2006-10-26

「ヒトは今も進化しているー最新生物学でたどる人間の一生」 R. フーパー 2006.8. 新潮社 1,500円

「The Evolving Humann:How new bioloby explains your journey through life」
by Rowan Hooper

1970年、イングランド生まれ。1988-94年、シェフィールド大学で生態学・行動生態学・性選択の理論を学ぶ。1995-99年にかけて、つくば市の国立環境研究所に在籍。この間「The Japan Times」紙に生物学に関する記事を寄稿しはじめ、現在も同紙に「Natural Selections」と「Animal Tracker」のコラムを連載している。ダブリン大学トリニティ・カレッジ客員研究員。著書に「脳とセックスの生態学」2004年  新潮社

然り、生物は今も進化している。

 もし手っ取り早く科学的教養をひけらかしたいのならば、最適の本。

 新聞のコラムであり、4~5ページで、ヒトの一生をなぞっての生物学をやさしく解説、読みやすい。。目次は以下の通り。生殖・妊娠・出産/子どもから大人へ/恋愛・結婚・子育て/感情と知性のはざまで/病気と健康/老化と死。話題の新聞記事や事件、人気俳優の名前を挙げたり、難解な生物学もこれでバッチリ。
あなたの教養度もこれで急上昇すること間違いなしの一冊。読書の秋は教養を深める秋でもある。 以上

 

2006-10-25

「哺乳類天国ー恐竜絶滅以後、進化の主役たち」   デイヴィッド R. ウォーレス 早川書房

「哺乳類天国ー恐竜絶滅以後、進化の主役たち」 
ディヴィッド R. ウォレス  2006年7月初版 早川書房 2,500円

  著者の言うには、「この本はイェール大学 ピーポディ自然史博物館にある風景画“哺乳類の時代”を紙の上に甦らせるものである。数多くの本が恐竜のためにしてきた事を、私は先史時代の哺乳類のために試みる積りだ。」
 画家はルドルフ・ザリンガー。博物館専属の画家である。進化の「システィナ礼拝堂」だという。この18メートルの絵の中にザリンガーは「自然史博物館では、古生物の復元図は一種の動物の1頭から数頭の集団を描くことで、地質学上の時間と場所を厳密に表すのが従来の習慣だったが、私はまったく異なる手法を用いた。壁全体を使って“時間のパノラマ”を再現し....地球生命の進化の歴史を象徴的に表現したのだ。」ラクダは巻物を紐解く様にプエブロテリウム→プロカルメス→カメロプス、またサイはサブヒラコドン→ディケラテリウム→テレオケラスと進化の道筋を示して登場する。ウマやゾウ達がいびつなサボテンのような系統樹を創りながら今に至っている。

 なんとも、これだけで胸がわくわくする、次のページを捲るのが待ち遠しくなる。哺乳類が中生代に「発達停止」したかに見えた理由も、その後、巨大な爬虫類が姿を消したあと、シンデレラ顔負けの変身を遂げた理由もいまだ謎のままだと言う。

 最初期の哺乳類モルガヌドン(三畳紀後期)はわずか数センチで、現在もたくましく生きているトガリネズミぐらいの大きさだという。日本のトガリネズミは大雪山にしか生息していないと思われていたが、近年本州(関東)でも発見された。「夜行性の微小ともいえる動物は生き延びるために制約は多々あったが、進化は止まらなかった。小さいままで遺伝子の多様化の道を選んだのだ。数を増やして広い範囲に進出し、それぞれその地の環境に適応しつつ、分岐点をふやしていった。」

 たとえば歯。哺乳類だけが永久歯を持つ。そして用途に応じた進化を遂げた。噛み切る・噛み砕く・突き刺す・擂り潰すという複雑な機能を持つ。爬虫類の「多生歯性」は、歯のある他の背椎動物の特徴だが、機能の分化の度合いが低く単機能である。これは、食いちぎったものを一度も噛まずに丸呑みするワニを思い起こせば直ぐ理解できる。爬虫類の下顎は複数の骨から成り、それに比べて哺乳類は単に歯骨が単関節で頭骨に結合しているだけで、構造の単純さが、歯種を分化させた。さらに槌骨と砧骨は下顎から中耳に移動することで聴覚は鋭敏になり、鼻の部分が大きく複雑になって嗅覚、ひげが生えることで触覚を発達させた。夜間にも活動できるようになり、特徴的な顎と歯のおかげで、恐竜が見向きもしなかった様々な食物を得、小さいままでニッチを広げて行った。
 2001年5月25日の新聞は、雲南省で一億五千万年前の新種の動物の頭骨(12ミリ)が発見されたと報道した。爬虫類から哺乳類に進化する途中の「哺乳類の祖先」で、推定体重2g,体長3cm。恐竜の栄えたジュラ紀前期、学名を「ハドロゴデイゥム」という。この本の中ではもっと詳しく書いてある。「名前の意味は“重い頭、または中身の詰まった頭”といい脳や顎・内耳はこれまでわかっていたよりもずっと発達していた。大きさやその他の特徴は4,500万年後の動物によく見られるものだった。ということは、哺乳類の発達はこれまで考えられていたほど恐竜の支配に阻まれていたわけではなかったのだ。」

 彼らには「何より適応性があったからである。適応能力のおかげで、巨大爬虫類の息の根を止めた環境変化の危機を乗りきれたのだ。そして、巨大爬虫類が絶滅すると、哺乳類はその適応能力の高さで急速に増加し、それまで爬虫類との競争のせいで手に入らなかった新しい生態を選び取った。」

 各章で著者は描かれた主役や名脇役について述べる。ピーポディ自然史博物館を中心にして回る究極の哺乳類たちの戦いにも触れる。それぞれが聖杯を求めてアメリカ西部やパタゴニア・モンゴル、エジプトへと発掘にでかける。その間にも殴り合い、引っかきあい、袈裟懸け、足払い、闇討ちと何でもござれのようだが、ダーウィンの始めた進化論は激しい議論の中でそれ自体進化していったのだ。

 20世紀の初頭まで、地球の年齢は一億年というのが科学的な事実であったし、生物は絶滅せずに変化するだけだというのもまた生物学的常識だったとは、驚くべき事実である。1920年代になってやっと五億年になった。そしてこの頃から古生物学はフィールドで発掘した化石の研究ではなく、研究室の中で遺伝から進化理論を、遺伝学に基づいて理論を構築するのに必要な統計的分析が主となっていく。クリック・ワトソンの二重螺旋構造の解明、ドーキンスの画期的な遺伝子論、ミームとしての生命。脚光を浴びている理論生物学者の傍ら、発掘は続き幻の聖杯がすぐそこにあるような新しい報告がなされている。

 科学と解析技術の進歩は進化論に大きく揺さぶりをかけた。1915年、ウェゲナーの「大陸移動説」が発表された。最初はたいして注目されなかった。「土地の隆起と沈降に伴って海岸線が変動したり、時には内海が大きく広がることはあっても、大陸は少なくとも中生代以降は、およそ現在の位置にあった。」というのがそれまでの学者の統一した見解だったという。第二次大戦後、調査船チャレンジャー号による計測などから「プレートテクトニクス」理論が登場した。古地磁気の研究解明も進み、生物が陸続きに住処を広げて適応・進化したという考え方、根底から怪しくなってきたのだ。
 従来の分類法は祖先と思しき生物の系譜をたどることで成り立っていた。科学史家のJ.シコードの反論は「それまでの分類学者は構造の並行進化、すなはち器官の類似性を自然界の秩序の基準にしてきた。この考え方が誤りで、類似性を基準にして似ている種を一グループにまとめるのではなく、遺伝系統による分類法が必要だったのだ。」
 系統分類学は1950年代に分岐学と名を改め、推定される祖先ではなく、共通する「派生形質」の数で化石種を結びつけ、「分岐図」によって進化を図式化する方法で、生物の時間的位置は示さない方向に進んでいく(1960年代)。1980年代には、化石生物と現生生物の進化を図式化するのに化石の定量的分析という流れの延長上にあるコンピューター・モデリングで作業し、地質データと摺り合わせることが可能になった。同時に顕微鏡の性能も格段に向上し、いままで出来なかった植物化石や花粉分析が可能となっていた。
 物理学者アルヴァレス親子の「イリジウム濃度」の研究から、新しい説が登場した。「小惑星衝突説」。数十億年かけてこつこつと適応してきた地球の生物を気まぐれな彗星がうっかりと全滅させてしまったというなんとも情けない話である。
 現在ではこのイリジウム層「K/T境界」の上と下との生物相の差異は明白と証明されているが、まだ激しい議論が続いている。新旧のダーウィニズムが落ち着く1930年代以来、主流であった「漸進説」に対して、エルドリッチとグールドの「断続平衡説」が華々しく登場した。

 絶滅の解釈の違いがそれぞれの進化論を形ずくっているが、多くの科学者の分析は地球外物体との衝突が6,500万年前一度だけではなく、地球の軌道が小惑星帯やその他の天体群を通過する度に大量絶滅が定期的に(2,600万年毎)巡ってきているという結果も出ている。ダーウィニズムにしろ何にしろ、これまで説明されてきた進化の物語は人類の出現を持って幕を閉じている。そのため往々にして、生命の進化はその役割を終了したように錯覚させられる。未来を語る進化論はない、とおもっていたら、人間の想像力の素晴らしさは あの時絶滅しなかった“新恐竜ー進化した恐竜たちの世界”やこのまま未来に進み“二億年後の世界”などが極彩色の挿絵入りで出版された!

S.J.グールドの言葉が締めくくるのに適当と思う。
「人間が進化したのはもっぱら白亜紀の大絶滅のおかげであり、この絶滅が行手の障害を一掃し、なおかつ 我々の祖先の命を救ってその道を進めるようにしたのだ。」
「人間は運がよかったのでここにいるのだ。」
「生がもっとも発達したように見えるときは、絶滅間近なのかもしれない。たとえばウマは賢いとはいえ  ない葉食性の小型動物から賢い草食性の大型動物に発達したようにみえるが、それは生き残った属が一つ だけだったからである。進化の頂点」としては、数百もの種がある現生のコウモリや齧歯類とは対照的  だ。」
「進化の典型的な“傾向”の多くはこうした不運なグループの物語である。細い小枝だけ残して剪定されて しまった木のようなもので、それが絶頂期だと謝って理解されているが、じつはかっての力強さを失った 枝がやっと残っているだけなのだ。」

 最後の三分の一は主としてダーウィンに始まる進化論の変異について語っている。それまでの発掘された化石の分類とか系統とかの話は出てこない。訝しく思われるかもいれないが、至極当然なのである。ザリンガーの言葉を思い出してみよう。「...生物の生態を描くことで時間のパノラマを再現しようとした...」

 中世からヨーロッパの知識人たる者ならラテン語の知識は必須であり、学名のラテン語の意味も我々がカタカナで読むチンプンカンプンとは異なり理解していたのだ。ラテン語をそのまま訳せば、爬虫類の王、犬の顎、猛々しく凶暴なものとなるのは、それぞれバシロザウルス・キノグナトラス・オニシエナのこと。(嵐泥棒:ザラングダレステスという詩的な名前を貰ったウサギ状の生き物もいる...)漢字文化圏の学者の不利な点である。恐竜の学名も意味が分かったらどんなにか面白かろう。

 登場する動物にあわせてザリンガーの絵の部分がモノクロで一ページずつ紹介されている。表紙はマストドンと巨大な角を持つバイソン、立ち上がったグリズリーのようなメガテリウム。見開きで全部を何頁かにわけても見せて欲しかった。細部はともかく、全体のつながりが見たかった。

 この風景画を観た事で古生物学者になろうとした子供(著者)がいたのだ。
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大陸移動の説明として、分かり易く書いている。ぜひ紹介したい。科学記事もこんな風になる見本だ。
「...初期の単弓類が栄えた三畳紀前期には、大陸はパンゲアという一つの巨大な陸塊を形成していたらしい。やがてパンゲア大陸は、新しくできた拡大中心に引き裂かれて北半球のローラシアと南半球のゴンドワナの二大陸に分裂し、さらにごたごたと小さな陸塊に分かれ、それ以降は手のかかる子供のようにあちこち動き回っている。ゴンドワナ大陸の分裂は波乱に富んでいた。南極大陸はアフリカと南アメリカを手放して極寒の南極で孤立を守り、オーストラリアとインドはアジア方面に逃げていき、その間にニュージーランド、ニューギニア、マダガスカルといった浮浪児が押し入った。ローラシア大陸はそれよりすっきりと分裂した。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸は大西洋中央の亀裂を境におおむね穏便に縁を切り、生まれた浮浪児の数はすくなかったのである。」

2006-10-20

「乞胸と江戸の大道芸」 高柳 金芳           1981年初版 柏書房 1,800円


 江戸時代の社会構成は、良民・乞胸・賤民に分けられていた。この賤民と呼ばれる人々の職種は時代により差異・変遷がある。江戸時代初期、長吏頭・弾左エ門の支配下にあった職種は28座、享保10年(1725年)には、穢多・猿飼・非人・乞胸・茶筅の5種であった。明治維新になり、賤民開放令と呼ばれる「太政官布告 第448号」が公布され、乞胸頭・乞胸の名称が廃止されるに伴い家業の特権も無くなった。武士階級は秩禄処分の代償として現金および公債が交付され、授産事業にも援助が与えられたが、彼ら乞胸の生活の根拠である家業の奪取については何らのの配慮もされなかった。

 「乞胸 ゴウムネ」とは一体どういう人々なのか。「...慶安年間1648-1651、江戸御府内において、浪人が無為徒食を禁じられたため、已む無く編み笠に面を隠し、習い覚えた謡・浄瑠璃を唱え、三味線を弾き、家々の門口に立ち、金銭を乞うたことに始まり、編み笠を被ることが乞胸の徴であった。そして、次第に寺社境内・明地、及び大道において、あるいは各家々に立ち 芸を披露し、一般から銭金を受けることを“家業”として認められた」人々なのである。
 この時の「家業」とは、綾取・猿若・江戸漫才・辻放下・からくり・操り・浄瑠璃・説教・物まね・仕方能・物読講釈・辻勧進の十二種で、時代によって多少の変化はあるが、おおむね変わらない。
 
 乞胸の頭は九代目より仁太夫と名乗り、住まいも日本橋から下谷山崎町へと移った。1842年仁太夫の書上には、配下の乞胸は749人にもおよび、四谷天龍寺門前・深川海辺大工町と合わせて三ヶ所と主として、その他は御府内に散在して暮らしていた。尚、下谷山崎町は江戸時代から四谷鮫ヶ橋・芝新網町とともに明治の貧民屈として知られていた。

  乞胸頭の支配の及ばない者は、堺町の仲村座・葦屋町の市村座・木挽町の森田屋、所謂江戸三座と狂言座、および湯島天神境内の狂言に出演する者、三河万歳・大神楽・越後獅子など。 其の他に、乞胸頭の支配外には、「願人坊」と「香具師」がいた。

 「願人坊」は、一説に1643年に東叡山寛永寺の末寺建立のために日本橋橋本町の空地に居住し、加治祈祷および毘沙門天の守り札・秘札を頒り、代参・代垢離を業として、托鉢・願望成就の祈りなどを行っていたが、次第に困窮し町家の門口にたち、軽口謎・阿呆陀羅経と唱え、はては謡・浄瑠璃を唄って米銭を乞う僧体の乞食にまで堕落していった。慶安5年(1652年)に13人であったのが、天保14年(1843年)には7~800人と膨れ上がり、また乞胸の家業の一つである「辻勧進」とも大道芸とも抵触し紛争の種となった。

 「香具師」は、「縁日・祭礼において、品物を商う露天商(縁日商人)がその手段として技芸を行った。この手段と目的が互いに交錯して露天商を「的屋 テキヤ」、技芸を主とする者を「見世物師 タカモノシ」と称するに至った。」 香具師には乞胸のように決まった頭はいない。弁舌・力量・知恵のあるものが選ばれて「首領、総元締め」となり、元締めは縁日・祭礼の日には興行師の場所の割り当て・土地借料の世話などを行うようになったが、そもそもは浪人が武士の嗜みとして覚えていた切り傷の薬などを調合して売ったり、居合い抜きをしてみせたのが香具師の始まりと言われている。
 享保20年(1735年)の記録によれば「十三香具師」と言われ、居合抜・軽業などの愛嬌芸と共に、諸国妙薬取次売り・辻療治・膏薬売りなどを生業としていた。翌20年の南町奉行大岡越前守により定められた「香具師職法式目」には、「香具師に対しその身分を定め、十手捕縛を許し、隠密御用や密貿易の取り締まりを命じた とある。
 商いは主として医薬品の販売であったが、その手段であった愛嬌芸の多くは乞胸家業の「辻放下」に属していた為、ここでも紛争・係争が生じた。
 著者の調べたところでは、「この係争の結果が如何になったかについては、種々手を尽くしたが、遂に史料、記録を発見することができなかった。恐らくは先に述べた乞胸と願人坊の“辻勧進”問題と同様に曖昧裡に落着したのではなかろうか。」

 天保の改革・・・・・「江戸時代末期の天保年間(1830-43)に至ると、幕府を始め諸大名の財政逼迫、武士の貧困化、農村の荒廃、百姓一揆の続発、そして都市生活の退廃と、あらゆる悪条件が山積・重複し、封建制度の基盤もようやく揺るぎ始めた。このため施政者は封建支配体制の維持・強化のためにも、果敢な政策の転換に迫られた。」老中首座となった水野は天保12年、享保・寛政の改革に習って天保の改革を断行した。奢侈の禁止・風俗の粛清で有名であるが、天保13年の「無宿野非人旧里帰郷令」は俗に「人返し」といわれ、江戸の無宿人の取り締まりを非人頭に命じた。公布されて半年で5,000人もの人数が「狩りこみ」「片付け」に遭った。
 ここで「ぐれ宿」が登場する。木賃宿は時代と共に変化・発展し、宿泊に食事を出す旅籠となっていったが木賃宿も貧困者の宿泊所として残った。旅籠が行き渡ると木賃宿や姿を消し、替って「長旅・六十六部・順礼・金毘羅参り・伊勢参りおよび物貰いの徒は、乞胸頭あるいは願人坊蝕頭を便りきて、宿泊を頼むようになった。一方乞胸や願人坊にしても、その家業や所業だけでは生活に苦しいので、これらを迎え入れた。これが“ぐれ宿”である。」木賃宿に比べても安い宿泊料にその日稼ぎの貧困者の利用が増え、遂にはいかがわしい者やお尋ね者までもが紛れ込むようになっていった。「人返し」の強化取締りの対象になり、無宿者と共に乞胸や願人坊の多くが宿払いに遭い、その数を半数以下に激減させたという。

 「乞胸」とは、身分はあくまでも一般の町人で、町方の支配に属するが、家業のみをその組織の頭である仁太夫を通じて浅草の非人頭、車善七の支配を受ける。ただし、家業を止めれば乞胸頭との関係は消滅し元の一般の町民に戻った。他の賤民と異なり身分は固定されたものではなく変更することの出来る特異な存在だ。だが、慶安年間から200年近くたつと幕府側や一般町民の意識に乞胸は賤民であるとの固定観念が生じてきた。明治維新の「賤民開放令」が発布され、当然、氏の称(苗字を付ける事)が許されてしかるべきであったが、明治政府は彼らは賤業の者であり、非人頭の支配を受け、非人同様の渡世であるからという理由で、「苗字用い候儀、相成らず候。」という結論をだした。

2006-10-05

「中世を旅する人びとーヨーロッパ庶民生活点描」   阿部 謹也 平凡社 


「中世を旅する人びとーヨーロッパ庶民生活点描」 阿部 謹也 
1978年初版 1980初版11刷 平凡社 1,900円

 著者はあとがきで都市における市民生活、とくに職人生活について、もっとまとまった形で論じて見たかったとしるしている。ここに挙げられている項目は、研究者がその旅の途中で出会った事柄をまるで音楽家が弦を爪弾くように見せてくれる。

 最初は、道・街道。農村に住む者にとっては「街道」と「村の道」とは全く別の世界を成していた。
街道は、主として経済上の目的と軍事上の目的のために建設され、「国王の道」とも呼ばれた。関税・通行税の徴収は勿論のこと、その所有権も国王にあった。街道に繋がる船舶航行可能な河川とその支流も街道の一部である。また街道は名誉ある者ならば誰でも通行できたが、名誉を喪失した者や践民は道を譲らねばならなかった。ただし、街道の整備や補修は近隣の共同体の役目であった。
 街道の交わるところ、十字路では善き霊と悪しき霊とが集まるところでもあり、霊の力で未来が見えるとも謂われた。町の近くの十字路は処刑場でもあり、奴隷を解放する場でもあった。

村の道ーわが国では水田や畑の畔でほぼ恒久的に区切られた道が見られる。中世ヨーロッパでは耕作地の仕組みが日本と 丸で異なる。三圃農法を採っている。この場合、耕作地は毎年移動するため、私有地を区切る畔という観念は存在しない。季節によって、年によって、用途によってその都度新しく設定される。曰く、六月の草刈用の道・木を刈り出す道・死んだ家畜を埋めに行く道・水車小屋に行く道、そして勿論、教会へ行く道.......。これらの村の道は、村落共同体が総出で整備し維持し、使用上の違反についての裁判権すら持っていた。街道を所有する国王や領域君主はその勢力を伸ばさんと村の道に触手を伸ばしていたともいう。

 11世紀ごろまでは農民という身分は無かったという。あるのは騎士と自由人、それに不自由人。騎士は農耕には従事しない。自由人は農耕に従事し、なおかつ 武装権も持っていた。騎馬軍役は装備に多大な費用がかかるために貧しい者には負担しきれず、貧困のために他の者の助力無しには遠征に参加しえない者は劣位の自由人として区別されていた。
 12世紀には自由人の武装権・私闘権が奪われ、その後、軍役義務もなくなり、徐々に農民という身分が形成されていったという。武装権を持つ名誉ある存在と それを持たない「農民」という社会的身分が生得身分として成立したのだ。その農民身分から逃れるには、成立しつつあった都市に逃げ込み商業や手工業を営むことだった。逃亡した農民が都市に向かえば結果として、市内の下層民が増える。そんな訳で、都市の人口の三分の一~二分の一は下層民・賤民であったそうな。こうした市民権を持たない住民は都市内に居住しても都市共同体からは排除され、祭りに参加することも出来なかった。

 下層民とは、職人・徒弟・僕婢・賃金労働者・日雇い労働者・婦人・貧民・乞食 そして賤民。
 賤民とは「名誉を持たない者」で、刑吏・墓堀・皮剥ぎ人・補史・牢守・共同浴場の主人・亜麻布織工・遍歴芸人・司祭の子・庶出子など。なお、パン屋や水車小屋の主なども賤民扱いであったという。

 下層民・賤民、それに人として扱われなかった人々がいる。
ジプシーと呼ばれる人々だ。彼らは法の保護の外にあり、市民の権利として彼らを鞭打ち・閉じ込め・殺すことが認められていた。16~18世紀の彼らへの排撃は苛酷で、捕らえられた彼らは強制労働、女は鞭と焼印、宿を貸した者も罰金が課せられた。1721年カール6世は「ジプシー」を絶滅せよとの命令を出したほどだ。
 彼らがヨーロッパに初めて現れたという記録は1100年アトスにある。次いで、ボスニア・セルビア。ドイツで「ジプシー」を確認されたのは1407年、パリでは1427年であった。“キリスト教に改宗し、7年間の巡礼特許状を法王から戴いている”という名目であったという。だが7年たっても10年たっても数が増えるばかりで、一向に定住もせず、放浪を続ける。その上中世末期から近代初頭にかけて、ヨーロッパには無数の放浪者・犯罪者の群れが各地で見られるようになってきていた。定住地を持たない乞食・群盗・巡礼・学生・楽師などや、戦乱で家を失った人々で、彼らが「ジプシーの群れ」を格好の隠れ場所にした。社会からはみ出した人びとと行動を共にして移動したことが「市民達」から忌み嫌われる原因ともなっていった。そして、放浪する集団の核になっていく彼らを、権力者が弾圧するのは必然のことであった。15世紀中葉、彼らはタタールの、又はトルコのスパイと言われ、ユダヤ人の変身した種族だと18世紀までまことしやかに語られていたと言う。
 ナチ時代、ヨーロッパ全体でアウシュヴィッツに送られた人数は、20万人とも40万人ともいわれている。弾圧が単にこの時代だけのものでなくもっと深い根のあることが理解できると思う。
 
 実際は、低地エジプト人と思われて「ジプシー」と呼ばれたのだが、彼らの言語はサンスクリット語と密接な関係があり、インドのビハール地方の種族と何らかの関係がある事が判明している。が、何故インドを離れて西へと旅立っていったのかは不明である。定住する機会があっても放浪を選び今に至っている。
 
 これまで「ジプシー」と表記してきたのは、彼らが自らをロマと呼んで欲しいと主張しているからだ。
ロマの意味は「ひと」で、「エスキモー」の人びとや、「ブッシュマン」の人々の主張とおなじだ。どの民族も「我ら自身」という意味の言葉を使っているのだ。先住民や大陸・島を発見し、勝手に名づける特権は誰にも無い。

 中世ヨーロッパの社会を理解するには格好の著書であるが、「ハーメルンの笛吹き男」の前に目を通しておいたほうが良かったかもしれない。 遍歴する職人については、シューベルトの歌曲集「冬の旅」と、この著書にある「オイレンシュピーゲル」に現れた職人像を対比させてもう少し詳しく別項で書いてみたい。
  

2006-10-01

「ハーメルンの笛吹き男ー伝説とその世界」       阿部謹也 '90年初版22刷 平凡社 1,854円

この本に出合ったきっかけは、06年9月17日の読書欄の「中世ヨーロッパ」と題したコラムだった。特にお勧めの四冊は表紙の写真つき。その終わり近く、三行ばかりの記事。“今月逝去した阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男」は街でたくましく生きる人びとを活写していた。”とあった。幼い頃に読んだ童話の挿絵がぼんやりと思い出されたのも一つの理由だ。
 「ハーメルン」からはヨーロッパ、特にドイツの中世都市の在り様が、「笛吹き男」からはそこに住む人びとの暮らし、社会構造を解き明かしてくれた。本は面白い。頁を開くと後から後から沢山の扉が現れるのだ。一つの扉を開けると次の扉が目に入る。扉を開けるもよし、そのままにしておくのもまたよし、扉など何処にも見つからない時もある。何日か、何年かたってまたその本を開くと.....

 さて、ハーメルン市は古来、東西交通の要路であり、ライン河からエルベ河までドイツを横断していく軍用道路の要の地でもあった。ヴェーゼル河を渡る橋はフランク時代からあり、橋を維持する為の隷農の村々が周囲に設置されていた。12世紀初頭には都市としての機能は大方完了していたようだ。水力を利用しての製粉業が盛んで、穀物の集積場として幾倉もの穀物倉が並んでいた。当然、鼠の繁殖力も高い。

 1284年、ハーメルンの街は鼠の被害で困っていた。その時鼠捕り男が現れ、報酬を払えばきれいさっぱり退治すると言う。市のお偉方は男と契約を結び、男は笛を吹いて鼠を誘き出しそのままヴェーゼル河に向かった。鼠たちは男の後を追って河に入り皆溺れた。お偉方は鼠からの災難を逃れると報酬を払うのが惜しくなり、口実を作って支払いを拒絶した。男は怒り、6月26日に町に戻って来てまた笛を吹いた。このとき男の笛についていったのは四歳以上の子供たちで、近くの山に着くと男もろとも消えてしまった。
 童話の世界では“...だから約束は守らなければいけない...”という教訓で終わっていた記憶がある。

 バルト海沿岸のクルケン村に伝わる鼠捕り男の話:ある男が粉引きのところにやってきて、住み込みで働かせて欲しいと頼むが、冷淡にあしらわれたので、鼠を小屋中に溢れる程送り込んだ。粉引きが泣かんばかりに謝ったので、男は鼠を湖の氷に穴をあけてそこに導き溺れさした。

 このように鼠捕り男の話はドイツのみならずフランスやブリテンにも伝わっている。共通しているのは、男が鼠を誘導して退治したこと、約定をまもらず報酬を払わなかったこと、男が仕返しをしたこと。また、男の身分は市民ではなく遍歴楽師であること。一所不在の民で土地を持たず定住できない者は土地所有が社会的価値の源泉であった当時、社会から除け者にされ差別されていた存在でもあった。したがって市民権の無い者との約定は守らなくてもなんら差し支えの無い、当然の行為だった、と思う。ハーメルンの子どもたちの集団失踪が鼠捕り男の復讐譚と一緒になるのは15世紀ごろからだと阿部氏は分析している。そして16世紀中葉に、添加されたのもが遍歴手工業職人たちによって全ドイツに広まっていった。

 阿部氏は続けて言う、「“130人の子供の失踪”という歴史的事件そのものには遍歴楽師は殆ど係わりを持たなかったと思う。遍歴楽師の社会的地位が近代に至るまで疎外されたものであり彼らを差別の目で眺め、悪行の象徴と見立てた人びとや学者の存在が“ハーメルンの笛吹き男”となった。」都市が繁栄していく反面、貧富の差は拡大し、近隣から流入してくる人びとは下層民・賎民となる。中世ヨーロッパでは、殆ど毎年何処かで飢饉、不作、疫病が起きていたが、そんな年でも都市の穀物の貯蔵量はかなりあったが、その価格は到底下層民の手の届くものではなかった。
 遍歴する楽師、放浪学生、手工業職人に加えて飢えた人々。このような人々が“裕福なハーメルンの町の子供たちの失踪”という話を耳にし、また片方で半ば慣例にもなっている“鼠捕り男への支払い拒否”を実感しているならば、この二つが合体するのは極く自然なことのように思われる。
 子供が失踪したのは笛吹き男の成だとする伝説がある一方、遍歴楽師に代表される放浪の民からのしっぺ返しの伝説。

 著者の阿部氏はヨーロッパの中世史が専門で、1971年ゲッチンゲン市の州立文書館で14~15世紀の古文書・古写本の分析・研究、特にバルト海に面した東プロイセンの一つの村を系統的に調べていた。史料のなかに、その村の水車小屋を舞台に鼠取り男の伝説が残されているという最近の研究が紹介されていた。阿部氏の思いは幼い頃に読んだ「ハーメルンの笛吹き男」に向かう。それからの毎日は、午前中は本来の研究に、午後はこのお伽話・伝説の分析が日課となったそうな。ゲッチンゲンからヴェーゼル河を少し下るとハーメルンで、その河口近くには音楽隊で有名なブレーメンの町ある。

 6月26日 祝祭日「ヨハネとパウロの日」はゲルマンの古い伝承では夏至の祭りの日でもあった。キリスト教は祭りの奥底に潜む古代的・異教的なものを嫌い、その伝統を根絶やしにする目的で古ゲルマン時代からの祭りの真っ只中にキリスト教の四季の斎日をぶつけた。いわばハレの日であるこの日に子どもたちが失踪したという記録を市が残している意味。2,000人の市民の中の130人は、実は子供ではなく植民のために門出する青少年であるとか、近隣の領主に引き入れられて戦いに赴く若者だとか、子供十字軍かとか、大別して25の解釈が今まで採られているという。中には純然たる作り話という説まである。

 下層民のこと

 「冬の旅」に見られる遍歴の職人のこと      未完