2007-04-02

「闇市の帝王:王長徳と封印された“戦後”」     七尾 和晃 2007.1. 草思社 1,500円

 万年 東一氏が虚であるならば、この王 長徳氏は実である。  1946年終戦の年に,万年東一は39歳、王長徳氏は21歳。

 多くは語りたがらない王氏の聞き書きを下敷きに、かつて新橋東口や銀座で店を出していた人物を探し当てて、日本の混乱期の話を再構築していく。戦後60年という年月はその記憶の持ち主の年齢も80歳近いし、健在である人も喜んで話したがるような経験ではない。戦後を記録する時期はもう過ぎてしまったのかもしれない。七尾氏は、擁護することも無く、批判することも無く、淡々と歴史を語る。主人公以外の登場人物は宮崎学氏の著作と同じである。主人公である「万年東一」と「王長徳」、虚と実との息遣いが呼応している、不思議な二冊であった。

 あまりにも当然のことであるから、何処にも書いていない事実。漠然と解っているつもりになっていた事実が述べられている。
「其の頃の日本人が、戦勝国民となった中国人や解放国民の朝鮮人には強くモノが言い難かったのは事実だ。そして、GHQが終戦直後に出した“戦勝国民に対して日本は裁判権をもたない”という指令こそが、そうした情勢をさらに決定的なものにした。新橋や銀座で大いに商売を広げていた中国人や朝鮮人たちの土地は、やがて日本が国力を回復していくにしたがって、“東京租界”と呼ばれ、あたかも無法地帯であるかのように人々のおののきをまとっていく。」

 ヤミ市の時代を生きた当事者達の証言を記録した“東京闇市興亡史”(猪野建治編 ふたばらいふ新書、1999年発行)には、次のような記述がある。王たち中国人や、あるいは朝鮮人が繁華街で新勢力として台頭していく背景をなぞっている。
 
 <終戦の時点で、日本には236万5263人の朝鮮人と5万人を超える中国人(台湾省民を含む)がいた。彼らの大部分は、強制的に日本に連行され、炭鉱や鉱山、軍需工場、軍事施設建設の土木工事等の労働力として重陽された者たちだった。そうでない者も、朝鮮徴兵令、台湾徴兵令によって“日本兵”として兵役にかりたてられていた。日本の敗北で、彼らは強制労働現場からは解放されたが、何らの保証も受けず、無一物に近い状態で街頭に放り出された。
 街頭にあふれ出た二百数十万人の“解放国民”のうち、140万人の朝鮮人と若干の中国人は帰国したが、、朝鮮の38度線を境界とした米ソ両軍の分断進駐、持ち帰り資産の制限など、帰国しても安定した生活ができる保証がなかったため、“一時帰国”のかたちをとる者が多かった。かくて日本には、約90万人の朝鮮人と約四万人の中国人が残留することになった。しかし就職先はなく、彼らは民族的団結心を結集しつつ、都有地、公有地を占拠し、“解放区”を形成していった。彼らは、どぶろく、カストリ、ばくだんなどの密造酒の生産や、進駐軍兵士にわたりをつけ、PXから食料、洋酒、缶詰を買い取って数十倍のプレミアをつけ、闇ルートに流すことで事業基盤を固めていった。直営の露店やマーケットも建設した。
 昭和20年11月三日、占領軍総司令部は第三国人を“出来る限り解放国民として処遇する”と声明した。“解放国民”とは、“治外法権”と同義語であり、日本政府の法規制を受けないということである。これは第三国人の行動上の支えとなった。>

「1946年二月19日付けと26日付けの連合軍の指令によって、連合国軍である中国人に対しても、日本は刑事、民事両面での裁判権の執行が停止されたのは前述の通りである。これによって、王たち中国人には日本の警察権力が及ばない状況が生まれた。この日本が失った裁判権が、1950年に回復するのである。連合軍は、1950年10月18日、次のような覚書を日本政府と交わす。
“日本裁判所は今後日本にいる連合国の国民に対して占領軍要員として指定せられた以下の者を除き、その他のすべての者に対し刑事裁判権を行使するものとする。”
 これによって中国人に対しても、日本は裁判権を回復することになる。連合国側のこの方針転換に対し、日本の法務省は二ヵ月後の12月5日、念を入れて連合軍に確認している。法務省渉外課は、連合国総司令部法務局法律課のバッシン課長に電話でこう問い合わせた。
“新しい民事及び刑事の裁判権に関する覚書所定の手続規定は、本年11月一日以降においては、同日前に発生した犯罪にも適用される、と解してよいか” それに対し、バッシンはこう答える。
“しかり。そのように解してよろしい”
 今日では、刑事罰は、その法律ができる前の事犯に対しては“不遡及”が原則とされている。しかし、日本政府はこのとき、戦後がらそれまでまったく取り締まることができなかった過去の犯罪さえも、これによって裁かれるかどうか確認したのである。」

 マッカーサーが厚木に降り立ったそのかたわらで、多くの中国軍人もまた、続々と日本に到着していた。其のなかに、王長徳がいた。1946年6月、王は日本に到着する。(このとき26歳)GHQによる接収業務のかたわら、王は、新橋、渋谷といった主要な商業地を“獲得”していく。終戦直後の東京には、膨大な地主不在の土地が残されていた。ときに連合国進駐軍の一員として、またあるときは日本人から接収した大量の財をちらつかせる富豪さながらに、王はまさに焦土と化した戦後日本で縦横無尽に奔走した。」

 新橋に大量の土地を取得して国際マーケット(ヤミ市)を成功させ、上海にあったような豪華なキャバレーも経営した。彼の周りには政治家や実業家、ありとあらゆるヤミ・闇の社会の住人が取り巻いていたが、それも「1950年12月五日の占領軍による“新解釈”の発令によって、ついにその東京租界を支えてきた制度的支柱が崩れはじめたのである。隙あらばと待ち構えていた警察が、王の城に雪崩を打って突入する瞬間が着実に近づいてきた。」

 あとがきの書かれた2006年12月、王 長徳氏は健在である。

 七尾氏のこの著書は新聞の書評欄でみて、宮崎学氏の「万年東一」は図書館でふと目にした、返却された図書の中に「宮崎学」の背表紙が見えた所為。内容も知らず、ただ作者の名だけで借り出しただけだが、同じ時代背景を描いたものだとは思わなかった。同じ時期に引き合わせてくれた配剤に感謝する。
 尚、私的なことだが、当時50歳になった頃の私の父は、この時まさにこの地にいた。朝鮮総督府地質研究所・所長であった父は戦後まもなくGHQに呼び出されて、総督府時代に得た知識の全てを報告させられていた。郡山市に引き揚げていた一家に進駐軍からの電話連絡を受けた魚屋の亀さんが青い顔ですっ飛んできた時は、一瞬戦犯としての呼び出しかと思ったそうだ。それから五年ほど、父の単身赴任が続いた。月に一度、満員列車で帰ってきた。西洋のお菓子(懐かしい味だった!)やら、東京のヤミ市で買った食べ物がお土産であった。

「 人間とヘビ : かくも深き不思議な関係 」    R.& D.モリス 小原 秀雄監修 藤野 邦夫訳  2006.8. 平凡社 1,300円








日本語の勉強です。

・「この角は両目のうえにある、ちいさな突起にほかならない」
 →「この角は、両目のうえにあるちいさな突起にほかならない」または
 →「両目のうえにあるこの角は、ちいさな突起にほかならない」の方が日本語として読みやすいのでは。

・「たとえばジョン・ブラウンは“1799年にセントヘレナの要塞砲兵隊の六人の脱走兵が経験した異常な冒険と苦しみの感動的な物語”というタイトルのロマンティックな読み物で、八メートル以上もあるボアコンストリクターとの身の毛もよだつ出会いを語っている。このヘビはかれらが一本の木に寄り集まっているときに、夫の手からヒロインを強奪したのだった」
 →「...六人の脱走兵たちが一本の木に寄り集まっているときに、このヘビが夫の手からヒロインを強奪したのだった。」この文章の前とは全く繋がりのない話なので、いきなりこのヘビと書かれると混乱の極みへと転落するのだ。

・「ヘビはアルコールによる元気の回復方法が使えないときには、ウシ、ヤギ、ヒツジの乳房を吸って手にしたミルクで満ち足りていた。」
 →手にした、ではなくて、手に入れたでは?もっともヘビには手はないが.....

・「最後の数世紀間の目撃情報は、膨大な数で急速に消滅する、この動物の生命の最後のきらめきだと主張されたのである。」意味が取れません。

・「ヘビの自然な習性が知られるようになるにつれ、事実はフィクションよりエキサイティングであることが明らかになったので、かれらはたぶん悲観的すぎるのであろう。」悲観的すぎるかれらとは?

・「慣れない人が見れば、攻撃的なヘビと、ひどく落ちつかないヘビを見わけにくい。」
 →「...ひどく落ちつかないヘビとは見分けにくい。」


・「毒ヘビもときどき、手で扱わなければならないことがある。」
 →「毒ヘビも、ときどき手で扱わなければならないことがある。」


・「現在の中国のヘビ食は、広く広東地区に制限されている。」
 →「現在の中国のヘビ食は、広東地区に限定されている。」

 人間の頭の中で“”にであうとそこで思考が途切れてしまうという習性がある。句読点という印によって自動的にそうなってしまうのだ。だから、上記のような文章でちょくちょく足が止まると草臥れてしまうのだ。適当に、三頁めくっただけでこのような日本語に出会う。藤野氏の翻訳した文章を読んだ上で、監修した小原氏がいる。そして、この文章で良しとした編集者がいる。この編集者の責任は大きい。格調高い平凡社ライブラリーとしては異色の一冊といえよう。
291頁の本文に続いての監修者の解説は学者らしく真面目で分かり易い文章だし、訳者のあとがきはすこしくだけてはいるがまともな日本語である。であるから、それゆえにそこまで辿ってきた日本語の文章は何だったのか、不思議としか言えない。もしかして、丸投げ?

 著書についていえば、「岩場にのこされたヘビ・神々のなかのヘビ・エデンの園のヘビ.......」というように古今東西のヘビにかかわる事象を網羅した“ヘビオタク的”な著作である。フレーザーのような安楽椅子の生物(博物)学者を思わせる。

例えば、階段がある。階段というものは等間隔の段があり、なおかつ、その一段一段は水平を保っていることだ。階段を登っていくとする、見た目には等間隔のようでもほんの少しの差があると、人間の感覚は察知してしまう。水平面がほんの少しどちらかに傾いていても察知する。だが其の差は“ほんの少し”であり、人が登り降りするのにはなんら不都合はない。足の裏が不快なだけなのである。気にならない人もいる。この翻訳文はこの階段のようなものなのだ。日本語として読めないわけではない。気にするほうが可笑しい!

「万年 東一 上・下」 宮崎 学 2005.6.      角川書店 各1,700円

「万年 東一」という存在は虚である。その虚の存在を縦糸に実の歴史が交差している。

 昭和13年に31歳の彼が戦前のきな臭い新宿あたりの愚連隊として頭角を挙げるのは、左翼の社会大衆党の党首安部磯雄を襲撃したからである。このことが最後まで万年の名をヤクザでもテキヤでもない愚連隊という存在を裏の社会に知らしめる。フイと上海に渡り「愚連隊」として泳ぎきる。帰国した彼を赤紙が待っていて、中国戦線へ逆戻りとなる。敗戦。焼け野原の東京・新宿。闇市をめぐるテキヤ・博徒の縄張り争い。万年に憧れて愚連隊になったという設定で登場する特攻隊上がりの安藤昇。事件も人も実際の名前で登場している。そんな意味で虚の縦糸に実の横糸と表現した。作者はフィクションだと断ってはいるが、巧妙にしくまれたノンフィクションといってもいい。こんな書き方のノンフィクションがあってもいいだろう。

 60年安保の際にデモ隊の指揮をとり方で野次馬として見物していた万年の目を見張らせた宮内我久と武術家にして学者の藤沢梵天(虚)と三人で、アメリカが介入したばかりのベトナムへと向かう。サイゴンに着いてすぐ、食堂に入ってまもなく銃撃戦に遭遇。そして、最後の一行はこうだ。

 「三人は、目を見合わせて、それから自分が目指した方向に、一斉に駆け出していった。」

 「宮内我久」という男:ひょんなことから万年に引き合わされての万年との会話。
「あれは、喧嘩の指示としちゃ、適切だったよ。学生なんかが、なかなか気づくことじゃねぇ。おめぇ、ガキの頃から、相当、喧嘩してきたな?」
「いまでもまだ、ガキのまんまですけど、喧嘩は随分やりました。」
「へぇそうかい。愚連隊か?」
「いえ、うちの実家、ヤクザなんです。親父が組長してまして、子供の時分から、しょっちゅうよその組と 出入りばっかりたってましたから。普通の学生よりは、喧嘩慣れはしてるとおもいます。」

 宮内学久は自分のことをガクと呼んでくれという。ミヤウチガク。宮崎学。宮内の語る経歴は実際の宮崎学の経歴なのだ。ここには虚のような顔をした実が登場している。以前に田中清玄という人物の聞き書き本を取り上げたことがある。「面白くない筈がない...」筈のつまらない本だった。作者の筆力の差か。膨大な資料を横に、自身の経験や哲学を削げるだけ削いだ結果の著書である。戦前と戦後の社会史として格好の教科書のように感じられた。

宮崎学の本:「突破者ー戦後史の陰を駆け抜けた50年」
      「幣ー中国マフィアとして生きた男」
      「アジア無頼ー幣という生き方」     その他未読書多々あり。