2006-09-27

「昨日の戦地からー米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア」  D・キーン編  2006.7. 中央公論社 2,800円



1945年八月19日からはじまるこの書簡集は、米軍日本語将校達の間で交わされた書簡である。提案したテッド・ドバリーは26歳、編者のドナルド・キーンは若干23歳であった。言うまでも無くこの年は太平洋戦争の終結した年で、米軍のとっては終戦、日本からみれば敗戦である 。

 グァム・ホノルル・マーシャル諸島のクワジェリン、京城(ソウル)・青島・南京・北京・上海、沖縄・東京・京都・佐世保・大阪・広島から、お互いに書き送った40通の書簡が収められている。23歳 D.キーン・28歳 S.モラン・29歳 F.ターナー。24歳 O.ケリー、D.オズボーン、W.ツネイシ。30歳 ヒサシ クボタ、D.ビアズレーという若い感受性に溢れる書簡であり、占領軍将校として日本語を操り接した日本人(一般人の大人や子どもたち・軍人...)、街の光景など、驚くほど素直に描いている。日系アメリカ人の二人は日本人や韓国人と接したときのお互いの戸惑いにも触れている。

 内容についての紹介も説明もしない。只、2006年の出版にあたってドナルド・キーン氏の「はじめに」からの言葉を記すだけにする。それだけで充分のような気がする。
 実は、アメリカでの出版は結局出来なかったのだ。戦後、同志社大学でアメリカ文化史の教授を務めたO.ケリーは、同志社大で若い学者グループと協力して日本語に翻訳し、52年抄訳で出版、75年から三回英語版が別々の出版社から異なったタイトルで出版されている。日本語での全文出版は今回が始めてである。

「はじめに」 D.キーン から.....
「1945年、太平洋戦争終結後まもなく、米軍の若い将校たちによって書かれたものである。・・・T.ドバリーの提案は“9月になった頃終戦直後の時点における私たちの経験を記した書簡を交換しよう”」

「自分達とおなじく、戦時中に日本語の翻訳と通訳をしていた他の人々も手紙の交換に招き入れることを二人で思い立った。歴史の重要な岐路に立っていると考えた私達は、それらの手紙が刺激に満ちた一つの時代を理解する、包括的な展望を与えることを望んだのである」

「日常においても。一層観察的になり、出版を計画した(この書簡を集めた)本の内容を高めようと、ある程度は意識していろいろな経験を追い求めるようになった。」

「当初の段階から決めていたのは、後日、新たな事実が判明しても手紙の内容には一切、手を加えないということだ。たとえ、そのために私たちの見解や未来への予測が実は間違っていたとしても。」

この若い日本語通訳将校たちは皆 海軍日本語学校で11ヶ月間の短期促成栽培された。小学校4年まで小樽で過ごしたO.ケーリ以外は日本語は初めてだった。将校であるから勿論捕虜の尋問や日本人兵士の復員にも携わる。外地で民間の日本人や現地人(中国人)との交流、好感をもって接していた日本軍将校の別の面に接し愕然とする。あらためて職務として尋問してもその将校の態度は変わらなかった。彼個人の性向なのか、日本人だからか、普遍的に人間にあることなのか。斉南から青島に戻ったD.キーンは、東京のT.ドバリーに書き送っている。40通の書簡に見えるのは、社会学的・文化人類学的フィールド・ワークの記録ともいえる。特に1945年12月、東京のO.ケーリからの書簡では、ピリンス・タカマツとその「お兄さん」、進駐軍の将校たちの率直な心境が伺える。書簡全体を通じて現代アメリカに繋がるジャーナリズム精神が随所に感じられることだ。
 この若者達は一刻も早く帰国し、もとの大学での学究生活に入りたいと願う。日本文学者・東洋思想・アメリカ文化史・ビルマのアメリカ大使・人類学者・議会図書館東洋部門局長・ニューズウィーク日本支社・原子力研究・アジア諸国での経済顧問など戦後の業績もめざましい。

 今のこの時代の我々日本人からみると、占領軍(進駐軍と日本人は呼んだ)のこの将校達は観察する側でもあり、観察される側でもあるという、そしてその時代の生の記録としての価値は初期の思惑以上に確実に存在しているのに気付く。


 日比谷のマッカーサー司令部の入っている第一生命ビル(GHQ)のクリスマスの電飾について
東京のS.モランからの書簡:1945年12月23日
 「クリスマスの飾りつけをしたGHQビルの写真が、あらゆる新聞の紙面を飾るのは間違いない。実に見事なものだ。ファサードの八本の巨大な御影石の柱のうち四本には緑の糸杉の大枝が約6フィートまで飾りつけられている。その大枝に星飾りがちりばめられ、その梢のさらに上に、また巨大なクリスマスツリーが両側に立てられ、色とりどりの電球が光っている。おまけに軒蛇腹のあたりは彩色され、花飾り模様を彫られた部品が夜には電灯に縁取られて、ビルの三方をぐるっと囲っている。そして、これらのすべての頂上には、燦然たる灯りをともされた、もう一つのクリスマスツリーが、屋上に聳えているのである。この大がかりなディスプレイ全体で二千を超える電球が使われているとか。」50人の作業員が四日懸かりで作った。

 また、12月22・23日には、「日米クリスマス音楽大会」が開かれたとも書いている。ヘンデルの「メサイア」をN響の前身であるニッポン・シンフォニー・オーケストラで、合唱は日本人と占領軍兵士で180人。主催は日本基督教団戦後生活活動委員会・国際平和協会・道議新生会。東京大学安田講堂で、観客は1,500人。殆どは兵士・水兵・陸軍婦人部隊の兵士と看護婦。

「解説」で五百旗頭 真氏が面白いことをかいている。「ほぼ1,600年ほどのこの国の歴史において、他国により滅ぼされたのは、1945年(昭和20年)ただ一度きりである。」と始めた文章で、663年の白村江で完敗、13世紀にはモンゴル軍が日本攻略を二度しかけたが辛くも防戦、19世紀半ば馬関海峡と薩摩湾で長州・薩摩の攘夷派連合軍が西洋の艦隊に敗れた。三回とも日本が植民地化しても可笑しくない状況ではあった。が、それぞれの相手国は日本を征伐するほどの軍事力の余裕が無かった。
「...興味深い現象は、白村江と攘夷派の敗北の後、それぞれ数十年にわたって、この国が中国文明と西洋文明から猛然と学習し、その時代の世界における最高水準の文明に自らを近づける躍進期を生み出したことである。国家滅亡に至らない二度の敗戦が、日本史の飛躍的な発展期をもたらした。ならば全面的な敗戦と外国軍による占領支配まで受けることになった1945年は日本史に何をもたらすであろうか。
 われわれはその長期的帰結を知っている。」と

また、この九人の若者達については、「第二次大戦直後はまだただの若者であった彼らは、実は一級の人物の青年期にあった。若き日の普通でない強烈な異文化体験が彼らを目覚めさせ、磨いた面もあろうが、優れた人物が感受性鋭い青年期に書いた手紙として本書を読んだほうが良いであろう。しかも、彼らは通りがかりのジャーナリストと違って、言語と地域についての基礎訓練を受け、重要な変革期に居合わせ、問題から目をそらさず直視する決意をもって飛び込んでいく若者であった。日本は自らの史上空前絶後の重大事態を迎えた数ヶ月に、かくもよき観察者を手にすることができたのである。」

 肌の白い、眼と髪の色が黒くない人間は地球上の何処でも年齢性別を問わず出かける。絶対なる安心感がある。また彼の地の現地民たちの頭の中には「こいつらに手を出すな、百倍になって返ってくるぞ」がある。西洋ではない土地が学んだ知恵である。

2006-09-24

「田中 清玄 自伝」  インタビュー 大須賀瑞夫    1993年 文芸春秋 1,900円

 1906年生まれのこの人物の経歴を見て、面白く無い筈は無い。途中まで読み進んで、なんでこんなに面白くないのかと不思議に思えてきた。「人」が見えてこない。

 戦前の非合法時代に旧制弘前高校時代に革命運動に走り、東大に入学後は共産党の党員で24歳で書記長まで勤める。1941年4月29日に11年10ヶ月の刑期を終えて出獄したが、獄中で転向、他に比較できないほどの天皇主義者となり「戦後、人類の平和と安定を願い、アジア・アラブ・ヨーロッパ各国で行動してきた」と語っている。右翼よりも右翼らしい彼が60年安保では左翼の全学連に巨額の資金を提供している。吉田茂に始まる政治家達、松永・土光らの財界人、禅僧 山本玄峰、京都学派の今西錦司、山口組の田岡など単なる名刺交換的な付き合いではない濃密な付き合いをしたという。そんな人間が85歳になって長時間のインタビューを受けて語ったものが面白くない筈はない。

 会津藩筆頭家老を先祖に持ち、黒田清輝に取り立てられた曽祖父は函館近郊の開拓使庁の畑などを作っていたと言う。裕福な家庭に育ったそうだ。1941年恩赦で出獄した後、禅寺龍沢寺の山本師のもとで修行、45年には建設会社“後の三幸建設”を設立。日本側の戦後処理に陰でかかわり「政界の黒幕」と呼ばれているのはこの頃の活動を指している。中東の石油を日本に持ち込み「石油利権屋」とも呼ばれる。こういう経歴の持ち主が85歳になっての二年にも及ぶインタビューが面白く無い筈は無いのだが...

 私の中には、何も残らなかった。この本というかこの人物に興味を持ったのは、クラス会の打ち合わせで同席していたT氏から何かの拍子に「田中清玄」という妙な経歴“戦前は共産党の書記長で戦後は右翼、全学連に資金提供した”を聞かされたからだ。あぁ 思い出した、彼の父君が「三幸建設」に在職していたとかの話で、その会社を始めた男は...というのがきっかけであった。それだけの話である。

2006-09-23

「アメリカ南部に生きる ー ある黒人農民の世界」    T. ローゼンガーデン 2006 彩流社 5,000円

 これは、また別の老人の話。名前はネイト・ショウ、1885年アラバマに生まれ、1973年そこで死んだ。彼の父親は15歳までショウという白人の持ち物であった。
 
 ネイトは21歳になるのを待って独立した。18の時から待って待って待っての独立だった。子供の時から父さんと畑にでて、大きくなってからは白人の畑に出された。給金は幾らだか分からないが全部父さんが“借金の”返済に充てたとしらされた。教育は黒人には邪魔だという父さんの考えでネイトは学校に行けなかった。独立してすぐ結婚したハナは家計簿をつけるぐらいの教育をうけていたので、ネイトは白人から見せられた書類はハナに読んでもらうのがつねだった。読み書きが出来無かったがネイトは記憶力と考える力をもっていた。理解出来ないものは分からないといい、理屈に合わないものは決して認めなかった。人一倍働き者であったから、白人はネイトの主張を無碍に退けることは難しかった。ネイトはそういう人間だ。
 結婚しても家もなく、妻の家に同居、財産と呼べるモノもなかった。働いて犂を手に入れ、ラバを手に入れ、半小作でも前借金のない黒人になる。「いい白人」にも出会うが「悪い白人」にも出会う。何度も煮え湯を飲まされる。この本はネイトの語るままの聞き書きである。注意して読み進めないと丸でかれは順風満帆のように思える。それほどさりげなく極く日常的な話として、白人からの差別を受けたことが語られている。原文がどんな文章か分からないがきっとPoliteという話言葉なんだろうと推測される。自分の意見も反論も口に出さずに黙って白人の話に耳を傾ける。「話ぐらい聞いてやらなきゃ気の毒だしな」

 1931年にシェアクロパーズー・ユニオンのことを聞き興味を持つ。ユニオンが最初に要求したのは、黒人が自分たちの組織を持つ権利だ。「わしらがこういう組織を求めるにはいろいろなわけがあったんだ。黒人たちは白人に何か言われるとすぐ身を引かなきゃならなかった。白人の下では、へりくだって振舞わなきゃならなかった。そうやってじぶんを守るしかなかった。」 このことをネイトは“自分の尊厳を殺す”という表現で言い表している。賛同したネイトたちは集会を開き、白人と衝突し、銃撃事件にまで発展してしまい、ネイトらは逮捕される。何人かが有罪になったが何故かネイトはその集会の首謀者と見なされたか、12年の刑を宣告される。この辺からネイトの口調が辛らつになってくる。聞き書きを始めたセオドア・ローゼンガーデンがネイトに出会ったのは、このユニオンに参加して刑に服していた経験をもつ黒人の年寄りの存在を知り、ユニオンについての論文を書く恋人とを訪ねたのがこの膨大な量の聞き書きの始まりであった。そして訳者の上杉健志氏もまたこのユニオンの活動を在外研究のテーマに選んだのが縁で著者と出会いこのネイトの話を翻訳する運びになったのだ。

1945年、出所。1950年、妻ハナ死す。ハナ名義の土地20エーカーを子供に相続させる。1953年、ジョウジーと再婚。
1954年連邦最高裁、学校の人種隔離は違憲の判決。1955年、モントゴメリー・バス・ボイコット運動始まる。1963年、ワシントン行進。1964年、公民権法。1965年、セルマ・モントゴメリー投票権要求行進。1968年、キング牧師暗殺。
1969年、著者に会い翌年からインタビューが始まった。ネイト・ショウの死後一年した1974年、本書が出版された。

 近在で一番の働き者であったネイトは、馬車を買い入れたのも自動車を買い入れたのも一番だった。自分がラバと苦労して畑に出て働いた結果で、白人にも ましてや黒人にも何も言われる筋合いはない。と ネイトは言うのだが、そんな単純にことは運んではいない。
 「おまえにはこんなことは分からんだろう、あんなことも分からんだろう、ろくな知恵が無いんだから」と言い放つ白人地主。白人が黒人に思い込ませたがっていることの数多くある中で、ネイトは土を耕す。


ネイトがラバに固執したこと。

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「映像」が出るならば、何の説明もされずに登場人物の人種が分かる。それに混血の場合はその程度も。では、活字の場合はどうであろう、特に記述がなければ私(達)は何故か当然の事として「白人」だと思って読んでいる。そして途中でその人物が黒人あるいは有色人種である紛れもない描写にぶつかり愕然としてしまう。「白人」はその名前から出自が推察できる。アイルランド系・ゲルマン系・北欧系・ロシア系・中東系と。黒人の場合は皆目分からない。ある人は昔からの苗字をつかい、ある人は結婚した相手の苗字、ある人は自分で苗字を決める。そんな訳で、黒人のハムレット・インド人のオフェーリアなどに出会うと驚いてしまう。ただ違和感はほんの少しの間で消えてしまう。それが演出家ピーター・ブルックの目指したところなのかもしれない。___________________________________________________
 
 その頃の黒人は奴隷主の名前で通っていた。自分の苗字はない。「ショウさんのところの.....」というヤツ。1885年、奴隷制度の廃止が成立して黒人奴隷は解放された。単に解放されただけで、家も土地も何も与えられなかった。地主であり元の“主”の小作農として生きるしかなかったのだ。半小作や半半小作もいた。収穫した作物ー多くの場合は綿ーの半分を地代として土地の持ち主に収める。残りの半分が自分の取り分。だが残りの半分を自由に仲買人に持ち込みそのときの相場で売ることは至難のことであったという。これもやはり土地の持ち主の所に持ち込み、その言い値で買い取ってもらう。白人は安値で買い入れた綿を相場で売り、利潤をあげる。これを仕方の無いものとして受け入れざるをえないのが実情。肥料(グァノ)の代金を前借し、日用品を白人の指定した店でツケで買う、只でさえ安い値で売った代金から引かれると負債が残ることもしばしばで、本当に引かれる金額が正しいかどうかは知らされてはくれない。記録は白人にのみ許されることだし、第一黒人が読み書き算盤は出来ないことになっているからだ。

 小作の契約はするが、「与えられるのはラバもうんざりするような荒れた土地」で、働き者の黒人に押し付ける。何年かして荒れた土地が畑の体裁を取り出すと契約をうちきり、白人の小作になる。「彼は家族が多く、食べて行かねばならないから、すまんな」という具合。ネイト・ショウはいう、「黒人にだって家族が居て全員で耕作していたのに、都合よく忘れられてしまう」。また、前借金の返済の為と称して銀行から借り入れをさせる。黒人の持ち物全部を担保にとってだ。借り入れした金は黒人の前を素通りして地主の白人の懐に直行する。黒人を呼び出してサインはさせるが内容の説明はされない。こんな風にして身ぐるみ剥がされてしまう。白人地主が白人を小作に選ばないのは、黒人の方がよく働くからだけではない。黒人に対する様に好き勝手ができないからだ。だから「貧乏白人、Poor White又は Red Neck」は気の毒だとネイトはいう。白人の創ったユニオンはそんな貧乏白人とわしら黒人のためにあったというネイトの認識の高さとどう白人は見るのか。結局ユニオンは貧乏でない白人の行政府によって潰されてしまった。

勿論、学校はあった。白人の学校と異なり年に何ヶ月も開かれない。州の予算はちゃんと配分されているが、現場の行政官は白人で、まず白人の学校のために使い、気が向いたら黒人の学校の費用にあてる。教科書も備品も教員の給料も出ない。その上収穫期の畑が忙しくなると、「放浪に対する罰」と称して歩いている成人黒人を畑に追いやる、子どもたちを働かせる為に休校にする。いつまでたってもまともな教育などは受けられない。だが、ネイトの存命中に黒人の経営する大学が出来たことも書いておかねばならない。ネイトは色の黒い白人だと笑ってはいたが...

 黒人達が大勢で集まって...などということは許されていなかった。家族や教会以外は。教会での音楽以外も同じ。楽器のない?いや、手と足がある。手を打ち鳴らし足踏みをする、腿を打つ、宗教歌はどんどん変容する。ゴスペルが、ブルースが誕生する。白人社会の教会と対比してみれば同じキリスト教とは思えまい。黒人にとっての教会は宗教の場であるとともに、劇場でもあり、議場でもあり、社交の場でもある。

 白人が黒人に思い込ませたがっていることは沢山ある。白人とは違うこと、教育は不要なこと、身奇麗に暮らすことは出来ないこと、考えるのは白人の役目だということ。 

2006-09-18

「ジャズ・マンとその時代ーアフリカン・アメリカンの苦難の歴史」 丸山 繁雄 2006.6 弘文堂 4,600円

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 確かに、「ジャズ・マンとその時代」ではある。むしろ、副題の「アフリカン・アメリカンの苦難の歴史と音楽」であり、音楽を縦糸にアメリカ黒人の歴史を織り込んでいる。自身音楽家でもある著者は、リズムと言語との関係からジャズの発生がアメリカ合衆国以外では起こり得ないことを明快に分析する。スペイン・ポルトガルはアフリカ西海岸のニジェール・コンゴ語と同じく「音節拍リズム言語」、対して英語・独語などのゲルマン語は「強勢拍リズム言語」であること、または黒人奴隷の処遇に関する差異。加えて、北アメリカにありながらフランス人の支配していたニューオルレアンズが合衆国に併合され(1803年)、白人と同等の権利を保証されていた市民であったクレオール達が、アメリカ社会になると外見の如何に関わらず黒人の血を1滴でも引く者は黒人とみなされ、有色人種として下層階級に区分けされたこと。これが結果的にジャズを誕生させたという。
 この場合のクレオールは混血人種を意味し、彼らのなかには父親の系統からの富裕階級に属する者も多く、黒人奴隷を所有し農場経営をし、子弟をヨーロッパに留学させたりもしていた。高価な楽器、特別な音楽教育を受けて初めて出来る高度な演奏技術を持った初期のジャズ・マンたちはこうして誕生していたのだ。今までずっと不思議に思っていたのが、ここで氷解した。

第一次世界大戦後、強化整備された黒人隔離目的の「ジム・クロウ法」は、1894年テネシー州で始まった。「合衆国憲法よりも各州の州法が優先されるという判決が連邦最高裁判所によってなされ、奴隷制地代にはなかば慣習的に行われていた黒人差別・分離制度が、学校、鉄道、食堂、劇場、ホテル、公園の水飲場に至るまで、公共の施設のあらゆる場面で黒人の差別が法制化された地代であった。黒人の選挙権は剥奪され、さらにリンチの凄惨さは目を覆うばかりであった。」
 極貧のうちに、1901年ルイ・アームストロングが生まれた。1920年には、Bird と呼ばれたチャーリー・パーカーが生まれ、1955年白人社会への反骨と侮蔑を貫いて死んだ。
 黒人としては中流階級の出であるマイルス・デイヴィスは1926年に生まれ、公民権運動の始まった1953年にはもうジャズ・マンとして名を成していた。丸山氏は、サッチモの「振りまかれる愛嬌」とマイルスの「倣岸さ」は、それぞれの育った時代を反映していると見ている。目を見合わせた、もしくはそう見えただけでリンチの口実になった時代と、やがては公民権運動として大きなうねりの萌芽が見られ始める時代と。
 コットン・クラブのステージはジャズをする人間にとっては最高の舞台だ。ここに出演する黒人プレイヤー達は裏口を使う。勿論白人専用のクラブであるから客は白人だけ。ステージに立って演奏している限り皮膚の色は忘れ、勝者であり英雄だった。ハーレムに戻った彼らは思いのままに演奏し、絶えず新しい手法を試し、お互いに挑戦し続けていた。「永遠の絶望」に満ち溢れた世界では、成人の黒人男性がまっとうな職につくのは難しいことであったという。単に白人の仕事を奪うからというにが理由ではあったが、実際は白人よりも仕事が巧みだったからだと社会学者のJ.W.ローウェンはいう。 貧困は荒廃を生み、最低所得者層が犯罪に移行するのは極く自然の成り行きだ。これが「永遠の絶望」なのだ。

 1968年に公民権法が成立した。だからといって社会が変わるわけではない。白人の市民と白人の警官の証言だけで逮捕され裁判にかけられる、運良く良心的な判事に出会って無罪になったとしても、家も仕事も何もかも失くしてその土地を出て行かざるを得ないのが現実なのだ。無罪を勝ち取った勝者である黒人に弁護団は「黒人は白人社会を汚染する存在という見方に変わりない。再び社会に受け入れられる可能性はゼロだ」という。これが1999年のミシシッピ州ジャクソン市の現実である。
 黒人への差別が南部だけの問題だという神話は間違いだ。「北部も含めて、黒人最底辺層の存在、その荒廃現象は全米的な問題」であることを見逃してはなるまい。

 05年8月29日のカトリーナの被害者に対して「非難命令は出した。(自分の意思で)残った住民は自己責任を果たすべきだ。避難しなかった市民にも責任はある。」とFEMAの長官は発言した。避難命令の意味が理解出来ないでいた者、家を離れている間に家財道具をなくしたら二度と買い戻せない者、避難したくても車も現金の蓄えも、安全な土地に住む縁者も居ないことを報道した記者はいなかった。ヒューストンの避難所は家族を失い家も仕事も失って身一つでたどり着いた人で溢れかえっていた。9月三日ここを訪れた元大統領夫人の発言を紹介している。「“クスクス笑いながら”もともと恵まれていない人たちですから、ここの待遇は充分ですよ」と。水と食料よりも先に、抵抗するものは全て撃ち殺せと命令された兵士が4日目に到着した。これが2005年の現実。

 これと同じ理屈はいままでも多くの場面で聞こえていた。「仕事はあるのに、何故働こうとしない」「貧民街から出て行けばいいのだ。そこが好きだといわれても仕方がない」「なぜ水泳の選手に黒人がいないって? 彼らのには浮力がないのさ」 etc. .......

 キャシアス・クレイがオリンピックで獲得したメダルは何処にあるのか。なぜ、モハメッド・アリと改名したのか。トスカニーニから百人に一人の声と絶賛され、ヨーロッパで喝采を受けてニューヨークに戻ったマリアン・アンダーソンを泊めてくれるホテルは一軒も無かったこと。事故に遭い救急患者として運ばれたベッシー・スミスは放置されて廊下で息を引き取った。

9.11から5年たって感動の映画が公開された。あの日、瀕死の怪我人を瓦礫の下から救い出し名も告げずに立ち去った海兵隊の隊員がいた。映画を見た彼は名乗り出た。彼は黒人であった。

アメリカ合衆国の人種差別を考える時、注意しなければならないのは、人種という分別は白人と非白人ではなく、白人と非白人、それと黒人のことである。

 丸山氏も書いているが、日本人が上手に歌うゴスペルやクワイヤに感じていた居心地の悪い違和感は、多分この血の繋がりの無い人間の「上手」に歌う不自然さのようなきがする。熱唱すればするほど、気持ちがはなれていく。

 このように差別や人権のことを思い煩ってどうなるというのか、なんにもならない。現在、世界のあちこちで皮膚の色や宗教によって迫害を受け 差別に甘んじているほかはない人々に私は何をしたというのか。なにもしない。ただ、これから読むだろう書物、見るだろう現実や映像に向き合った時に、その背景に思いが行くだけのこと。個人的な自己満足にすぎない。このように、私は見栄っ張りのスノッブである。

 在日米軍基地に出入りしている知人がいる。そこで普通のアメリカ人の日常生活の常識的な人種差別を有色人種の一人として経験している。だが、多くは語らない。

 参考に:「連邦黒人劇場プロジェクト」もとは公共事業促進局(仕事にあぶれた役者のためにローズベルト大統領が1930年代に始めた。イディッシュ劇場・実験的人形劇場などで、22の都市で開設されたが活動が今も続いているのはNY・シカゴ・シアトルだけ。

*無文字社会の音の世界           後日
*白人が楽器、特に打楽器を嫌った理由    後日

参考映像: マーティン・スコセッシ総監督「ブルースの誕生ー全7作」
      C.イーストウッド監督 「BIRD」

誰がどんな音だとか演奏法が聞き分けられるわけでもないが、なぜ、私はこんなにジャズ・マンの名前を知っているのだろうか。