2007-09-11

九月の本、中国。


「危険な幻想・中国が民主化しなかったら世界はどうなる?」 ジェームズ・マン 2007.5. PHP研究所     1,500円

「大地の慟哭・中国民工調査」    秦 尭禹 2007.6. PHP研究所   1,800円

 一昔前には「盲流」と言われていた出稼ぎ農民の都市への進出である。近代的な名称「民工」に名を変えた。うんざりするほどの胸がいたむ事例のあとに次のような章がある。「労働災害を引き起こす四つの原因」1.時間を超過した重度の労働、 2.防護措置がとられていない劣悪な労働環境、 3.労働環境に対する軽視。驚くべき四つ目の原因は、4.民工に知識がない なのだ。無知であることが労働災害の原因だと著者は言う。無知であることを責めてはいけない。無知であるままに見て見ぬ振りをしている事こそが罪なのではないか。1~3までは、無知ではない経営者や行政の問題だ。労働者の権利を護る法律や条令はあるが、それは単にあるというだけで、現状に対応はしていない。報道ではこの著書とおなじく悲惨な事例をあげるに留まる。根本的な解決まで行くことはないといえよう。

 「出稼ぎ」。いまでは若い二親が幼い子供をその祖父母に預けて都市へとむかう。病気にならないように怪我をしないようにと気遣うが、躾けや宿題を見るほどの最低の教育もおぼつかない祖父母のもとで、甘やかされ非行に陥る子供達が多いと著者はいう。こいう著者の目線が気になってくる。子を連れての出稼ぎではどうかといえば、都市でうまれた出稼ぎ農民の子等を含めて、教育を受けられる保証はない。農村戸籍のままで都市に住むこと自体がありえないことなのだ。あえて都市の学校に通おうとすれば都市の生徒の何倍もの学費を要求される。民工の子弟等の小学校は「私立」で絶えず廃校の危機に対面している。出稼ぎ先で生まれた戸籍の何処にも載っていない「黒子」状態の子供達も存在する。都市住民からの蔑視もひどい。
 先に富めるものからという理屈が形をかえてあらゆる階層にはいりこんでいる。疲弊していく農村、都市から破壊されていく環境。ほんの一握りの発展した経済空間をみて中国の近代化は発展し、欧米並みになったと思うかもしれない。想像を絶する格差は表通りには出てこない。一握りの富裕層が闊歩している。

 欧米人とくにアメリカ人の対中国感はといえば、「危険な幻想」でマン氏はいう。マクドナルドで好きなものを選べ、スタバのコーヒー、アルマーニのスーツにベンツを知った中国が民主主義に移行しないはずはないという幻影を信じている間は、不適切な報道に出くわせば「あぁ、これは例外だ」と決め付けてしまう。全国的な民主的選挙など圧倒的少数の富裕者や政府が許すはずがない、と氏はいう。たとえ共産党が無くなっても同じ性質の機構を持った組織が生まれ、同じように国を動かすだろうと。

 中国という国は不思議な国で、一つの国のなかにもう一つの国、発展途上国を持っているようなものだと、私はおもう。安い労働力を提供し、農産物をつくり、別の行政の範疇にある便利な国。二つの戸籍が存在することが厳然とした身分制を作っていることに、この二冊の著書は触れていない。公称13億のうち、一億足らずの都市戸籍所有者と、同じくらいの数の無戸籍者である黒子。

 大きすぎる国、中国。なにもかもが桁外れの国、中国。

2007-07-28

七月の本


「ゲットーを捏造する・アメリカにおける都市危機の表象」 
ロビン・D.G.ケリー 2007.4. 彩流社 2,900円

「黒人差別とアメリカ公民権運動・名もなき人々の戦いの記録」
ジェームス・M.バーダーマン 2007.5. 集英社文庫 700円

2007-04-02

「闇市の帝王:王長徳と封印された“戦後”」     七尾 和晃 2007.1. 草思社 1,500円

 万年 東一氏が虚であるならば、この王 長徳氏は実である。  1946年終戦の年に,万年東一は39歳、王長徳氏は21歳。

 多くは語りたがらない王氏の聞き書きを下敷きに、かつて新橋東口や銀座で店を出していた人物を探し当てて、日本の混乱期の話を再構築していく。戦後60年という年月はその記憶の持ち主の年齢も80歳近いし、健在である人も喜んで話したがるような経験ではない。戦後を記録する時期はもう過ぎてしまったのかもしれない。七尾氏は、擁護することも無く、批判することも無く、淡々と歴史を語る。主人公以外の登場人物は宮崎学氏の著作と同じである。主人公である「万年東一」と「王長徳」、虚と実との息遣いが呼応している、不思議な二冊であった。

 あまりにも当然のことであるから、何処にも書いていない事実。漠然と解っているつもりになっていた事実が述べられている。
「其の頃の日本人が、戦勝国民となった中国人や解放国民の朝鮮人には強くモノが言い難かったのは事実だ。そして、GHQが終戦直後に出した“戦勝国民に対して日本は裁判権をもたない”という指令こそが、そうした情勢をさらに決定的なものにした。新橋や銀座で大いに商売を広げていた中国人や朝鮮人たちの土地は、やがて日本が国力を回復していくにしたがって、“東京租界”と呼ばれ、あたかも無法地帯であるかのように人々のおののきをまとっていく。」

 ヤミ市の時代を生きた当事者達の証言を記録した“東京闇市興亡史”(猪野建治編 ふたばらいふ新書、1999年発行)には、次のような記述がある。王たち中国人や、あるいは朝鮮人が繁華街で新勢力として台頭していく背景をなぞっている。
 
 <終戦の時点で、日本には236万5263人の朝鮮人と5万人を超える中国人(台湾省民を含む)がいた。彼らの大部分は、強制的に日本に連行され、炭鉱や鉱山、軍需工場、軍事施設建設の土木工事等の労働力として重陽された者たちだった。そうでない者も、朝鮮徴兵令、台湾徴兵令によって“日本兵”として兵役にかりたてられていた。日本の敗北で、彼らは強制労働現場からは解放されたが、何らの保証も受けず、無一物に近い状態で街頭に放り出された。
 街頭にあふれ出た二百数十万人の“解放国民”のうち、140万人の朝鮮人と若干の中国人は帰国したが、、朝鮮の38度線を境界とした米ソ両軍の分断進駐、持ち帰り資産の制限など、帰国しても安定した生活ができる保証がなかったため、“一時帰国”のかたちをとる者が多かった。かくて日本には、約90万人の朝鮮人と約四万人の中国人が残留することになった。しかし就職先はなく、彼らは民族的団結心を結集しつつ、都有地、公有地を占拠し、“解放区”を形成していった。彼らは、どぶろく、カストリ、ばくだんなどの密造酒の生産や、進駐軍兵士にわたりをつけ、PXから食料、洋酒、缶詰を買い取って数十倍のプレミアをつけ、闇ルートに流すことで事業基盤を固めていった。直営の露店やマーケットも建設した。
 昭和20年11月三日、占領軍総司令部は第三国人を“出来る限り解放国民として処遇する”と声明した。“解放国民”とは、“治外法権”と同義語であり、日本政府の法規制を受けないということである。これは第三国人の行動上の支えとなった。>

「1946年二月19日付けと26日付けの連合軍の指令によって、連合国軍である中国人に対しても、日本は刑事、民事両面での裁判権の執行が停止されたのは前述の通りである。これによって、王たち中国人には日本の警察権力が及ばない状況が生まれた。この日本が失った裁判権が、1950年に回復するのである。連合軍は、1950年10月18日、次のような覚書を日本政府と交わす。
“日本裁判所は今後日本にいる連合国の国民に対して占領軍要員として指定せられた以下の者を除き、その他のすべての者に対し刑事裁判権を行使するものとする。”
 これによって中国人に対しても、日本は裁判権を回復することになる。連合国側のこの方針転換に対し、日本の法務省は二ヵ月後の12月5日、念を入れて連合軍に確認している。法務省渉外課は、連合国総司令部法務局法律課のバッシン課長に電話でこう問い合わせた。
“新しい民事及び刑事の裁判権に関する覚書所定の手続規定は、本年11月一日以降においては、同日前に発生した犯罪にも適用される、と解してよいか” それに対し、バッシンはこう答える。
“しかり。そのように解してよろしい”
 今日では、刑事罰は、その法律ができる前の事犯に対しては“不遡及”が原則とされている。しかし、日本政府はこのとき、戦後がらそれまでまったく取り締まることができなかった過去の犯罪さえも、これによって裁かれるかどうか確認したのである。」

 マッカーサーが厚木に降り立ったそのかたわらで、多くの中国軍人もまた、続々と日本に到着していた。其のなかに、王長徳がいた。1946年6月、王は日本に到着する。(このとき26歳)GHQによる接収業務のかたわら、王は、新橋、渋谷といった主要な商業地を“獲得”していく。終戦直後の東京には、膨大な地主不在の土地が残されていた。ときに連合国進駐軍の一員として、またあるときは日本人から接収した大量の財をちらつかせる富豪さながらに、王はまさに焦土と化した戦後日本で縦横無尽に奔走した。」

 新橋に大量の土地を取得して国際マーケット(ヤミ市)を成功させ、上海にあったような豪華なキャバレーも経営した。彼の周りには政治家や実業家、ありとあらゆるヤミ・闇の社会の住人が取り巻いていたが、それも「1950年12月五日の占領軍による“新解釈”の発令によって、ついにその東京租界を支えてきた制度的支柱が崩れはじめたのである。隙あらばと待ち構えていた警察が、王の城に雪崩を打って突入する瞬間が着実に近づいてきた。」

 あとがきの書かれた2006年12月、王 長徳氏は健在である。

 七尾氏のこの著書は新聞の書評欄でみて、宮崎学氏の「万年東一」は図書館でふと目にした、返却された図書の中に「宮崎学」の背表紙が見えた所為。内容も知らず、ただ作者の名だけで借り出しただけだが、同じ時代背景を描いたものだとは思わなかった。同じ時期に引き合わせてくれた配剤に感謝する。
 尚、私的なことだが、当時50歳になった頃の私の父は、この時まさにこの地にいた。朝鮮総督府地質研究所・所長であった父は戦後まもなくGHQに呼び出されて、総督府時代に得た知識の全てを報告させられていた。郡山市に引き揚げていた一家に進駐軍からの電話連絡を受けた魚屋の亀さんが青い顔ですっ飛んできた時は、一瞬戦犯としての呼び出しかと思ったそうだ。それから五年ほど、父の単身赴任が続いた。月に一度、満員列車で帰ってきた。西洋のお菓子(懐かしい味だった!)やら、東京のヤミ市で買った食べ物がお土産であった。

「 人間とヘビ : かくも深き不思議な関係 」    R.& D.モリス 小原 秀雄監修 藤野 邦夫訳  2006.8. 平凡社 1,300円








日本語の勉強です。

・「この角は両目のうえにある、ちいさな突起にほかならない」
 →「この角は、両目のうえにあるちいさな突起にほかならない」または
 →「両目のうえにあるこの角は、ちいさな突起にほかならない」の方が日本語として読みやすいのでは。

・「たとえばジョン・ブラウンは“1799年にセントヘレナの要塞砲兵隊の六人の脱走兵が経験した異常な冒険と苦しみの感動的な物語”というタイトルのロマンティックな読み物で、八メートル以上もあるボアコンストリクターとの身の毛もよだつ出会いを語っている。このヘビはかれらが一本の木に寄り集まっているときに、夫の手からヒロインを強奪したのだった」
 →「...六人の脱走兵たちが一本の木に寄り集まっているときに、このヘビが夫の手からヒロインを強奪したのだった。」この文章の前とは全く繋がりのない話なので、いきなりこのヘビと書かれると混乱の極みへと転落するのだ。

・「ヘビはアルコールによる元気の回復方法が使えないときには、ウシ、ヤギ、ヒツジの乳房を吸って手にしたミルクで満ち足りていた。」
 →手にした、ではなくて、手に入れたでは?もっともヘビには手はないが.....

・「最後の数世紀間の目撃情報は、膨大な数で急速に消滅する、この動物の生命の最後のきらめきだと主張されたのである。」意味が取れません。

・「ヘビの自然な習性が知られるようになるにつれ、事実はフィクションよりエキサイティングであることが明らかになったので、かれらはたぶん悲観的すぎるのであろう。」悲観的すぎるかれらとは?

・「慣れない人が見れば、攻撃的なヘビと、ひどく落ちつかないヘビを見わけにくい。」
 →「...ひどく落ちつかないヘビとは見分けにくい。」


・「毒ヘビもときどき、手で扱わなければならないことがある。」
 →「毒ヘビも、ときどき手で扱わなければならないことがある。」


・「現在の中国のヘビ食は、広く広東地区に制限されている。」
 →「現在の中国のヘビ食は、広東地区に限定されている。」

 人間の頭の中で“”にであうとそこで思考が途切れてしまうという習性がある。句読点という印によって自動的にそうなってしまうのだ。だから、上記のような文章でちょくちょく足が止まると草臥れてしまうのだ。適当に、三頁めくっただけでこのような日本語に出会う。藤野氏の翻訳した文章を読んだ上で、監修した小原氏がいる。そして、この文章で良しとした編集者がいる。この編集者の責任は大きい。格調高い平凡社ライブラリーとしては異色の一冊といえよう。
291頁の本文に続いての監修者の解説は学者らしく真面目で分かり易い文章だし、訳者のあとがきはすこしくだけてはいるがまともな日本語である。であるから、それゆえにそこまで辿ってきた日本語の文章は何だったのか、不思議としか言えない。もしかして、丸投げ?

 著書についていえば、「岩場にのこされたヘビ・神々のなかのヘビ・エデンの園のヘビ.......」というように古今東西のヘビにかかわる事象を網羅した“ヘビオタク的”な著作である。フレーザーのような安楽椅子の生物(博物)学者を思わせる。

例えば、階段がある。階段というものは等間隔の段があり、なおかつ、その一段一段は水平を保っていることだ。階段を登っていくとする、見た目には等間隔のようでもほんの少しの差があると、人間の感覚は察知してしまう。水平面がほんの少しどちらかに傾いていても察知する。だが其の差は“ほんの少し”であり、人が登り降りするのにはなんら不都合はない。足の裏が不快なだけなのである。気にならない人もいる。この翻訳文はこの階段のようなものなのだ。日本語として読めないわけではない。気にするほうが可笑しい!

「万年 東一 上・下」 宮崎 学 2005.6.      角川書店 各1,700円

「万年 東一」という存在は虚である。その虚の存在を縦糸に実の歴史が交差している。

 昭和13年に31歳の彼が戦前のきな臭い新宿あたりの愚連隊として頭角を挙げるのは、左翼の社会大衆党の党首安部磯雄を襲撃したからである。このことが最後まで万年の名をヤクザでもテキヤでもない愚連隊という存在を裏の社会に知らしめる。フイと上海に渡り「愚連隊」として泳ぎきる。帰国した彼を赤紙が待っていて、中国戦線へ逆戻りとなる。敗戦。焼け野原の東京・新宿。闇市をめぐるテキヤ・博徒の縄張り争い。万年に憧れて愚連隊になったという設定で登場する特攻隊上がりの安藤昇。事件も人も実際の名前で登場している。そんな意味で虚の縦糸に実の横糸と表現した。作者はフィクションだと断ってはいるが、巧妙にしくまれたノンフィクションといってもいい。こんな書き方のノンフィクションがあってもいいだろう。

 60年安保の際にデモ隊の指揮をとり方で野次馬として見物していた万年の目を見張らせた宮内我久と武術家にして学者の藤沢梵天(虚)と三人で、アメリカが介入したばかりのベトナムへと向かう。サイゴンに着いてすぐ、食堂に入ってまもなく銃撃戦に遭遇。そして、最後の一行はこうだ。

 「三人は、目を見合わせて、それから自分が目指した方向に、一斉に駆け出していった。」

 「宮内我久」という男:ひょんなことから万年に引き合わされての万年との会話。
「あれは、喧嘩の指示としちゃ、適切だったよ。学生なんかが、なかなか気づくことじゃねぇ。おめぇ、ガキの頃から、相当、喧嘩してきたな?」
「いまでもまだ、ガキのまんまですけど、喧嘩は随分やりました。」
「へぇそうかい。愚連隊か?」
「いえ、うちの実家、ヤクザなんです。親父が組長してまして、子供の時分から、しょっちゅうよその組と 出入りばっかりたってましたから。普通の学生よりは、喧嘩慣れはしてるとおもいます。」

 宮内学久は自分のことをガクと呼んでくれという。ミヤウチガク。宮崎学。宮内の語る経歴は実際の宮崎学の経歴なのだ。ここには虚のような顔をした実が登場している。以前に田中清玄という人物の聞き書き本を取り上げたことがある。「面白くない筈がない...」筈のつまらない本だった。作者の筆力の差か。膨大な資料を横に、自身の経験や哲学を削げるだけ削いだ結果の著書である。戦前と戦後の社会史として格好の教科書のように感じられた。

宮崎学の本:「突破者ー戦後史の陰を駆け抜けた50年」
      「幣ー中国マフィアとして生きた男」
      「アジア無頼ー幣という生き方」     その他未読書多々あり。

2007-03-07

「“闇の奥”の奥:コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷」 藤永 茂 2006.12.三交社 2,000円

 これは恐ろしい本だ。コンラッドの「闇の奥」か、それを翻案映画化された「地獄の黙示録」か、ヴェトナムか。19世紀のヨーロッパの小さな王国から、親戚縁者の繁栄を羨み権謀術策の挙句にたどり着いた“闇の奥”の解剖の著書。真に恐ろしい本である。

 ベルギー国王・レオポルト二世の私有地、アフリカ・コンゴ川流域には、「2000万から3000万人のコンゴ人が住んでいたと推定されている。以前はいくつかの強力な王国が並列していたが、300余年にわたる奴隷貿易の結果そのほとんどすべては疲弊弱体化し多数の小部族に分裂していた。」コンラッドの見たアフリカ黒人社会は350年にわたって白人たちの濫用酷使に荒廃した社会だった。
 欧米で生産されたガラクタや酒などで土地の王や首領を手なずけ、彼らが捕虜としていた他部族の人間を奴隷として安く買った。土地の王たちは、捕虜を得る為により奥地へと人間狩りをしたが、海岸線まで到達出来た人数は少なかったし、また、大洋を渡って新大陸の各地へ降り立った人数はさらに少ない。新大陸では二世代・三世代と年を重ねるにつれ、奴隷としての需要も頭打ちになり、奴隷貿易の旨みも薄くなってきたころ、アフリカの別の意味にいち早く気がついたのが、レオポルト二世だった。
  大西洋をまたぐ奴隷貿易が衰えていったのは、需要が落ち、収益性が失われていったと見極めた各国(イギリス1807・アメリカ1808・オランダ1814・フランス1815)は相次いで奴隷貿易禁止令出していた。諸国の興味は輸入奴隷を使っての農業生産から、アフリカ大陸に眠っている天然資源の開発獲得に向けられ、アフリカ分割時代の幕が開いた。リビングストン博士の救出で名高いスタンリーのアフリカ探検報告に目をつけたレオポルト二世が登場する。ヨーロッパ列強が牽制しあっている間に彼は西アフリカを手に入れる。河口域と奥地を結ぶ鉄道建設も多くの現地人や中国人の犠牲を出しつつ完成した。死亡率は九割といわれている。1898年に開通。レオポルト二世に莫大な借金が残ったが、世界の状況が大きく変わり、彼のアフリカが富を生み始めた。1887年空気入りのゴムタイヤの発明から1890年には原料ゴムの世界的品不足が慢性化し、価格が上昇していったのだ。
 「“コンゴ自由国”の半分は熱帯雨林で蔓性の巨大なゴムの木が密林の大木の枝にまつわりついて繁茂していた。1888年にコンゴが輸出した原料ゴムの量は80トンに過ぎなかったものが、1901年には6000トンにまで増大していた。」レオポルト二世の収益はその5割だ。このころ、2000万人の現地人が多数の集落に分散して住んでいただろうといわれている。
 コンゴ自由国での象牙やゴム原料の採取と運搬には苛酷な強制奴隷労働によって行われた。奴隷の現地調達だ。逃亡する奴隷を見張るために公安軍(私設軍隊)が発足したが、これも人身売買で得た徴収された人々であった。黒人隊員に支給された銃弾は厳しく管理された。
 黒人隊員の絶対服従は保証されておらず、待遇は劣悪。白人一人に対して黒人は十数人で絶えず内部叛乱の兆しがあった。「白人支配者側は、小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、銃弾が無駄なく人間射殺のために用いられた証拠として、消費された弾の数に見合う死人の右の手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発に対して手首一つというわけである。このおぞましくも卓抜なアイデァからどんな結果がもたらされたか?銃を使わずに人を殺し、その手首を切り取って提出し、銃弾をせしめる者が現れた。わざわざ殺さなくとも、過労から、飢餓から、病気から、人々は死んでいった。生きたまま右手首を切り落とされる者も多数に上った。銃弾と引き換えるための手首には不足はなかったのだ。」
 これが、レオポルト二世のコンゴ自由国の「切り落とされた腕先」(severed hands)の真実だ。多数の証言やこのころ発明されでまわったコダックカメラでの写真も残っている。
 ここで、「地獄の黙示録」のカーツ大佐が登場する。大佐の長い告白に「...せっかくのポリオの予防接種を(アメリカ兵から)受けた子ども達の腕をすべて切り落としてまで、敵国アメリカを絶対排除しようとするベトコンのすさまじい闘争精神から、カーツは電撃の啓示をうけたのである。」
 著者はいう、「野生ゴムの樹液採取の奴隷労働の恐怖のシンボルであった“切り落とされた腕先”の蛮行の記憶が、ベトコンが自国の子ども達に対して行った異常な蛮行として歪曲移植されている。これが、驚くべき無神経さと極端な偏見(extreme prejudices!)をもって実行された人種差別行為でなくて何であろう。」
 「このエピソードを歴史的視点から取り上げた評論が見当たらないことは私の理解をこえる。」
 「ブリタニカ百科事典1994年版には、“2000万人か3000万人から800万人に減少してしまったと言われている”とある。正確な数字の決定は望めまい。しかし、1885年から約20年間の間にコンゴが数百万人の規模の人口減を経験したのは確かであると考えられる。アメリカの奴隷“解放”宣言から半世紀後、19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、人類史上最大級の大量虐殺が生起したという事実には全く否定の余地はない。
 しかし、この驚くべき大量虐殺をアフリカ人以外の人間の殆どが知らないという事実こそ、私には、もっとも異様なことに思われる。この惨劇からわずか40年後に生起したユダヤ人大虐殺ならば世界の誰もが知っている。ユダヤ人の受難に比べてコンゴ人の受難がほぼ完全に忘却の淵に沈んでしまった理由を、今こそ私たちは問わなければならない。」
 第二次世界大戦後、植民地は続々と独立し、植民地主義も終焉した、といわれている。そうではない。形を変えただけで厳然として健在だ。現在、内紛の報道の耐えないアフリカ諸国の悲惨さは目を覆う状態だ。民族紛争の形をとってはいるが、その背後に独立前からの採掘利権を手放さない外国資本が、合法的に活動している。コンゴはアフリカ屈指の天然鉱物資源の宝庫なのだ。銅・鉄・金・亜鉛・ダイアモンド・コルタン・石油。それから含有量の高いコバルト・ウラン、露天掘りのこれらの鉱脈には近隣の住民の強制移住や強制労働、さらに素手素足で盗掘する少年傭兵が、レオポルト時代さながらに行われているという。
 「2003年10月、国連はコンゴの天然資源の非合法収奪に狂奔する多国籍企業に関する詳細な調査報告書を発表し、企業名をあげて具体的に批判した。」
 「アフリカの重荷」とは、大英帝国の桂冠詩人で1907年ノーベル文学賞を受賞したキプリングの詩、「日本人には耳慣れないことがであろうが、米英系白人ならば、大抵はその意味を心理的に理解している“白人の重荷 The white man's burdenn”からきている。この詩は、海外植民地獲得に乗り出したばかりの米国に対して、その道の大先輩である大英帝国を代表する詩人としての高みから、植民地経営の心構えについて教訓忠告を与え、激励しているのである。統治の対象は“なかば悪魔、なかば子ども”のような野蛮の民でらり、彼らを文明の光に導くためには、無私の奉仕と無償の善行が要求されると説く。この「白人の重荷」の概念が欧米の根底にある概念なのである。
何を持って「未開」というのか。痩せた牛や山羊を放牧に追っていく半裸の男達、彼らの社会を「未開」というのか。欧米てきな物質文明は持たない彼らに彼らの神話があり、歴史がある。痩せた牛のぶち模様の呼び名を百以上もっている社会、何世代も遡って語れる社会。これでも「未開」というのか。「未開」と「文明」についてはもう少し考えて見なければいけない。
「地獄の黙示録」私見: 映画は確かに設定を「闇の奥」に借りているように見える。コンゴ川はメコンに。先住民から神のように崇められている男、その男を連れ戻しに行く男/抹殺しに出かける男。ベトナム戦争を描いた映画として、乾いたタッチの映像が返って剥き出しの、なくなったはずの植民地主義というか、人種偏見を如実に現れている。コッポラ監督による再三の改訂版は、この著者も述べているように、彼の「闇の奥」の解釈の不安定さを示している。最初の改訂版が出たとき、私は削るのだとおもった。饒舌なシーンをカットすればもっと説得力が出るはずだと。次の改訂版は一時間近く新たなフィルムを入れた。監督の迷走としか考えられない。
 「闇の奥」から少しだけ離れてみよう。カーツ大佐は、自分を殺しに来たであろう若い兵士に向かってこんな風に命令する。殺した後はお前がこの王国を継ぐ、あいつらを全部殺せ、と。若い兵士は斧を振るって大佐を殺し、平伏す先住民や脱走兵の前に出る。次のシーンでは、川を下る男のモーターボートと累々と重なる死体と火だ。これは、「闇の奥」ではない。カーツ大佐が若い兵士に謁見する際に、読みかけの本を置く。
 本はフレーザーの「金枝篇」the Golden Bough by J.G.Frazer だ。その第一章「森の王」で、次のように書いてある。“この聖なる森の中にはある一本の樹が茂っており、そのまわりをもの凄い人影が昼間はもとより、多分は夜もおそくまで徘徊するのが見受けられた。手には抜き身の剣をたずさえ、いつなんどき敵襲を受けるか知れないという様子で、油断なくあたりをにらんでいるのであった。彼は祭司であった。同時に殺人者でもあった。いま彼が警戒をおこたらない人物は、遅かれ早かれ彼を殺して、その代わりに祭司となるはずであった。これこそこの聖所の掟だったのだ。”
 さりげなくだがあからさまに提示された本の表紙。これが本当の種明かしかもしれない。「闇の奥」からの翻案脚色は誰にでもすぐ検討はつくが、実態は二つの合体なのだ。この表面的な設定に監督の迷走の原因があると考える。皆殺しを命ずる台詞が、先住民と出会ったときに発せられるおさだまりの言葉なのである。
 「金枝篇」は、岩波文庫 永橋 卓介氏の訳からの引用
 

2007-03-06

「アメリカの眩暈」 ベルナール=アンリ・レヴィ 2006.12. 早川書房 3,000円


副題:フランス人哲学者が歩いた合衆国の光と陰 

 アレクシス・ド・トクヴィル (1805-1859)。評価は分かれるらしいが、“優れた理論家を兼ねた大物の作家”で、彼がフランス政府の依頼によりアメリカの監獄制度の調査を名目に173年前 新大陸に残した足跡を辿るアメリカ新紀行である。もちろん当時のアメリカはミシシッピ川までの広がりしかなかったし、時代も変わっているがトクヴィルの旅行記にとらわれずに自由な発想で“可能な場合には、トクヴィルの本に出てくる行程や人物像のいくつかを取り上げた”とある。アメリカの雑誌「アトランティック・マンスリー」の企画の所為で投稿の加減か文章は短く纏められている。ふと思ったのは、これはマーク・トウェインの「赤毛布旅行記」の現代版ではないかと。だが、それもエピローグに出会うまでの話。

 しばらく読んでいて気がついた。行程を示す「日付」は何処にも無い。某月某日、どこそこにいた/どこそこに向かった/某氏に会ったというのが無い。9.11の後で エピローグを書く頃にカトリーヌに出会ったのは確かで、多分2004年春から 約一年間の車での移動ルポだ。まだある、「注」と称するものが無い、「目次」も無い。目安のために頁を捲りながら目次を作ってみた。
出発!
アメリカへの旅
 第一章 最初の錯覚・ニューポートからデモインへ
 第二章 動く西部・カロナからモンタナ州リビングストンへ
 第三章 太平洋の壁・シアトルからサンディエゴまで
 第四章 砂漠の眩暈・ラスベガスからテンピーへ
 第五章 南部とともに去りぬ・テキサス州オースティンから
 第六章 ハリケーンの眼・マイアミからピッツバーグへ
 第七章 幸せ者と呪われた者・ワシントンからケープコッドへ戻る
エピローグ 

 各章には小見出しとも言うべき表題がつけられているが、お互いに何の関連性もない。たとえば、
第一章 最初の錯覚・ニューポートからデモインへ:国民と国旗/きみの監獄がどんなものか教えて/ 一般には宗教、個別には野球について/意思と表現としてのにせもの/大都市の息の根を止める/小心者の復讐/アメリカのアラブ人のユダヤモデル/ 左車線/シカゴ変貌/ウィロークリークの神/ノックスビル流、悲劇なるものの意味

 一つの文章は短く、奔流のような単語。長く分かり難い文章に接してきた後では目に心地よい。それはヘミングウェイ的なのだが、原文がフランス語なので当りは軟らかいと思われる。筆者はアメリカの印象をひたすら書きとめるだけで、論評はしないし、結論も出さない。第七章までの彼はひたすらメモを取る。200年以上の歴史を持つのが当たり前の国から来た人間として驚き、半ば呆れ、揶揄する。だが、行間に溢れるものがやがて見えてくる。あらゆる場面に顔をだしている「作り物の歴史」のこと。作り物であることを充分に承知の上での「作り物の歴史」、まがい物の展示場。なんでもかんでもMoveOn精神。単なる取材メモなのだ。一つの章は単に地域でのまとまりを示すに過ぎない。だから、「注」は必要ないのかも知れない。

 訳者 宇京頼三氏によるあとがきによれば、基本的テーマは「21世紀はじめのアメリカの民主主義は一体どうなっているのか?」である。いはば、現代アメリカの精神・風俗・文化・思想のルポルタージュである。ただし、フランス式の皮肉なエスプリと軽妙洒脱な批判精神をたっぷり.....
 エピローグも含めて一冊の書物に纏められ出版された時に賛否両論の大嵐が巻き起こったという。

 そして、エピローグ
 1.アメリカ人とは何か?「...自らを誇り高く、自信に満ちた支配的国民であると頑固にも信じ込んでいるが、今日では、現状にこれほど不安を抱き、未来に確信がもてず、祖国の基礎を築いた価値観、すなはち神話の価値に自信をもてない国民はいない。これは混乱であり、不安である。指標となるものや確信の揺らぎ、今一度いえば“眩暈”であり、これは被観察者を捉えるからこそ観察者に伝わる眩暈である。...」

 第一の表象として彼は何でも記念化するメカニズムの狂乱を挙げている。進化論の仮説を否定するための化石の常設展示館すら存在する奇妙さ。第二の表象としては肥満。肉体の肥満ではなく社会的肥満。「この国を構成するあらゆる物体に蔓延しているのではないかと思う普遍的肥満。公共財政赤字の肥満。要するに、社会全体が、上から下まで、端から端まで、この暗い狂乱に晒されて個人や組織を膨張・爆発・氾濫・解体させているようだ。」第三は、アメリカの社会的・政治的空間の細分化、その段々と大きくなる差違化。“他から一”ではなく、“他”と“一”。少数派の台頭であり、“差違への権利”は行き着くところはゲットーだ。人工都市、金持ちと老人用特区、あの私有の要塞空間、門番・塀付きの閉鎖集落。ありとあらゆる者が自らを囲い込むこと。貧困層を囲い込み切れなくなったときに選択した究極の生活様式。貧困層の隠蔽。合衆国に住むアメリカ人のアメリカ人であることへの熱狂的レース。

 2.アメリカのイデオロギーとテロリズム問題(現状) 
 3.アメリカは狂っているか?
 
 4.追記 ここでカトリーヌの登場。「“母なる自然”自信によって跪かされた調大国!」「スリランカからの援助提案を受ける第三世界の取るに足りない国同然に貶められたー難という喜び、なんと言う僥倖だ!アメリカの友人にはなんとも哀れなことだ!だが結局は、やはりきわめて重大な出来事が起こったことは否定できない。」行政府の愚かであった行動を列挙したあとで、「私は出来事の純粋に政治的な、ましてや政治屋的な関わり合いを考えているのではない。」「違うのだ。それよりも、出来事の超政治的な教訓のことを考えたい。」
「そして今、カトリーナに荒廃させられた“ビッグイージー” ー アメリカ社会の大分析装置、その隠れた面の啓示者。たとえば、貧困の問題。...この光がけっして消えない、世界で唯一の国と言われる、何事も積極的に捉える国では、この影の部分さえも驚くべき否定の対象になるのも見た。途方も無い数の浮浪者や社会的排除の犠牲者 ー 公式には3,700万人ーが存在という明白な事実があるみのかかわらず、アメリカ国民が自らを“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ”を運命づけられた巨大な中流階級と思い続ける姿を見たし、またそういう話を聞いた。だが実際は、こうした浮浪者は、退去命令に従うとじゃ逃げる手立てさえないので、町の廃墟に閉じ込められているのだ。彼ら、あの貧困者たちは、...あの例の“gated community”の向こう側に追いやったと思っていたアメリカの前面に飛び出るのだ。彼らは町の見捨てられた中心部に安全に囲い込まれていると思われていた ー それがCNNにも登場するのだ。...彼らは統計上のことと思われていた ー だがこの統計に生命が宿ったのだ。彼らはなんども繰り返されて抽象的にになったその数字の中に石化されていると思われていた ー 数字の反乱である。...この数字が生気を取り戻し、肉体と顔を供えてきたのだ。カトリーナまたは見えないものの逆説的な出現。カトリーナまたは ー メディアのお蔭で ー 洪水以前はひとの心の底に沈んでいた、貧困というあのアトランティス大陸の急上昇。」

 人種問題。この黒人でもある、同じ貧困者の問題。民主主義国アメリカは、この放置状態が皮膚の色と無関係ではないことを、あらためて恥をもって見出すことになった。...1927年の大洪水よりはましだった。この時は、白人地区への水害圧力を弱めるために、わざと徹底的に黒人地区を氾濫させたのだから。...それでも同じ事なのだ。この怯えた貧困者の顔は黒い顔だった。この死んだ犬のように水に浮かんでいる死体は黒人の死体だった。...9.11、死は無差別に襲った。この死神は個人、ましてや人種の区別などしなかった。ここでは、死は名簿を作っていた。死神は相手を選んでいたのである。死は隔離という文字とともに消えたと思われていたその精神を取り戻した。それゆえ、八月二十八日のハリケーンは反9.11であること。」

 カトリーナのもう一つの教訓。「暴力。この暴力も現代アメリカに固有のものではない。...実際、ここでもショックは残酷である。ここでもまた、カトリーヌはニスを剥ぎ、目を開かせるという二重の効果をもたらすのだろう。狂った動物を捨てるように町を捨てる金持ちと白人の逃げるが勝ちの暴力。町にのこったものを破壊する浮浪者、貧困者、黒人の暴力 ー その怒りは、私がアフリカやアジアの忘れられた戦争の地の幽霊都市で見たのと同じで、奇妙に絶望的だった。救助のために行くが、最初の反応がしばしば銃を構えて、発砲することさえある警官の暴力 ー 同胞市民を守るために来ているのに、市民に対して、ジープに乗り、銃を手にして、ごく自然に戦争スタイルになってしまうあの州兵の暴力。」「9.11が外部からの攻撃に対するこの国の脆さをしめしたのと同様、反9.11も内部から来たあの別の脆さ、アメリカ社会がどうしても認めたくない脆さを露わにしたのだ。それは今度は、暴力の仮面を被っているだけにいっそう危険な脆さである。」
「そこで、思いやりとか同情の限界がある。」「...世界のどの国でも類例を見ない、こうした寛大な精神の高揚、多彩な救援活動は、この国の制度が生み出したもっとも気高くかつ最良のものの例証である。しかしながら、それで十分なのか?これほどの規模の悲劇に対して、人々の善意に頼るだけでいいのか?...とくに、慈善行為は事後には驚くべき効果を生むが、事前にはひどく無力ではないのか?もっとも人気のある元大統領が、大災害が起こるとすぐ、被害者のために寄付金を募るのは誰よりも立派なことだとしても、堤防やあ水門の監視、避難方法や排水設備を確保して住民の安全をはかるのは現職大統領の役目ではないのか?...これが、カトリーナが提起した別な ー きわめて単純な ー 問題である。」

 アメリカの場合の自由・平等というのは、同質の枠組みの中でのことではないのかと作者は問う。進化論と肩をならべて新創造論が平等に存在する。思想の自由は憲法にある。お見事!

 
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また、別の顔を見せている、善のアメリカがここにある。
「チャーリーとの旅・アメリカを求めて」 J.スタインベック 弘文堂 昭和39年初版
「語るに足る、ささやかな人生:アメリカの小さな町で」鶴見良次 NHK出版'05年?

2007-02-08

「移民社会フランスの危機」  宮島 喬 2006.11. 岩波書店 2,800円

報道された事件
 2005年10月末、パリ郊外の町々で燃える車の映像。警官に追われたと思った移民出身の少年が変電所施設に逃げ込み、感電死した。溜まっていた不満が噴出し暴動の気配が地方都市にも波及した。
 1981年7月、リヨン市、レ・マンゲット(移民集中地区の一つ)での「暑い夏」の暴動はマルセイユやアヴィニョンに飛び火。住民の51%が20歳以下、失業率は20%という地区。
 ワールド・カップでのフランス・ナショナル・チームの大半が移民出身者であることへの不満。

移民とは:EU内部での移民国、フランス・オランダ・ドイツ・イギリスに共通した定義。EC内移民とEC外移民。EC外移民は「ヴィジブル・マイノリティ」と呼ばれる。

 フランスでは、それまでは殆どがEC内移民であったが、1960年代からあらたな「移民社会」が形成され始めた。マグレブ系:アルジェリア・モロッコ・チュニジア、ブラック・アフリカ系:セネガル・マリ・コートジボアール・カメルーン、トルコ系:クルド人、アジア系:インドシナ三国。中国など。旧植民地などが「独立後、経済的国づくりに苦闘し、人口増に悩むこれらの国々は、移民受け入れを旧宗主国に求め、フランスはそれらの国に持っていた権益(資源採掘・軍事基地など)・友好関係の維持のためにこれを受け入れ」ざるを得なかった。

 この「ヴィジブル・マイノリティ」について言えば、平均的失業率はEC内移民の二倍になり、「ヨーロッパの大都市圏には共通に、失業(雇用差別)、学業挫折、非行などによって、特徴づけられる街区が生まれ、その中に移民外国人の集住エリアが形成される。」この著書でわざわざ「フランスの...」と限った問題はどこにあるのか、まとめてみる。

フランスの単一文化主義:言うまでも無くフランスには「フランス人」と「外国人」しか住んでいない。フランスでは国勢調査などの公式統計に於いては、人々の民族的出自に関するデータ収集は禁止され、その他にも、国や地方公共団体は宗派別人口、言語別人口のデータなどの蒐集・保持はしないことになっている。たとえば、ある地区でのある特定の母語を使う人の割合とか、公務員の女性比率、性別人口などである。したがってマイノリティへの施策と、実行に際して必要なデータとの差が何時でも問題になるという。平等の名のもとでは差別は無いとするフランスでは次のような表現を使っているという。移民・外国人の多住地域→問題地区、言語等の具体的な文化的ハンディキャップ→社会的諸条件、不熟練または半熟練労働者・農民・その他の民衆層→恵まれない状況にある階級。このように、移民とか外国人という表現は使われることはない。

 成人男子が出身国から家族を呼び寄せる。宗主国であった国の言葉を話すことは出来るが読み・書きの教育は受けていないか、母語は話せるが移民国であるフランス語は無理という家族たちも多く、家庭内での活字文化の存在も、教育を受ける意味もよく理解していないという。フランス人となったからには当然というモノリンガルでの教育現場。単一主義の弊害。児童生徒は学業挫折を起こし、移民層の厚い地区での教育水準は低下する。
 低賃金労働者向きの集合住宅・団地が郊外に作られる、開かれたゲットーだ。働ける職場・学校・文化的施設もすくない。安定した職業につき、安定した賃金が得られた順に中心部に住まいを移す。その結果、この種の郊外団地にはヴィジブル・マイノリティ層のみが集まる。理由は簡単。彼らの失業率を考えて欲しい。EC内移民層の2~4倍の失業率なのだ。成績が幾らよくても、出身地がわかる名前や住所で就職できないという。
 移民たちの第二・第三世代が生まれている。フランス生まれのフランス人だ。それでもヴィジュアル・マイノリティとして、社会的差別を受けている現実。フランス人としての「身分証明書」を持つ意味について、単なる通行証であり、日常生活を円滑にするための円滑油と言い切る。彼・彼女らは簡単に職務質問の対象になり、身分証がなければ面倒なことになる。「定冠詞の付いたカミッキレを持つ、書類上のフランス人」だという。「自分をフランス人だと自己紹介しても無意味」と感じる若者が多数いるという現実。この図式はフランスだけではなく、どの国でも マイノリティと呼ばれる人々に共通するおなじみの現象である。

 「大雑把に約550万人ほどが移民とその子ども達であると推定したい。これを広義の“移民”と捕らえる視点に立つと、フランス人の人口の約10%を占めることになる。まさに移民人口の“フランス人化”が進んでいるのだ。ということは、法的には、その内部で権利上区別のない“スランス国民”でありながら、出自、身体的特徴、母語、宗教、文化慣習などで相対的な独自性をもち、外部からは差異的カテゴリー化(差別)を受け易い個人が相当な割合で含まれているということである。」(2004年半ばの統計)

 フランス国民は同一・同質の教育を無償で受けられることになっている。が、フランス人になる為の教育という制度は公にはないのだ。出身地の文化に拘って暮らすことは許容されない。高等統合審議会の言葉によれば「“多文化”や“相違”を警戒し、移民は選択した国民共同体の価値に無関心であってはならない」のだ。これが、他の移民国(イギリス・ドイツ・オランダ)と異なる点である。

 「アングロ=サクソン世界における移民の社会学では“アイデンティティ”については、たいてい、移民は出身社会との精神的・文化的繋がりを断っては生きていけないもので、ホスト社会の価値への同一化は複雑な斬新的なプロセスでしかないことが強調されている。それに較べて、フランスの議論は、アイデンティティについて語るのを暗に避けるか、出身社会との文化的繋がりを当然視するような見方にくみせず、むしろそれに対して、警戒的でさえある。」

 「イギリス社会では、たとえばパキスタン系ムスリムの児童生徒の多い学校では、親の求めに応じウルドゥー語の教育が行われる。また、放課後にイマーム(宗教指導者)が学校を訪れ、希望者にコーランを教えることもありえないことではない。しかし、スランスでは、たとえばマグレブ系の児童生徒の多い学校でも選択にせよアラビア語の授業が設けられる可能性は殆どない。...母語教育は学校のカリキュラムの埒外である。」第二世代まで含めると1,000万人弱の移民層をかかえたフランスでは、この単一主義を疑問視する声がきかれるようになっている。

 フランス大革命は「自由・平等・友愛」を掲げており、公的生活領域を除いて、全ての成員の信仰が保証されることだ。非宗教性の枠組みの中では、精神的志向に関するあらゆる政治的介入は違法であり、国家はいかなる拘束も課さず、信条の強制も無ければ、信条の禁止もない。人々(市民)は信仰の如何にかかわりなく市民として平等に扱われる。当時、信仰といえば、カトリック・プロテスタント・ユダヤ教であった。
政治・司法・教育の場で、かたくななまでに固持している非宗教性は、元はと言えば、大革命時にカトリックの修道院からの束縛を排除するためであった。ムスリム圏からの移民が増えている現在、この宗教性はあらゆる宗教を含むことになる。信仰と生活とが密着しているムスリムにとり、日に五回の礼拝や女子のスカーフ着用はたんなる宗教上の行為ではないのだ。
 「スカーフ」は、また別の象徴にもなってきた。ムスリム社会の家長絶対主義のなかで個人の意思を剥奪され、抑圧されている女性の象徴として。

ル・モンド紙から:「ピエール神父が未明の午前5時25分、亡くなった。」というフランス通信の速報が流れたのは(2007年1月)22日午前6時38分だった。
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 ここにまた別の形の差別がある。本当に別の形なのか。差別にはそんなに色々な形があるのだろうか。自分達の属している文化が一番であるという思い込み、異質であることが劣っている、野蛮と呼ぶに値すると思う傲慢な文化がある。共生ではなく排除・無視する優越感。「ヴィジブル・マイノリティ」これが共通項であると思う。

 日本ではどうなのか。フランスほどの単一文化主義ではないが、同じようなものではないのか。中国からの残留孤児の方々にたいする「日本語教育」「日本での社会教育」の不備はどうしようもない。4ヶ月で放り出される。中国での職業上の知識も技術もすべてがゼロ。年金の計算も帰国してからの年月で計算されている。もし日本で暮らしていたなら当然20歳ごろから加入していたであろうに。こういうところはきちんと律儀に平等な扱いなのが可笑しい。
 国籍をとる際に、問題なのは「名前」の表記で、日本人的な名前でなければならない。ハードルは高い。滞在資格の無い外国人は、修業中の児童生徒であろうとも国外退去の対象となる。亡命は許可していないし、難民の査定は厳しく世界中から不審の目でみられている。弱者には住み難い国である。

2007-01-23

「土一揆と城の戦国を行く」 藤木 久志 2006.10. 朝日新聞社 1,365円

 「飢餓と戦争の戦国を行く」が刊行されたのが2001年、それから「戦国の村を行く」「雑兵たちの戦場」「戦国の作法」と続いたいわば「戦国シリーズ」の最新刊である。いままで出た中から八篇を選び、また新しく掘り起こされた古文書の解釈、安田喜憲氏らの環境考古学や古気候学などを採り入れての著書である。
 ここで言う戦国とは15世紀半ばから16世紀末までのおよそ150年間を言う。そして雑兵は、脛当てに粗末な胴丸、槍になまくらな刀を差し、背中に小さな旗指物を担ぐ。戦が終わった時に地べたに累々と残されていて、けっして武具を剥ぎ取られる対象にはならない。

 著者が丹念に多種多様の古文書から抜き出した災害や疫病の年表には、毎年どこかで長雨・旱魃・疫病などが起きている。もちろん兵乱も。これは一地方のとか 日本のとかの問題ではなく、全世界的な規模の天変地異の時代で、この間(1300~1850)地球は小氷河期に入っている。特に、1350年前後、1500年を挟む100年間、1650年からの70年間は「夏の来なかった時代」とも言われている程だ。

 飢饉になれば百姓・村人は食料のある土地へ流れていった。山野を食い尽くした流民たちが一極集中的に都、あるいはその地方の都市へと押し寄せて、二次飢饉を起こした。これを「流入型飢饉」という。また近隣の村々を襲い食料を強奪したりもした。大名領主は百姓の離反=欠落・退転を抑えるために蔵の貯蔵穀物を放出し、兵を率いて隣の領地へ押し出したりもする。戦乱では乱妨(略奪)・狼藉・乱取・苅田などが勝手とされたのが戦いの作法で、洋の東西を問わず それが兵士・雑兵への報酬なのだ。戦場を遠巻きにして眺めている者もいる。関が原の戦いの時などは京大阪あたりから弁当持参での見物衆がいたと記されている。この見物衆がある一瞬から落ち武者狩りの衆になる。

 天下統一がなされるまで百姓と雑兵とは表裏一体の意味を持っていたと言えよう。土地の豪族の下に、集落や兄弟などでまとまって参集し雑兵として戦いにでる。勝ち戦であれば、食料はもとより落武者の甲冑などの武具や奴隷も手に入った。足軽という身分は平時には百姓なのだ。こうして武器や武具を所有し、まとまった数で戦に出るようになると発言力もついてくる。百姓侘言(要求・要望)だ。領主に納める税の率や遠方の戦地への長期の陣夫動員負担の拒否や、徳政の強要など聞き入れられなければ村を捨てるぞと脅す。現に何年も戻らなかった例もあったそうだ。武器をもって領主に対抗し、要求を突きつける、百姓中心であれば土一揆で、信仰でまとまったのは一向一揆である。やがて、特定の領主には就かずに雑兵たちを束ねるいわば「足軽大将」のような者まで出てくる。凄腕の傭兵集団で、川並衆を束ねていた蜂須賀小六などがそれの代表であろう。

 飢饉には天災からくるものと、人災からくるものとがあった。人災とは戦乱である。押し出してきた軍勢は、「麦秋の調儀」とか「稲薙ぎ」とか呼ばれる「作荒らし」の戦法を取る。隣国からの飢饉の気配で百姓達は作付けの工夫をしたり、未熟でも稲や麦の穂を刈ったり、家財物を担って山城や領主の城に逃げ込む。村人単独で山城を持つことも珍しいことではないと古文書のいくつかに見られると言う。不運にも城が落ちた時には、周辺の村々の荒廃をさけるために、城に避難していた民たちは「家財物」とともに解放され帰郷を許された。

 大名領主の力が増すとともに、足軽大将たちも収斂し家の子郎党としての地位を確立してくる。そして、天下統一。信長・秀吉・家康等が苦慮したのは、百姓たちの持つ力=武器をいかに排除するかであった。信長は治外法権とも言うべき勢力を根絶やしにすることに心血を注いだ。地ならしが出来た状態で登場した秀吉は、「刀狩」と「山城停止令」・「一国一城令」を実行した。大名同士の争いを禁止し、支配を嫌って逃げ込む山城を廃止、百姓の武器を持つことを禁止した。
「刀狩」の意味はこれだ。別の言葉で表現すれば「一揆禁止令」なのだ。

 「刀狩」を理解するためには、戦国の雑兵たちの作法を理解しなければならない。雑兵・一揆・刀狩とが、私の中で、やっと一つに繋がった。


参考図書:黒田弘子「ミミヲキリハナヲソギ・・・片仮名百姓申状論」
     吉田豊彦「雑兵物語」、
     保坂智「百姓一揆とその作法」などがある。

2007-01-09

「ブラック・アトランティック~近代性と二重意識」  ポール・ギルロイ 2006.9. 月曜社 3,200円

 一言でいえば、非常に読みにくい。物理的にだが...
536頁で、厚さ4.5cm高さ19cm幅13cm。杉浦日向子さんがいみじくも名づけたように「弁当箱」なのだ。紙質が悪い。まるで薄手の画用紙のようだ。手にとって読むにも、机の上に広げて読むにも勝手が悪い。500頁ならせいぜい3cmになる筈だろう。

 巻末に「訳者解説」がかなりな分量占めているが、そこでも原著の読みにくさ・理解の難しさを書いている。その通りで非常に読みにくい。日本語に訳された漢字のルビにカタカナ語が使われている。それも半ば日本語化したカタカナ語ではなく、原著で使用された言葉そのままの読みをカタカナで表記している。例を挙げる。黒人文学:ブラック・リテラチュア、霊歌:スピリチュア、混血:ムラー、導き手:リーダー、人間主義:ヒューマニズム、黒人性:ラックネス.....こういう処理の仕方が一頁の中に2,3個から15,6個はある。(以下イタリック部分はルビを表す)
 確かに著者の言い表す言葉の意味と翻訳された日本語とでは感触が違うだろう。だからといって安易に原語の読みをルビにするのはどうかと思う。むしろ ブラック・イングリッシュ:イングランド黒人、ブラック・ブリテッシュ:英国黒人、アジェンダ:議案 ではなかろうか...

 一つの文章がかなり長い。3行以上もあり、主語がどこから来るのか分からなくなるほどだ。原文が長いからといって訳文も忠実に長いままで示す必要があるのか。訳者の力量不足ではないか。ルビの問題といい、この冗舌さといい、日本語の文章まで原書と同じに読みにくく理解し難くしなくてもよかろうほどに。

 もう一つの難点は、著者の挙げている人名だ。人名を具体的に挙げ、その論点を解析しているのだが、文脈からすると黒人:ブラック・ピープル らしい。我々から見ると普通の西洋人(欧米人)の名前なのだ。それらの人々‐知識人・研究者‐の主張するところは、膚の色とあいまって重要になっているのだが、それが分からない。殆どが始めて目にする名前だし、日本に紹介されてもいない。翻訳され出版されたとしても極く一部の研究者が知っている程度だろう。ブラック・ピープルの主張はそれ自体の内容と共に「人種」がまた別の主張をしているらしい。ここに最初の高い越えがたいハードルがある。
 この場合のブラック・ピープルとはアフリカに住む人びとではなく、言うまでも無く、西洋に移り住んで教育を受けた人びとのことだ。著者自身、父は英国人で、母はガイヤナからの移民だそうな。そういう背景をもった著者が、アフリカン・アメリカンに主導され独占された形の「黒人問題」を大西洋の両側の問題として捉え、元の宗主国と植民地という関係から来る複雑性に焦点を当てている。確かに、現在イギリス・フランス・オランダ・ゲルギー・ドイツなどでの人種問題が度々報道されているが、著者の述べるようなブラック・ピープルの二重意識として捉えたことはなかった。

 目次には 一章:近代性の対抗文化としてのブラック・アトランテック
       二章:主人、女主人、奴隷、そして近代のアンチノミー
       三章:「奴隷の時代からのたからもの」
          ブラック・ミュージックと真性性の政治学
       四章:「疲れた旅人を励まそう」 W.E.B.デュボイス、ドイツ、
          そして(非)位置取り/(転)地の政治学
       五章:「お慰みの涙なしに」 リチャード・ライト、フランス、
          そしてコミュニティの両義性アンビヴァレンス 
       六章:「伝えられるような話ではなかった」
          生きた記憶と奴隷の崇高

 第一章から:西洋の黒人、特に英国のブラック・イングリッシュとして「ヨーロッパ人植民地の反省的な文化と意識、そして、植民者たちに奴隷化されたアフリカ人たちや、虐殺された“インディアンたち”、そして売買されたアジア人たちの反省的な文化と意識がその蛮行のもっともひどい状況にあっても互いに付け入る隙もなく閉じているわけではない、ということの湾曲な表現とさして代わらないように見えるとすれば、たしかにそうであるかもしれない。.....」

「.....この歴史的連結関係とは、感覚し、生産し、コミュニケートしあい、記憶する構造のなかで離散した黒人たちが創出し、しかし、もはや黒人たちだけが占有しているわけではない立体音響的ステレオフォニク で二重言語的バイリンガル で二重の焦点をもった文化の形式のことである。この構造のことを、私はさらなる発見のためにブラック・アトランティック(黒い大西洋)世界と呼んだのだ。」

「黒人を行為主体エージェント として、つまり知的な能力をそなえ、ひとつの知の歴史すらもっている‐近代の人種主義によって、黒人には否定されている諸属性であるが‐人々として認めようとする苦闘にこそ、わたしがこの本を書く第一の理由がある。」

「人種の格付け+分類は、黒人の非人間ないし非市民としてそこから排除されているナショナルなアイデンティティをめぐる人種排外的な考え方に由来し、またこの」考え方を称賛している。」

 なかなか一筋縄ではいかない文章だとわかっていただけただろうか。