2006-12-30

「グリム童話の世界~ヨーロッパ文化の深層へ」 高橋 義人 2006.10. 岩波新書 700円

 メルヘンは むかしむかしあるところに ではじまり、いつまでもしあわせにくらしましたとさ で終わる、どの時代・どの国の誰にでも当てはまる現実には実現不可能な夢の話。その土地の集団記憶とも.....

 ヨーロッパに於けるキリスト教は西暦313年時の皇帝コンスタンティヌス一世による公認(ミラノ勅令)といわれているが、これは単にローマ帝国内のことで、それも教会内での闘争の繰り返しが激しくいまだ基盤が確立していなかった。異教徒・異端者の改宗を強い 後のヨーロッパ共同体の基礎を築いたのは西暦800年に即位したカール大帝である。
 「今日のイタリアからドイツに至る西欧社会がほぼキリスト教化された後でも、北欧にはまだキリスト教化の波は訪れてはいなかった。そのため いわゆる西欧社会では古代ゲルマン神話を示す文献がほんのわずかしか残らなかったのに対して、北欧では12世紀から14世紀にかけて編纂された“サガ”、9世紀から13世紀にかけて書かれた“エッダ”が、キリスト教以前のゲルマン神話・ゲルマン信仰を記した貴重な文献として残った。」「ニーベルンゲンの指輪」や「カレワラ」も含めよう。

 グリム兄弟はドイツ民衆の間に広まっていた童話=メルヘンを蒐集し始めてまもなく、メルヘンの中の非キリスト教的な性格に気づいた。グリム兄弟より前に、イタリアのバジーレ(1575?-1632),フランスのペロー(1628-1703)等の蒐集したメルヘンがあったが、どれも彼ら自身の好み・近代的な解釈に合わせて脚色されていた。グリム兄弟は、そうした方法はキリスト教以前にルーツを有するものの多いメルヘンの原型が損なわれてしまうと考え、自分達が蒐集したメルヘンは出来るだけ原型に近づけようと心がけた。とは言っても、「より多くの読者を獲得するために読みやすく、文学作品としても認められるように、文章に磨きをかけた。」のだが...

 読む人びとの存在・印刷物の流布。固定化されたメルヘンは口承物語とか伝承物語とはかけ離れた別種のモノになっていく。キリスト教社会になって、その重圧のなかで生き延びてきた物語からキリスト教色を剥ぎ取り、G兄弟の考えた「古代ゲルマン信仰」の時代に戻す為の善意からなる「改変」をした。民俗学的・神話学的資料としての価値は薄められてはいるが、その時代背景を考えれば革新的意識の変化と言えよう。

 「ハーメルンの笛吹き男」で阿部謹也氏が述べているように、教会は、土着の民間農耕儀礼は異教的なルーツに由来していたとして完全に弾圧するよりは、キリスト教のなかに取り込んでしまう方を選んだ。12月から5月までの農耕儀礼を見てみよう。冬至祭・太陽神の誕生日(ミトラ教)=クリスマス、冬の最も寒い時期のカーニバル=謝肉祭、春の来訪を告げるのは復活祭、夏の到来を祝う五月祭り。これらはより多くの収穫を願う「冬追い、夏招き」の行事である。これらの農耕儀礼は古代ゲルマンに限らず普遍的なものである。日本では立春の前の「節分会」や、正月に祝われる奥三河の「花祭」、秋田のナマハゲなど。短絡的に古代ゲルマンの あるいは古代ケルトやドルイド教の伝播の証拠として面白可笑しく論を言い立てる輩すらいる。

 「シンデレラと変身譚」:「シンデレラ」には種々の変容が見られるが、一貫して同じなのは幸福な時代から不遇のどん底に、再三変身しては歓喜を垣間見て、最後には結婚して幸せに暮らしましたとさ、で終わる。この苦難から幸福へという移行が冬から春への推移と合致すると言うのだ。「民衆がこのようなメルヘンを作り出したのは、単に劇的効果を狙っただけではあるまい。私見では、シンデレラが美から醜へ、また醜から美へと変遷してゆくのは、季節が夏から冬へ、冬から夏へと移り変わるのと対応しているのである。」と筆者は述べているのだが、はたしてそこまで深読みしていいのだろうか。疑問である。民間伝承の現代的解釈、いわば後知恵ではなかろうか。

 「異類婚姻譚」:メルヘンでの異類婚姻の形式は、父親が目先の願望をかなえる為につい口走った約束から娘と動物との婚礼話が始まる。その動物はもともとは人間で、ある種の呪いの下にあり、呪いが解けたときに人間に戻って幸せになる、というのがお決まりの筋立て。変身させられていたモノが人間に戻ることであり、動物が人間になることではない。動物に変身させられていた人との婚姻で、動物との婚姻ではない。
 境界の外に住まう生き物は獣で、家畜とは異なった存在だ。そして家畜とは明確に人間の下に位置づけられ、従属物なのだ。また、人間にも当てはまる。この場合の人間とは市民であり、勿論 境界内に住むキリスト教徒である。野山の獣と家畜:異教徒とキリスト教徒:市民権を持たない者と市民。この構図が西洋のキリスト教国の原理なのだ。
 日本にも異類間婚姻の物語はある。「鶴の恩返し」がそうだし、「天女の羽衣譚」「南総里見八犬伝」なども広く言えばこの範疇にはいるだろう。まず人間からなんらかの恩をうけた動物(獣)がいる、危機に陥った恩人を助ける為に人に変身しその身を削って尽くす、最後は人の欲深さからくる言動に絶望し、あるいはその本性が露見して山に帰るところで終わる。あとには自分の愚かさを嘆く人がたたずむだけでハッピーエンドはない。あるのは悔恨の情だ。動物は自らの意思で人に変身し、意思に反して去っていく。

 西洋でもキリスト教が広く深く浸透する前はこうではなかったろう。筆者は、L.レーリヒの著書「メルヘンと現実」に次のようにあると紹介している。レーリヒが特に注目しているのは、イヌイットの研究家として名高いK.ラムッセンの残したイヌイット・メルヘンの研究のなかで、動物が人間に、人間が動物になり、人間が四足で地面を這い回ることがまるで当然のことのように描かれている。そのことから「動物への変身はもともとは罰でも呪いでもなければ、不思議なことでも厭わしいことでもなかった。というのも動物世界と人間世界の間には、後世に見られるような教会が無かったからである。むしろ動物世界と人間世界は同等の地位を持つものとして隣接していた。」と。

 野や山の獣が人間社会で生き残るには、人間の命令に従う家畜という身分を受け入れなければならない。砂漠で生まれたキリスト教の下では、自然界の現象や動物、異教徒はねじ伏せて支配せねばならない存在だ。東洋では、宗教は森で生まれた。命あるものはすべて複雑に係わり合い、主従ではなく対等の存在である。明治維新から、特に第二次大戦後からの意識の変化はめまぐるしい。その中で薄められたとはいえ動物への親和性が根底にある社会で、ペットを完全に人間の命令通りにさせるのは不得手なのは仕方が無いのかもしれない。それどころか人間同士ですら管理しなければ不要な摩擦が起きるの社会になっている。ここから、「人間の自己家畜化」という発想が醸しだされてくるのである。

 文字化されたメルヘンはもはや口承文芸ではない。「固定化したメルヘンは、結局のところメルヘン世界全体の死を招いたとG兄弟と同時代人のアルニムはいった。」口承文芸が文字化され固定されると、そこから創作童話・幻想小説が生まれた。ホフマン、アンデルセン、ルイス・ キャロル、サン=テクジュベリ、イエーツ。エンデやC.S.ルイス、トールキン、マクドナルドに代表される新しい文学ジャンルである。そして、今、映画という新しいメディアと手を携えて「映像の文化」へと進んできた。CGでの合成はどんな世界でも現実化してしまえる。もはや個々人の自由な発想の場は少なく、固定化されつつある。

 ペローがその時代の読者層である宮廷人たちに、G兄弟がより多くの読者を獲得する為に文章を練ったように、ディズニーに代表される「映像の文化・アニメや漫画」は口承も伝承も関係ない、かつてメルヘンが持っていた農耕的性格を失い、歴史的な背景を持たない他愛のない夢物語と化してしまった。

2006-12-19

「人類の自己家畜化と現代」 尾本 恵市 編著 2002.7. 人文書院 1,600円

本書は国際高等研究所課題研究「人類の自己家畜化現象と現代文明」(1996-1998)が基になっている。

この本は殆どヒトの絶望を描いている。現在、アフリカに住む我等の従兄弟たち(ボノボ・チンパンジー・ゴリラ)が絶滅危惧種になっているが、その姿は明日の我々だと、警鐘を鳴らしている。ただ、もう人間の知恵ではどうにもならないところまで事態は進んでいるのだ。滅ぶのは人類をふくめた一部の生物で、多くの生物達は別の生態系を織り出していくことは確かなことでもある。

「はじめに」 埴原 和郎(専門は人類進化学を中心とする自然人類学):
 「人類の進化は高度に文化の影響を受け、他の生物に見られない特徴を獲得するにいたった。」
 「人類は500万年あまり前から独特の進化を始めたが、生物の進化史からいえば、極めて短時間であること、特に、脳の変化は三倍余りになり、複雑な機能をそなえるようになった。この“爆発的”進化は自然環境への適応のみによって生じたとは考えられず、文化環境への適応という要因を考慮せざるを得ない。」

 文化を運び次代に受け継がせるために遺伝子は存在するというミーム論にも関係してくると私は考える。

 「人類では文化が進化の方向を左右するという例が少なからず見られるため、身体的進化を論ずる場合にも文化の影響を無視することは出来ないにである。」「家畜は文化環境の中で生まれ、育ち、そして集団として進化する。」
 「身体的特徴が文化の影響を受けるという点では、人類も家畜も本質的に同じと考えることが出来る。」 「コントロール技術が未熟のまま文明の利器が見切り発車の状態で実用に供され始めていること。」「現代人の体が、心理的な側面を含めて、一万年以上前の旧石器時代の環境にしか適応していないということ。」

「メタファーとしての自己家畜化現象ー現代文明下のヒトを考える」
尾本 恵市
:動物における家畜化とは、咀嚼器官を中心とした顔面部の短縮がまず思いつく。「色素の減少、貧毛、縮毛など野生動物にはなく、ある種の家畜にみられる特徴が、人類では地理的変異として普通に出現し、いわゆる人種差の根拠とされる。.....人類は無意識の内に、自己をある方向に“改良”、つまり“自己家畜化”した産物ではないだろうか。.....家畜は人間によって自然から保護・管理(単に固体の管理だけでなく、生殖も管理)されて、つくられたが、人類は文化によって、自己を自然環境から隔離し、その結果として、家畜と同様の性質を持つに至った、とされる。」
 尾本氏は、「自己家畜化という比喩には、ヒトの社会における“差別”という重大な現象を理解する鍵があると気づいた。.....人間は、家畜を“有用さ”という価値判断によって改良してきた。同時に、人間は、互いに個人または集団を“有用さ”という基準によって差別するようになったのではなかろうか。」

 生物の進化にとっての一万年:「一万年前のヒトが仮にこの世に生まれて、われわれと同じ学習・教育をうけたとして、彼または彼女が現代人と著しく異なる行動をするとは考えられないのである。われわれは、一万年前の遺伝子で現代文明下の急激な環境変化にたえねばならないともいえる。」
「作り上げた環境を離れては生存できないこと、それに集団として教育やマスコミによって画一化された世界観を植えつけられ易く、個性が欠如する傾向がある。」

 平成11年2月、尾本氏は、この共同研究をしめくくる国際ワークショップでの基調講演の中で次のように発言を纏めたとある。「“自己家畜化から自己規制する発展へ”という道筋を示すことが21世紀の人類学の究極の目標である。」と。

「人間の自己家畜化を異文化間で比較する」 川田 順造:
「自己家畜化の認知的側面」 松井 健:

「清潔すぎることの危うさ」 藤田 紘一郎:今、日本が危ない、日本の子どもたちが危ないと筆者はいう。「子どもたちが自分の体からでる“きたないもの”への嫌悪感を薄めることが大切ではないかと思った。人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは“人間が生き物”であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人と自然と付き合うことができなくなっていくであろう。体から出るものを忌み嫌うことは、当然、ヒトに共生している寄生虫や細菌を“異物”として排除しようとする。その結果、人間が本来もっている免疫システムまでも弱めてしまうのである。」

 「日本の社会から全ての“異物”を排除してしまったから、その社会に住む日本人は異物とうまく付き合う術をうしなってしまったようである。いまの日本の社会にはもっともっと異物が必要である。規格はずれの人や物が必要である。街も入り組んだり、汚い場所があってよい。そうすれば、もともと本人には無関係なダニの死骸や不潔な人や物にも気がつかなくなるであろう。」

 「言葉の世界でも異物の存在を許していないようである。.....“差別語”は確かに表面上は汚く、使ってはいけない言葉かもしれない。しかし、その言葉を周囲の状況やその人との関連でみると案外暖かいものだったりすることがあるのではないだろうか。今日の言葉をとりまく状態は、差別語という異物をそれこそ疫病のように忌み嫌うあまり、確かに言葉の免疫力がうしなわれてしまったといえるだろう。」
 「社会から異物を排除し続けると、社会の免疫力が低下する。」「日本人の免疫性が低下しているばかりでなく、日本社会の免疫性が低下しているとすれば日本人の未来は無いだろう。」

 「.....私は人類はあと100年、すくなくとも1000年以内には滅亡するだろうと考えている。.....われわれの行動の遺伝的基盤は数万年の間に作られたもので、一万年前の人類とほとんど変わっていない。したがって、文明のここ数千年間の激しい変化には、にわかに対処できるはずがないのである。」
 
 藤田紘一郎氏はこう結論した。「現代の文明が過剰な清潔志向を生み、それが現代人の身体的および精神的な衰弱を導いている。その一例として、過剰な清潔志向が、雑菌や寄生虫がいるからこそ成立していた人体の免疫システムを崩している。」

「いま、子どもの口の中で何が起きているか」 桑原 未代子:
「ヒトにとって教育とは何かー自己家畜化現象からの視点」 井口 潔:

「ペットと現代文明」 吉田 真澄:「ヒトのペット化とペットのヒト化」ペットが人間社会で共生するには、人間社会のルールを学び逸脱しないようにしなければならない。欧米の公園や街路、公共施設ではペットたちが飼い主の命令に従って行動する。それが出来なければ、ルールを躾けられなかった飼い主が社会のなかで糾弾される。人格さえ疑われるのだ。家畜に対する文化の差といえよう。日本ではペットとの一体化から来る他人との摩擦が増加している。人間社会の常識的ルールを理解できない飼い主がペットを躾けることなど出来ないのだ。東洋(日本)での家畜にたいする姿勢が欧米と異なるのは、文化の成り立ちが異なることが要因である。農耕と牧畜との差といえば理解し易いかもしれない。他者に厳しくすることが不得手なのだ。他者(人・ペット)を甘やかすことが優しいことではない。

「ヒトの未来」 武部 啓:「ヒトの未来はクローン人間であってはいけない。」遺伝子の多様性こそが種の継続を可能にする。クローニングでうまれた命の細胞の年齢は、提供した個体の年齢なのだ。ヒトのクローンを作るということは、どんなに解釈しても利害が、それも個人的な利害が絡んでくる。優秀な頭脳・芸術家・運動選手などが自分とおなじ能力をもつ個体が欲しくなる、そんな固体が家系にいればと思う。また、余命いくばくも無い一歳の子どもとそれ以上妊娠できないと診断された母親がいるとしよう。その母親がクローンのわが子を望んで何が悪いという理論がある。この場合の細胞は一歳だ。だが、もし、この子に先天性の障害があっても母親はクローニングを望むだろうか。そこに選別という意識が見えてくる。もし、ヒトのクローニングが許されるならば、子どもの誕生と同時にスペアとしてのヒトが生まれるだろう。それだけの財力があればの話。SF小説の世界ではもうこの珍しい話題ではなくなっているのだ。

 「生物の最大の特徴は多様性にあると、私は確信している。多様性とは、一人一人の顔つきも、性格も、考え方もことなることであり、人間社会はそのような人間の集団なのである。クローン人間の作成は、そのような多様性に支えられた人間社会を否定し、ある特定の意図のもとに人間と人間社会を改造しようとする方向性を秘めている。西洋諸国の、クローン技術への反発は、本能的にそれを感じ、多様性を尊重する西洋文化への挑戦と受け止めた結果であった、と私は確信している。日本は本質的に人間の多様性には否定的な文化なのではないだろうか。.....人間の多様性の尊重は、障害者に対する態度にもしばしば反映する思想である。障害者を同情し、あわれむべき対象と見るのか、障害者も人間の一つの姿にすぎないと、同じ視点から見るのかという根本的な論議が日本では不足している。、と私は感じている。特に、先天的な障害に対して、そのような人は生まれてくるべきではなかった、あるいはこれから生まれないようにすべきである、という排除の概念が、いわゆる先進国の中でも日本は特につようのではないか。」
武部氏の結論:「ヒトは人類の英知によって生物種として存在し続けるだろう、との確信である。」

「おわりに」 尾本 恵市

2006-12-09

「大地の咆哮ー元上海総領事が見た中国」 杉本信行 2006.7. PHP研究所 1,700円

 初めて中国へ行ったのは1979年3月、夜遅く北京に着いた。市内まで暗い道をバスが行く。広い道の交差点には裸電球が吊り下げられていて、人が大勢歩いている。全ての職場は3交代だからとのこと。3~5階建ての大きな建物の窓ガラスは割れたままであったり、ところどころぼんやりした灯りが見える。やっと開放が政策として始まったころで、外国人は日本でいうパンダ並の奇異な動物として見物の対象だ。トルファンなどのシルクロードを訪ねた。それから2000年までに何度も少数民族を訪ねて地方を旅した。

 山を幾つも越えてやっと車の通れる道が出来た村。水は竹や木の樋で山からひいて来る。電気もまだの土地が多かった。細い電信柱が道の端にたっている。電線はない。通訳の中国人に尋ねるとこう答えた。地方の人は教育がないから盗むのだそうだ。公のものは所有者がいないから貰っても気にならないのだと。公衆に係わることについては 工夫するとか改善するとかの意識は皆無のようだ。生ゴミは店のそとに放り投げる。共同厠所は使用に耐えられない。バスや路面電車に乗るときに並ぶという事はしない。生活のすべてがわれがちになのだ。

 大きな都市に近づくと工場からの色とりどりの煙が煙突から勢いよく噴出している。河は汚染された水が泡を巻き上げて流れている。建築現場や道路工事で働いている男達は私服。革靴や穴のあいたスニーカー。
老朽化した工場では劣悪な環境で、生産効率がいいとはお世辞にもいえない。環境破壊はすさまじい。
 
 現代の中国がかかえる最大の脆弱性は、国民の貧富の差。それと地域間の格差。都市と農村の間の差別感情。東京などより凄い林立する高層建築物。超豪華なホテルから地方の招待所まで泊まったが、部屋の水回りの完全に施工されているところはなかった。壁や床の亀裂へと滴り落ちた水が流れていく。見かけは豪華だが仕事はやっつけ仕事、職人の仕事ではない。

 この著書のなかで溜息と共に活字になっているのは、「何故、中国は気づかないのだろうか」ということだと思う。あまりにも広大で、あまりにも多い人口。殆ど現金収入のない地方の奥に住む少数民族。いままで中国の人が書いた「現代中国の悩み」の本を随分読んだ。ジャーナリズムという歴史のない、あるいはその教育のない報告は正直なところ、気の毒とは思うが説得力が弱い。なにもかもが桁外れなのだ。

 杉本氏のこの著書の中で述べている「水」について述べよう。中国で豊かな水資源のあるのは江南の地、揚子江の潤す土地と砂漠のオアシスだろう。黄河の水は無いに等しく、大きな河川は勝手にダム建設で水を取り込む。中国の年間平均降水量は660mm、日本の四割程度。使用可能な水資源保有量は世界第四位だが、一人当たりの水資源量は世界の一人当たりの平均量の四分の一。「貧水国」なのだ。
 
 驚くべき統計が紹介されている。降水の五分の四は南部に、耕地の三分の二は北部に。降雨量は夏と秋に集中し、夏の四ヶ月の降雨量が南部では年間降雨量の60%、北部では80%、このため水資源の三分の二は洪水として流失してしまうし、夏の豪雨を溜めようがない土地が多い上、黄土高原では樹木が極端に少なく、保水能力が乏しい。沿海部の都市や北京での水消費は増加し続け、地下水の汲み上げから地盤沈下をもたらしている。都市部での水不足の解消には農業用水をあて、また工業用水にはやはり農業用水をまわす。同じ量の水を消費しても工業製品は価格にして70倍もの価値があるからという理由で。
 その結果、農民が生活に使う水の確保もままならない土地すら出てきている。人口増加に伴い水消費は増加する上に、生活が豊かになれば肉や野菜の消費も増える。水の絶対量は増えない。地下水の水位が70mも下がった山西省の例も報告されているという。水難民が出始めている。水の浪費も問題だという。大都市での水道管からの漏水は20%にも及び、また工業面でいえば、先進国で1トンの鉄鋼を生産するのに平均6トンの水を使うが、中国では20~50トンに水を使う。紙の生産でも2.5倍に水を使う。設備の改善が早急な問題になってきている。

 温暖化による生態系の破壊、気候変動などによる砂漠化が着実に進行している。中国の砂漠地域の面積は国土の28%にもなり、90年代には毎年神奈川県の面積に相当する面積が砂漠化していたし、現在ではもっとその速度が加速し、毎年大阪府の二倍の面積が砂漠化している。飛行機からみる北京はオアシスなんだと実感できるし、砂漠は18kmのところまで迫っている。

 著者はこの本の目次に、「中国との出会い・尖閣諸島問題・経済協力について・台湾人の悲哀・対中ODAのこと・搾取される農民・反日運動の背景・靖国問題・転換期を迎えた中国の軍事政策」をあげている。

中国で問題なのは、差別・教育、それに公共という概念だろう。
 農村と都市の間の法的な裏づけのある身分差、貧富の差は仕方ないとしても。あって無きが如きの義務教育。三権の独立性、わけても司法の独立。国政に加わっていない黒子の存在。環境破壊についての認識。
 中国は大きすぎるのかもしれない。広すぎるし、人口も多すぎる。世界中の環境の見本市のような自然。どんな意味においてもコントロール不可能なことを認めようとしない政府。もしかしたら、人類の生存の鍵は中国が握っているのかもしれないと思う。
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中国人留学生の話:弁当屋にバイトに入ったという情報が流れると、友人や友人の友人は弁当を買いにいく。知り合いがくると何も言わなくても一ランクも二ランクも上の惣菜をサービスするから...

スーパーの地下の食堂で:札幌ラーメンとかコーヒースタンド、クレープ屋と並んで本場中国の味と称して店ができた。しばらくすると中国人の女性が一人で切り回すようになった。一服するのにその食堂の隅で一息入れていると嫌でも目につく。いつ行っても知り合いらしい人が何人かテーブルを囲んでいる。頼んでいないのに料理が次々運ばれる。中国茶も。店の女性も一緒になって中国語でおしゃべりに夢中。日本人の客が何かを注文している姿は見たことが無かった。