2007-03-06

「アメリカの眩暈」 ベルナール=アンリ・レヴィ 2006.12. 早川書房 3,000円


副題:フランス人哲学者が歩いた合衆国の光と陰 

 アレクシス・ド・トクヴィル (1805-1859)。評価は分かれるらしいが、“優れた理論家を兼ねた大物の作家”で、彼がフランス政府の依頼によりアメリカの監獄制度の調査を名目に173年前 新大陸に残した足跡を辿るアメリカ新紀行である。もちろん当時のアメリカはミシシッピ川までの広がりしかなかったし、時代も変わっているがトクヴィルの旅行記にとらわれずに自由な発想で“可能な場合には、トクヴィルの本に出てくる行程や人物像のいくつかを取り上げた”とある。アメリカの雑誌「アトランティック・マンスリー」の企画の所為で投稿の加減か文章は短く纏められている。ふと思ったのは、これはマーク・トウェインの「赤毛布旅行記」の現代版ではないかと。だが、それもエピローグに出会うまでの話。

 しばらく読んでいて気がついた。行程を示す「日付」は何処にも無い。某月某日、どこそこにいた/どこそこに向かった/某氏に会ったというのが無い。9.11の後で エピローグを書く頃にカトリーヌに出会ったのは確かで、多分2004年春から 約一年間の車での移動ルポだ。まだある、「注」と称するものが無い、「目次」も無い。目安のために頁を捲りながら目次を作ってみた。
出発!
アメリカへの旅
 第一章 最初の錯覚・ニューポートからデモインへ
 第二章 動く西部・カロナからモンタナ州リビングストンへ
 第三章 太平洋の壁・シアトルからサンディエゴまで
 第四章 砂漠の眩暈・ラスベガスからテンピーへ
 第五章 南部とともに去りぬ・テキサス州オースティンから
 第六章 ハリケーンの眼・マイアミからピッツバーグへ
 第七章 幸せ者と呪われた者・ワシントンからケープコッドへ戻る
エピローグ 

 各章には小見出しとも言うべき表題がつけられているが、お互いに何の関連性もない。たとえば、
第一章 最初の錯覚・ニューポートからデモインへ:国民と国旗/きみの監獄がどんなものか教えて/ 一般には宗教、個別には野球について/意思と表現としてのにせもの/大都市の息の根を止める/小心者の復讐/アメリカのアラブ人のユダヤモデル/ 左車線/シカゴ変貌/ウィロークリークの神/ノックスビル流、悲劇なるものの意味

 一つの文章は短く、奔流のような単語。長く分かり難い文章に接してきた後では目に心地よい。それはヘミングウェイ的なのだが、原文がフランス語なので当りは軟らかいと思われる。筆者はアメリカの印象をひたすら書きとめるだけで、論評はしないし、結論も出さない。第七章までの彼はひたすらメモを取る。200年以上の歴史を持つのが当たり前の国から来た人間として驚き、半ば呆れ、揶揄する。だが、行間に溢れるものがやがて見えてくる。あらゆる場面に顔をだしている「作り物の歴史」のこと。作り物であることを充分に承知の上での「作り物の歴史」、まがい物の展示場。なんでもかんでもMoveOn精神。単なる取材メモなのだ。一つの章は単に地域でのまとまりを示すに過ぎない。だから、「注」は必要ないのかも知れない。

 訳者 宇京頼三氏によるあとがきによれば、基本的テーマは「21世紀はじめのアメリカの民主主義は一体どうなっているのか?」である。いはば、現代アメリカの精神・風俗・文化・思想のルポルタージュである。ただし、フランス式の皮肉なエスプリと軽妙洒脱な批判精神をたっぷり.....
 エピローグも含めて一冊の書物に纏められ出版された時に賛否両論の大嵐が巻き起こったという。

 そして、エピローグ
 1.アメリカ人とは何か?「...自らを誇り高く、自信に満ちた支配的国民であると頑固にも信じ込んでいるが、今日では、現状にこれほど不安を抱き、未来に確信がもてず、祖国の基礎を築いた価値観、すなはち神話の価値に自信をもてない国民はいない。これは混乱であり、不安である。指標となるものや確信の揺らぎ、今一度いえば“眩暈”であり、これは被観察者を捉えるからこそ観察者に伝わる眩暈である。...」

 第一の表象として彼は何でも記念化するメカニズムの狂乱を挙げている。進化論の仮説を否定するための化石の常設展示館すら存在する奇妙さ。第二の表象としては肥満。肉体の肥満ではなく社会的肥満。「この国を構成するあらゆる物体に蔓延しているのではないかと思う普遍的肥満。公共財政赤字の肥満。要するに、社会全体が、上から下まで、端から端まで、この暗い狂乱に晒されて個人や組織を膨張・爆発・氾濫・解体させているようだ。」第三は、アメリカの社会的・政治的空間の細分化、その段々と大きくなる差違化。“他から一”ではなく、“他”と“一”。少数派の台頭であり、“差違への権利”は行き着くところはゲットーだ。人工都市、金持ちと老人用特区、あの私有の要塞空間、門番・塀付きの閉鎖集落。ありとあらゆる者が自らを囲い込むこと。貧困層を囲い込み切れなくなったときに選択した究極の生活様式。貧困層の隠蔽。合衆国に住むアメリカ人のアメリカ人であることへの熱狂的レース。

 2.アメリカのイデオロギーとテロリズム問題(現状) 
 3.アメリカは狂っているか?
 
 4.追記 ここでカトリーヌの登場。「“母なる自然”自信によって跪かされた調大国!」「スリランカからの援助提案を受ける第三世界の取るに足りない国同然に貶められたー難という喜び、なんと言う僥倖だ!アメリカの友人にはなんとも哀れなことだ!だが結局は、やはりきわめて重大な出来事が起こったことは否定できない。」行政府の愚かであった行動を列挙したあとで、「私は出来事の純粋に政治的な、ましてや政治屋的な関わり合いを考えているのではない。」「違うのだ。それよりも、出来事の超政治的な教訓のことを考えたい。」
「そして今、カトリーナに荒廃させられた“ビッグイージー” ー アメリカ社会の大分析装置、その隠れた面の啓示者。たとえば、貧困の問題。...この光がけっして消えない、世界で唯一の国と言われる、何事も積極的に捉える国では、この影の部分さえも驚くべき否定の対象になるのも見た。途方も無い数の浮浪者や社会的排除の犠牲者 ー 公式には3,700万人ーが存在という明白な事実があるみのかかわらず、アメリカ国民が自らを“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ”を運命づけられた巨大な中流階級と思い続ける姿を見たし、またそういう話を聞いた。だが実際は、こうした浮浪者は、退去命令に従うとじゃ逃げる手立てさえないので、町の廃墟に閉じ込められているのだ。彼ら、あの貧困者たちは、...あの例の“gated community”の向こう側に追いやったと思っていたアメリカの前面に飛び出るのだ。彼らは町の見捨てられた中心部に安全に囲い込まれていると思われていた ー それがCNNにも登場するのだ。...彼らは統計上のことと思われていた ー だがこの統計に生命が宿ったのだ。彼らはなんども繰り返されて抽象的にになったその数字の中に石化されていると思われていた ー 数字の反乱である。...この数字が生気を取り戻し、肉体と顔を供えてきたのだ。カトリーナまたは見えないものの逆説的な出現。カトリーナまたは ー メディアのお蔭で ー 洪水以前はひとの心の底に沈んでいた、貧困というあのアトランティス大陸の急上昇。」

 人種問題。この黒人でもある、同じ貧困者の問題。民主主義国アメリカは、この放置状態が皮膚の色と無関係ではないことを、あらためて恥をもって見出すことになった。...1927年の大洪水よりはましだった。この時は、白人地区への水害圧力を弱めるために、わざと徹底的に黒人地区を氾濫させたのだから。...それでも同じ事なのだ。この怯えた貧困者の顔は黒い顔だった。この死んだ犬のように水に浮かんでいる死体は黒人の死体だった。...9.11、死は無差別に襲った。この死神は個人、ましてや人種の区別などしなかった。ここでは、死は名簿を作っていた。死神は相手を選んでいたのである。死は隔離という文字とともに消えたと思われていたその精神を取り戻した。それゆえ、八月二十八日のハリケーンは反9.11であること。」

 カトリーナのもう一つの教訓。「暴力。この暴力も現代アメリカに固有のものではない。...実際、ここでもショックは残酷である。ここでもまた、カトリーヌはニスを剥ぎ、目を開かせるという二重の効果をもたらすのだろう。狂った動物を捨てるように町を捨てる金持ちと白人の逃げるが勝ちの暴力。町にのこったものを破壊する浮浪者、貧困者、黒人の暴力 ー その怒りは、私がアフリカやアジアの忘れられた戦争の地の幽霊都市で見たのと同じで、奇妙に絶望的だった。救助のために行くが、最初の反応がしばしば銃を構えて、発砲することさえある警官の暴力 ー 同胞市民を守るために来ているのに、市民に対して、ジープに乗り、銃を手にして、ごく自然に戦争スタイルになってしまうあの州兵の暴力。」「9.11が外部からの攻撃に対するこの国の脆さをしめしたのと同様、反9.11も内部から来たあの別の脆さ、アメリカ社会がどうしても認めたくない脆さを露わにしたのだ。それは今度は、暴力の仮面を被っているだけにいっそう危険な脆さである。」
「そこで、思いやりとか同情の限界がある。」「...世界のどの国でも類例を見ない、こうした寛大な精神の高揚、多彩な救援活動は、この国の制度が生み出したもっとも気高くかつ最良のものの例証である。しかしながら、それで十分なのか?これほどの規模の悲劇に対して、人々の善意に頼るだけでいいのか?...とくに、慈善行為は事後には驚くべき効果を生むが、事前にはひどく無力ではないのか?もっとも人気のある元大統領が、大災害が起こるとすぐ、被害者のために寄付金を募るのは誰よりも立派なことだとしても、堤防やあ水門の監視、避難方法や排水設備を確保して住民の安全をはかるのは現職大統領の役目ではないのか?...これが、カトリーナが提起した別な ー きわめて単純な ー 問題である。」

 アメリカの場合の自由・平等というのは、同質の枠組みの中でのことではないのかと作者は問う。進化論と肩をならべて新創造論が平等に存在する。思想の自由は憲法にある。お見事!

 
 ___________________________________
また、別の顔を見せている、善のアメリカがここにある。
「チャーリーとの旅・アメリカを求めて」 J.スタインベック 弘文堂 昭和39年初版
「語るに足る、ささやかな人生:アメリカの小さな町で」鶴見良次 NHK出版'05年?

No comments: