...後ろ向きの年代記では、どの種の組み合わせを取り上げても、その祖先どうしは、かならずどこか特定の地質学的な瞬間に出会うことになる。そのランデヴーの時点は、彼らすべてにとっての最後の共通の祖先で、私はこれを彼らの“concestor”と呼ぶことにする。コンセスターとは、すなわちたとえば、合流点にいる齧歯類、合流点にいる哺乳類、合流点にいる脊椎動物のことである。また最も古いコンセスターは、現在生きているすべての生物の始祖で、おそらくは一種の細菌であろう。

 この地球上に現在生きているすべての生物のたった一つのコンセスターが、本当に存在することについては強い確信がある。証拠は、これまで調べられたすべての生物が、同じ遺伝暗号を共有していることである。(大部分は厳密に同じ、その他はほぼ厳密に同じ。)遺伝暗号は、その複雑さのあらゆる部分に至るまで、あまりにも詳細に決定されているために、二度も発明されたとは考えられない。」

 「他の種に属する動物、植物が存在することも忘れてはならない。彼らは、それぞれ異なった出発点から独立に過去に向かって歩み、最終的に私たちと共有するものを含めて、それぞれの祖先を求めての巡礼の旅をするのである。もし、私たちが祖先の足跡を逆にたどっていけば、必然的に、ある定められた順序で、他の巡礼者たちと合流することになるだろう。その順序とは、彼らの系統が私たちの系統とランデヴーし、しだいしだいに親戚関係の幅を広げていく順序である。」

 具体的に言えば、およそ500万年さかのぼった時点で、すでに合流を果たしたボノボとチンパンジーに出会うのだ。それからゴリラと合流し、オランと合流する。こんな風にたった40回のランデブーで、我々ヒトの巡礼者は生命の起源そのものに行き当たるというのは、驚くべきことだ!

 ドーキンス先生は巡礼の旅に送り出す選にかかる。古代型ホモ・サピエンス(アファール原人)は10万年前まで現代型人類ホモ・サピエンスと共存していた。勿論ネアンデルタール人も一緒に。彼らは2万8千年前に消滅したが。100万年もさかのぼるとホモ・エレクトゥスで出会う。150万年前にケニアに住んでいた「トゥルカナ・ボーイ」。200万年前はホモ・ハビリスの時代、ケニアの「KNM-1470」と呼ばれているヒトは190万年前。
 「私たちの先祖であって、チンパンジーの先祖でない最初の動物はどれだったのか。」 どうやら、ホモ属の直接の祖先は頑丈型のロブストゥスではなく、華奢型アウストラロピテクスのどれかの種であったようだ。250万年前プレトリアにいたMrs.プレス。320万年前のMs.ルーシー。360万年前、ラエトリで並んで歩いていた親子を思われる三人は足跡だけ残している。そして、440万年前のラミダス猿人、「リトル・フット」が最古のヒトの化石ではないかと思われていたが、2000年にケニアで発見された「オロリン」は600万年前、2001年にはサハラ南部のチャドから7~800万年前の「トゥマイ」と名づけられた化石が発見された。サルではない特徴の方が多いので、目下のところ彼らがヒトの最初と見られている。

 このヒトの過去に遡る旅の中で、ドーキンス先生はそれぞれがそれだけで一冊の本が出来るぐらいの問題を提示している。出アフリカは従来考えてこられた二回ではなく三回(15~8万年前・84~42万年前・170万年前)であったとするアラン・テンプルトン説。狩猟採集・牧畜・農耕民の文化のあり方。ネアンデルタール人。ミトコンドリア・イブ(14万年前)とY染色体アダム(6万年前)。二足歩行を選択した理由。ネオテニー論。ミーム説。脳重量の対数.......。
 これらの問題はこれからどこかの合流点で出会う他の生物達が語ってくれる、チョーサーの物語のように。

 人選の最初に先生は今はもういないタスマニア島人ではとも考える。彼らは1万3千年の間孤立して生活していたが、19世紀の白人入植者達によって農業の外敵として絶滅させられた。タスマニア島人の最後の一人、トルカニニが1876年に死んだ。1万3千年の孤立は巡礼の旅に出すに充分な資格ではないか、と。

700万年前から500万年前の何処かで、初めて他の種の巡礼者と出会う。すでにチンパンジーとランデヴーを済ませたボノボであった。我々ヒト属と違って、彼らがどのような道のりでここまでやって来たのかはわからない。途中の証拠(化石)が何も発見されていないからだ。森に住んでいたというのも一つの理由だが、彼らが出会ったヒト属はさほど彼らと異なった姿ではなかった筈だ。ヒトとチンプに共通する化石はまだ見つかっていない。

我らが巡礼の旅:矢印→の先にいるのは次にランデヴーする相手であるが、現生動物の分類法による約1,000万種の生き物が我々と同時に巡礼に出て出会うのだが、もしかしたら今日我々が目にしている姿とは似ても似つかぬ姿であるかもしれない。「彼らの祖先であって他の生物の祖先でない最初の生物」という理論はここでも有効である。彼らも彼らなりの巡礼をしてきているのだから。既に何回かの合流を果たして大人数になった巡礼団やナメクジウオのように自分達だけの道をひっそりと旅して5億6千万年後にヒトの巡礼団と合流するものもいる。

 2006年11月16日、ネアンデルタール人のDNA断片解析から、37万年前に現代人と分岐したと報道された。つい最近まで共存していた彼らに敬意を表していまから2万8千年後に巡礼の旅に出発させてもドーキンス先生はうなずいてくれると思う。

 ヒト→チンプ・ボノボ→ゴリラ→オラン→テナガザル(系統樹と分岐樹、種の系統樹と遺伝子の系統樹)→旧世界ザル(世界の気候と植生が現在とほぼ同じだと認められる最後の地点・2,500万年前)→新世界ザル(色覚のこと)→メガネザル(毛のはえたカエル)→キツネザル(6,300万年前・白亜紀の大絶滅を終えて)→ヒヨケザル(滑空する!)・ツバイ(植物の隆盛)→齧歯類とウサギ類(遺伝子の延長された表現型)→ローラシア獣(カバ・アザラシなど異質な哺乳類たち)→異節類(貧歯類・アルマジロ)→アフリカ獣類→有袋類→単孔類(カモノハシ)→蜥形類(爬虫類・鳥類:ゴンドワナ大陸の分裂と走鳥類の分布、古磁気)→両生類(サンショウウオ・ネオテニー説)→肺魚→シーラカンス→条鮱類(ヴィクトリア湖のシグリット)→サメとその仲間→ヤツメウナギ・メクラウナギ→ナメクジウオ→ホヤ類→ヒトデとその仲間→旧口類(分子時計・牧畜と農業・光感受性・眼の誕生・交雑と種内差異・ショウジョウバエに於ける発生学と遺伝学・ホック遺伝子・中立説)(愛しのカイアシ類とはここで合流!)→無体腔型扁形動物(スノーボールアース説)→刺胞動物(クラゲなど)→有櫛類(ゴカイ・バッタ・フジツボ・ハキリアリなど)→板形動物→カイメン類→襟鞭毛毛虫類→ドリップス→菌類→アメーバ動物→植物→不確かなグループ→古細菌→真性細菌

 生命の始原までの巡礼を終えてドーキンス先生はこう問いかける。生物の進化=進歩の原動力である軍拡戦争とは? もう一度始原から始められたらどんな生き物が生まれるか?これについて先生はこんな風に書いている。赤外線感熱・反響ソナー・電気的接触・パラボラ反射器などの光学的原理に基づいた眼は宇宙の他の惑星に生命が存在しうるなら、私たちが地球上で知っていると同じやり方で発達させたという方に賭けてもいいだろう。それから、毒針・発音・滑空・ジェット推進方・反響定位などは多様の生物がそれぞれ工夫して進化させたであろう(一種の収斂現象)。また一つの種だけに見られる一回かぎりの進化もあるだろう。移動方法は二足歩行・四足歩行・うねらせての移行・滑空・飛行などあろう。だが、我々のような異常に発達した脳細胞を持つ二足歩行の奇妙な生物が誕生することは無いかもしれない。

 「島」という概念:生物学的な制約から移動できない距離が二つの場所を隔てていること。尾根の反対側や密度に異なる水、隣の浅瀬もある生き物にとっては「島」になる。地球自体も「島」なのだ。

 「最初に自然淘汰を始動させ、最終的に累積的な進化の壮大な叙事詩のすえに、ネズミや人類にまでたどり着かせることになった決定的な要素は何だったのか」
 「最初の遺伝子(自己複製子)」「最初の細胞(代謝体)」

 「超音波を発するコウモリは、一連の一寸刻みの微細な改良の結果であり、それぞれの改良は同じ方向上にある進化的趨勢を前に進めるように先行物に累積的な付け加えをして行く。これは当然ながら進歩である。...中略...しかし、こういった種類の進歩は、進化が始まったときから現在まで不変の、一様なものではない。それは韻を踏むのである。...軍拡戦争の過程における進歩...個別の軍拡戦争は、ひょっとしたら恐竜におこったような種類の大量大惨事の過程を通じて、やがて終わる。そしてまたふたたび全プロセスが始まるが、まったくのゼロからではなく、その軍拡戦争のはっきりと認められる初期の段階から始まるのである。...恐竜絶滅の後を受けてただちに上昇をはじめて以来、哺乳類もまたいくつもの絶滅の後のいくつもの小さな軍拡戦争、そのまた後の新たな軍拡戦争を行ってきたのである。軍拡戦争は、周期的な何段階もの進歩的進化の奔流において、以前の軍拡競争の韻を踏むのである。」

我々は、自らを知恵ある人 ホモ・サピエンス Homo-sapience と称しているが、何万年もあとの古生物学者はもしかしたら、愚かなるヒトという動物 Homo-insipience と呼ぶかもしれないとドーキンス先生は予見する。
 
 生命という点では植物の存在も私の始原の先祖とは思うのだが、古細菌や真性細菌になると、彼らに対する親近感はない。生命の誕生は濃いスープからなのは理解するが、(化学は昔から苦手だ)よく分からない。何年かたったら理解できるようになっているかもしれない。この著書自体が生物学の濃いスープのようなものだと思う。

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