2006-08-22

「石斧と十字架・パプアニュギニア・インボング年代記」 塩田光喜 彩流社 2006.7. ¥4,700.

 まさに、年代記なのである。
 「石器時代に生きる人々の行動と心性、そして文明と遭遇し、文明にのみこまれることによって彼らの精神にいかなる変容が生じたのか、そこからいかなる新たな精神のドラマが展開してくるのかが本書の主題である。そしてそのためには、私は絶妙のタイミングで最高のフィールドに入っていったのだった。いまから20年前、文明接触から30年、石器時代に生を受け、其の中で成人となり、石器時代の生を鮮明に記憶している老人達が未だ多数生存していた。今やインボング族に残る語り部は、私のニューギニアにおける父ウィンディ老人やわが人生の師モゴイ・オガイエ老人など十指に満たない。」

 筆者塩田氏は1985年1月から1987年4月までニューギニアに滞在し、其のうちの一年半は高地のインボングの人々とくらした。ひたすら聞き書きをし、録音し、映像で記録する。ピジンイングリッシュを習い、インボング語を習い、微妙な言い回しに戸惑いつつ、文明の誕生に立ち会っているのだと高揚した気持ちで共に暮らす。夕食を「保護者」のごとき家族と共にし、8時ごろに散会、「雨季の雨はすでに夕方から降り始め、夜になってからは篠突くように大粒の雨滴を地面にたたきつけている。.....とうとうと降り注ぐ雨に打たれながら、洗い物をする私は幸福感で息も詰まらんばかりでだった。」何の説明もなく、唐突に塩田氏は家族になり、父を持つ。読んでいてあれっと思うのだが、前のどこを捲ってみてもそんなことは書いていない。聞きたがり屋の外国人では無くなっているのである。
高地の人々との会話や語りは、(よく分からないが多分)関西言葉である。それがまた柔らかな物言いであって、標準語にはない軽妙な味をだしている。

 こういう風に言ったら如何か。氏は稗田阿礼に出会ったのだ。30年前 まだ少年か青年になりかかりの頃、父は倭国大乱で戦い、もしかしたら自分もその戦いに加わったかもしれない。文字の無い社会では覚えるということが記録することであり、当たり前の日常でもあった。恐れを知らぬ宣教師が入り、石器時代の暮らしも宗教も習俗もすべてが邪教として忌み排除したが、老人たちは記憶を奥深くしまい込んだかも知れないが、忘れ去ったわけではなかった。氏の求めに応じて豊かな表現で語り、氏は指が擦り切れるほど記録した。

 縄文からいきなり文明開化だ。たった30年で大学にいく子供もいる、純粋なほどのクリスチャンになる、白人のするビジネスというものをもたらしている通貨が白蝶貝より有利だと気づき、店というビジネスを始める。30年前までは金属の存在も知らなかった石器時代から(多少の躊躇いはあったにせよ)喜々として乗り切ってしまう。それなりに成熟した社会でなければ出来ることではない。
 思い出した。この孤立していたニューギニアで、7千年前の農耕の跡が発見された報道があったのを。日本の縄文時代だ。バナナやタロイモの栽培がされていた。(2003年6月20日の記事)

 第一部の「石斧」では長いインボング大乱やらの話。第二部の「十字架」はこういう書き出しだ。
「それまでサラサラと音を立てて流れていた時がドロリと粘って動かなくなる。心と体が弾みを失って、どんな面白い話にも無感覚で無反応になってゆく。ウィンディ老人の言葉は私の外をいたずらに通りすぎていく。」「帰ろう、ポート・モレスビーに。.....」町で文明を貪り、次の段落では懐かしい我が家の小道を踊るように通り抜けている。「シオタ。何しとったんや!アンブプルでマガリの踊りやって、オレイの衆とアンブプルの間でそらおもろい悪口歌合戦やったのに」 一ヶ月の留守は無いに等しかった。

 それから三千人も集まるブタ屠りの儀式があり、第一部でさりげなく伏線が張られていた世紀末を目の前にした最後の審判の噂、畳み掛けるように一度死んでよみがえった女の噂。噂ではなくその女にはアンボ・ルートという名前があり、村々を回って自分の経験した奇跡の話する。シオタは ラジカセに90分を超える説教を収め、「意味は分からないながら、私はその張りのある中性的な声に魅入られていた。その声に込められた深遠な謎には私の心をとらえて離さぬものがあった」村人の間では、改悛と悔い改まりが熱波のように広まり、シオタのテープを聴きにくる者が多くいた。宗教的熱狂に包まれた村では「昼と夜、安息日と日常生活の区別も失って、始終、(教会で)集会を開いているようになった。塩田氏の言うように、アンボ・ルートの説教は、つい30年前までは石器時代であったのに真にキリスト教の道理にのっとって、ひたすらに純粋にキリストと天国の話をしている。ここでも塩田氏は論評しない。インボングの人々との交わりで価値観の違いやらで戸惑うことはあっても、それはたとえば日本の中で環境の異なった土地へ単身赴任した時に感ずる類いのものとして“さよか”と受ける。インボングの人々もどうやら同じように感じて接しているようだ。

 アンボ・ルートの説教の翻訳を完成させるために、塩田氏はまた町におりる。もう村に帰らない。通訳を買って出た青年とともにインボング語のテープを書き起こし、それを日本語に翻訳するのに神経をすり減らす毎日。「このままいたら、俺はほんまに神経が参って、ノイローゼになってしまいそうなんや」ということで、ふたりは休養日を設ける。塩田氏は新聞を買いビデオを借り、BBCやABCのテレビを見る。「分厚いノートにびっちり書き込まれたアンボ・ルートの説教のトランスクリプションと翻訳を辿るうちに、私は興奮に駆られ、言葉が始原の無音の世界から生み出されてきた人類史の100万年を追体験しているように感じ、.......そして、翌朝、目が覚めた時、私は言葉を失っていた。」

 「体を切れば旋律が吹きだすまでに」音楽をきく。ブラームス、ヘンデル、シューベルト etc. 一ヶ月かけて言葉を取り戻した。日本語が読めるようになって、ピジンが話せ、「たどたどしくはあっても、曲がりなりにも日本語の文章を紡ぎだせるようになっていく」 説教の翻訳が終わる頃、通訳の青年は新しい老人に引き合わせた。なんと、その老人はカーゴ・カルトの目撃者なのだ。また翌日から新しい聞き書きが始まる。話好きなパレ老人は カーゴ・カルトの話や、白人達が来た時のインボングの老人達の驚きと誤解にまつわるさまざまな笑い話、御伽噺などをテープに10本分も話した。

「老人は戦の時代を戦い抜き、白人統治の時代の屈辱を耐え、.....そして過去の己が人生を深い満足と自信を持って眺め、楽しい追憶として祖父が孫にでも語って聞かせるように私とテレマ(通訳)に己が体験を語った。老人は石器時代、白人支配の時代、それに独立パプアニューギニアの三代を見事に生き抜いてきたのだ。そしてワイガニに林立する政府の高層ビルディングを見物し、ボロゴのスーパーマーケットに溢れかえっているモダンな電気製品や見たことも無い珍奇な食物の数々を見、まるで御伽噺の世界に紛れ込んだかのように驚き、それが自分の一代で達成されたことに誇りを抱いていたのだ。」

 1987年四月九日、塩田氏は日本へ向かった。心の半ばはインボング族として.......

注:カーゴ・カルト~パプア・ニューギニア各地で事例が報告されている宗教運動。船(または飛行機)が祖先(あるいは神格)があの世で造った富をじきに運んでくるから、もう労働する必要もなくなり、貧しかったパプアニューギニア人は富み栄え楽園の生活を送るようになるというのが共通する教義。

(本文中に多数のモノクロ写真、巻頭にはまた多量のカラー写真。だが この類いの著者にある記念写真的もしくは研究対象(人のこと)と並んで写した写真は一枚も公表されていない。)

2006-08-16

「子ども兵の戦争」 P.W.シンガー 2006年6月   NHK出版 2,100円

 「武装組織から仲間になれって言われたけど、いやだって言った。そしたら、弟を殺された。だから仲間になった。」  L、  七歳
 「村には帰りたくない。ぼくが村中の家を焼き払ってしまったから。みんながぼくをどんな目に遭わせるかわからない。だけど、きっと痛めつけるはずだ。受け入れてもらえるとは思えない。」 I、 十六歳

 や町で子どもを徴集するときに、皆の見ている前でその子どもの親・弟・妹・親戚・隣人などを殺させたり手足を切り落とさせ、村の家々に火を付けさせる。逃げ帰れないように。

 「小火器が技術的にも効率の面でも進歩した結果、いまでは子供も大人と同じくらい危険な戦闘員になれる。人類の歴史のほとんどを通じて、兵器にはそれを使う者の腕力を当てにしていた。使いこなすには何年も訓練しなければならないのが普通であったため、子供を兵士にしても役に立たなかった。」

  の昔、戦いにいくのは大人の仕事であった。しかるべく通過儀礼を受け、大人としてその社会に認められて初めて戦士となる。戦士は名誉ある存在でもあった。武器を担って行軍し戦うだけの体力のある者だけが生き残った。それが有史以来第二次大戦まで続いていた。戦後の技術革命はプラスティックを誕生させ、勿論、武器の軽量化を促進させる。カラシニコフは4.7Kg、部品も少なく30分で使い方を習得できるという。兵士の低年齢化に歯止めが無くなった。

 国の貧富の格差は広がり続ける。「先進国」「発展途上国」、そして新たに登場したのは「破綻国」だ。冷戦が終わる頃,名ばかりの弱体国家が、大国の援助で大量の小火器を受け取り独立を勝ち取った。国内の秩序を保つこともおぼつかない国の中で、資源や利権をめぐって権力闘争や紛争が新興の軍閥やら紛争企業家を生み、兵力を競いあった。手っ取り早い兵力拡大は「子供たち」だ。極端な例では200人の男が12,000人の子ども達を徴収し て兵士に仕立て上げたウガンダの事例が報告されていると言う。

 06年8月17日付けの朝日新聞は、国連ルワンダ支援団の元司令官の話を伝えている。「私の見たものは敵国の兵士同士が戦う古典的な戦争ではない。隣人が隣人を手斧や鎌で襲い、少年が少年を殺す。人道も国際法もない、おぞましい狂気と蛮行が支配する世界だ...」この司令官ロメオ・ダーレル氏は退役後、虐殺を防げなかった自責や悲惨な戦場体験から、強度のPTSDを発症した。現在はカナダ上院議員で戦争被害を受けた子どもの救済活動などに取り組んでいるという。

 大人と同じ戦闘力をもつ子ども兵士はろくに報酬を払わなくてもいいから安上がりだし、命令に疑問を持たずに従う、補充も簡単だと 組織の統率者は語るという。補充は何処でも出来る。村で、難民収容所で、孤児院で、学校で、市場で。ストリートチルドレンも狙われる。武器を扱えなくなったら処分される。幸運にも紛争が鎮圧され、安定した国になったとしよう。先進国からの援助は子ども兵士が存在していたことが発覚したら大幅な減額になるか、無くなるかだ。では存在しなかったことにしよう。子ども達はそのまま放り出される。家も家族も教育も生活する術もない人殺しと略奪だけを知っている子ども達が町や村に放り出された結果、犯罪が大増加する。これらの子ども達のPSDTに対処するNGOは無きに等しい。立場を換えただけの政府軍と反政府軍、紛争は止まず、子ども兵士も無くならない。
 保護された子ども兵士の社会復帰のためのリハビリ施設の話もこの本に載っている。近隣の村人はどういう子供達がそこに収容されているのかが分かると、襲撃し殺戮した。理由は報復と恐怖。子供達は機会をみつけては逃亡するという。戻る家も村もなくまた別の組織に徴収・拉致されるだけだ。

 「夢ではたいてい、ぼくは銃を持ってて、人を撃って、殺して、切って、手足を切り取っている。こわいよ。ひょっとしたらまたあんな目に遭うんじゃないかって。泣くこともある.....女の人をみるとこわいんだ。女の人をひどく扱ってたから、近づいたらぶたれそうな気がして、殺されるかもしれない」 Z, 14歳

 「多くの途上国の軍隊が子供兵の部隊と戦ってきただけでなく、欧米の軍隊と子供の兵士たちが相対するケースも増加している」 パレスチナの子供が何百メートルも離れたイスラエル軍の見張り所から撃ち殺された報道を思い出した。ただ遊んでいた子供たちと子供兵士との区別をつけるのが難しい場所もあるのだ。

 「組織が子ども兵士を使うという選択をするには、偶然でもなく、無知だからでもなく、純粋な悪意からでもない。根底には利害があって、子ども兵士を使うことがプラスになると信じるから、組織は熟慮した上で子供達を徴収し、教化し、兵士にして実際に使う為のプロセスを用意する。」

 著者は言う、どうすればこの悪循環を無くせるかと。国への援助物資をとめる、国として孤立させる、紛争地域の利権にかかわる企業との取引を控える、不買運動を世界的に連動させる。そして、著者はこの企業への働きかけが一番効果的だとも言う。心の痛む解決法ではないか。国連では子供達をめぐってさまざまな宣言やら決議書が発せられた。特に200年の「武力紛争への子どもの関与に関する子どもの権利条約の選択議定書」は2003年までに111を超える国が署名、50カ国が批准している。紛争を抱える国々も含まれている。 子供兵士の数は地域紛争がなくならない限り増えることはあっても減ることはない。
 
 「地雷」についても随分おおくの国が批准してはいないか。

 子供兵士の数=「進行中もしくは終結まもない紛争のうち、18歳未満の子供たちが戦闘員となっているケースは68%(55のうち37)そのうち80%で18歳未満の子供たちが戦っている。
 同様に、これはつまり、世界中のさまざまな武装組織で(つまり、政府軍でも、政治や軍事がらみで行動しているすべての非政府武装組織でも)子供たちがふえているということだ。...中略...子供兵の平均年齢は12~13歳.....全戦闘員の10%近い、20年前はこの数字はゼロだった。」
 国連の試算では50を超える国で、現役の子供兵士は30万人、軍隊や準軍事組織に徴収しているのが50万人という。

追記: 先進国の軍隊あるいは国連軍が武力組織から攻撃を受け、撃破したとき相手の戦死者の、また捕虜の半数以上が子供と分かった時、その衝撃のためにその兵士も重いPSDTを発症するという。あらかじめその対策を訓練の中に取り入れていることも付け加えるのが公平というものであろう。

2006-08-10

新しい本棚には...

本たちの引越しが終わり、次から新しい本が並ぶ。この本棚は並び替えが出来ないのでその分だけ選択のいい加減さがはっきり出て面白いのではないかと思う。     2006.8.10.

2006-08-07

「裏社会の日本史」 フィリップ・ポンス 安永愛訳 2006.3. 筑摩書房 ¥4,300

 まず、訳者である安永氏の取り組み方に敬意を表したい。随分と生意気な言葉遣いではあるが、他に表現する言葉を知らない。訳者あとがきに「差別の重い現実をも見据える内容を日本語にする心理的な葛藤をなかなか克服できないでいた。」とある。固有名詞の表記確定・事実確認の作業などを正確に行うためのチームと共に、原注を含めて400頁になんなんとする大著の翻訳を流れるような日本語に置き換えている。

 著者はフランス人で30年以上 ル・モンド誌の日本特派員として多忙な記者活動の傍ら日本に関する著述を多数著している。この著書でも分かるように氏の「知的咀嚼力」は広範囲にわたる。歴史学・文化人類学・哲学・文学などの膨大な書物の読解を基本にやくざの親分へのインタビューやドヤ街への潜入ルポなど、分析力の確かさとジャーナリストとしての姿勢がうかがわれる。

 第一章は、中世における周縁民から始めている。穢れと差別・漂泊と差別の考察、良民と賎民との選別と統制。大きな変化は明治維新と前(さき)の敗戦であると筆者は主張する。明治新政府は戸籍をもたなかった被差別民や博徒・テキヤなど非農業民で移動を伴う職業に携わる人々、彼らに戸籍を与えて新平民とした時点で差別はより巧妙な形で存続することとなっていった。被差別民の開放は、特定の職業の独占権をなくしたが、職に付くことの平等に移行したわけではなかった。

 日本の研究者が使用するのを躊躇している言葉、被差別民を呼ぶ言葉や特定の地名が出てくる。
日本人は「人権」を考える立場から「えた・ひにん」などを使用禁止語に指定した。みなし・見立ての文化である。その言葉を使わないことで差別も偏見も無いことにしよう、というのが暗黙の了解であり、安永氏の「心理的な葛藤」を知らず知らずのうちに抱いてしまう。
 ただ気になるのは、貧窮民=下層民であり被差別民であるという記述が随所に見られる。「“えた・ひにん”は根強い偏見の犠牲者であり、その後も更に社会の低層へと落ち込み、彼らのゲットーは村落からの赤貧の移住者でふくれあがり、やがて近代都市の下層を構成することになるのである。」又は「明治になり、仕事をもとめて都市に流入した人々は下層プロレタリアートを構成し、其の中でも最も恵まれない人々が自ずと貧窮地区、すなはち被差別地区にあつまった。被差別民と同一視され、差別意識は拡大された。」

 ヤクザ・テキヤ・暴力団・ドヤ街については一般向け(素人好み)の面白可笑しく書かれたものが多い。専門の研究者も被差別民については「.....昔は...」という段階で留まっている。被差別民について発言できるのは、既に歴史に組み込まれたと解釈される時代に於いてだけである。 人権擁護・差別禁止というお題目には逆らえない。地名でも敗戦ですら穏やかな名前に呼び換える。そうする事で自己の正当性を主張してきたのだと、私は考える。

 横山源之助「日本之下層社会」・松原岩五郎「最暗黒の東京」・紀田順一郎「東京の下層社会」などの潜入ルポを継ぐ書だ。現代の寄場である山谷・寿町・釜が崎などのドヤ街は、西洋でのゲットーでもスラムでもない。どんずまりの街であり住まうのは単身者の男達が殆どで、そこには家族とか家庭は存在しない。その次の段階はホームレスで「青天井の老人ホーム」になる。ここが終着点。

 圧倒的な気迫で迫ってくるのは、敗戦後の混乱期にみられた権威(占領軍・官僚)と暴力団・テキヤとの図式だ。これらに見られる日本の総括的記述は現代までつながっていく。目の覚めるようなとでも言おうか。アメリカ占領軍司令部から日本の政界・金融・行政・司法と見事なまでに出来上がったテキヤ・暴力団との癒着構図。権力と結びついた結果、市民権を得て合法的な存在までに成長し進化してきた暴力団の素顔。1992年、暴力団対策法が大規模な暴力団を押さえ込んだ結果、軛が無く「粗暴な」外国人を招来してしまった。こんなところで合点がいっては堪らないと思うほど合理的で明解な文章だ。この敗戦の混乱期から「今」までの怒涛のような記述は 社会の空気にどっぷりと浸かっている日本人ではないから 書けるのかもしれない。

 特に印象的な分析は、アメリカ占領軍が理解に苦しんだとされる“親分・子分の関係”である。「この関係は社会関係のメカニズムとしてどのような社会にもさまざまな次元で存在していたし、また現在も存在している。日本に於いてこのような関係の図式の起源は非常に古く、政治家の派閥・家元制度・大家と店子(ひいては天皇と臣民)にも及んでいる。」 頂点の親分から末端の子分にいたる共通認識あるいは同質性、結局は「日本の“単一民族的”社会の同質性なるものが西洋において公理の如く見なされているのみならず、日本においても、さらに深い意味において、明治以来、有力なイデオロギーとなっている。それが当時、国家創生の壮大なる神話を持ち出し、またそれを再生産し、“富国強兵”を推し進めるべく明治期に着手された“伝統という発明”の所産である。」
 引用が長くなったが、これは「天皇ではなくて “天皇の存在”という概念」が維新期の発展に必要だったとする佐々木 潤之介氏の論旨の別の表現ではないか。

 「やくざやマフィアの文化を母胎とする組織的システムは自分達のものである周りの社会環境において見出さなければ“水の中の魚”のように存続していくことは出来ない。.....やくざやマフィアの基層文化はそれを取り巻く社会や文化の形態に似通っているものであり、また その極端な形となっているように思われる。」

 日本史の固有名詞の比定に苦労されたとあったが、原著ではどんな表記になっていたのであろうか。たとえば、品部・雜戸など。「界隈」という言葉が頻繁に見られたが これはどんな言葉に当てはめたのだろうか。

 とにかく しんどい一冊であった!

「ヒトの全体像を求めて・21世紀ヒト学の課題」        川田順造編 2006.5. 藤原書店

大貫良夫・尾本恵市・川田順造・佐原真・西田利貞。
 Anthropoloby Prehistory Ethnology, APEの会 それにプラス Primatologyで「新APEの会」を始めようではないか!と川田氏は口火を切る。
 生年月日を見て欲しい。殆ど同期である。敗戦の日に十代初め、戦後の混乱期と飢餓の記憶を持ち、学問の爆発を目の当たりにしている。知のネットワークの「感電するばかりの喜び」を吸収し共有している。

 この方達の著作に出会ったのはもう25年以上前になるか。特に編者の川田順造氏の「無文字社会の口頭伝承・歴史伝承、モシ王国からの報告」は人の根源的な文化というもののあり方を考える上で衝撃的な程の出会いであった。一連の著作の延長上にあるのがこの本。
 若い研究者の若い発想。私の意識の中では ずっとそう感じていたが、今 あらためて考えると七十代 の決して若くは無い年になられているのに驚く。なお持続している若さにまた驚く。総合科学としての博物学の再生を 異口同音に語っている。
 私の一番初めに知った博物学者はドリトル先生だし、総合科学の重要性を書いた本はSFの「宇宙船ビーグル号」だった。銀河系のかなたの星で 専門の学者が分析しきれないモノを解くのが 日ごろ何の為に乗船しているのかと揶揄されていた「総合科学者」だ。面白い本だった。

 2005年3月、尾本・西田・大貫・川田の諸氏が、差別と暴力の問題、自然のなかの人間の位置づけの問題などに対する問題提起の後で討論に入る。討論は、1.現代世界における人類学/2.自然の一部としてのヒト/3.現代以後のヒト学はどうあるべきか/まとめは各人から「新しい始まりへ向けて」。

尾本恵市 33年生まれ、分子人類学:遺伝人類学より分子人類学。自然人類学と文化人類学との乖離。カタカナで書くヒトという特別のかただか20万年の歴史しかない特別な単一種。霊長類学は動物学である。ヒトの進化の鍵はネオテニー。区別distinctionすること、科学の原点。偏見prejudice、文化の能力が本来持っている性質、価値判断。価値判断に由来する個人的好き嫌い。
差別discriminationは特定の社会または公人としての個人が人間の価値判断に関する偏見を公に認め、または法律等に反映させること。DNAは差別の対象にはならない。単なる情報。これを差別するのが文化である。

西田利貞 41年生まれ、霊長類学:集団間暴力の起源。霊長類では、基本的にはチンパンジーとヒトだけが縄張りの外に出て他の縄張りの中に入って行き、攻撃する。ヒトは完全に組織された戦いをし、集団で同盟する。また双方とも基本はメスの移動(嫁入り)。チンパンジーは自分の出自集団との関係をひきずらないから、同盟関係を結ぶのが困難なのか。また ヒトは集団遊びをする。

大貫良夫 37年生まれ、先史学・文化人類学:人間の普遍的な特徴は、文化人類学でいう文化の定義。言語の重要性、二重文節言語を駆使。身体の外側に適応の種々な手段を作った。技術であり、それの発達である。論理体系で解釈し納得する基本的性格。幅の広い雑食性からくる繁殖力。発情期の喪失。
 今、アンデスの先住民はジャガイモを栽培し食している。では ジャガイモ文化か?かつてインカ帝国が繁栄していた谷間の素晴らしい場所にはインディオはいない。全部追い出され、スペイン人が」興味を示さない急斜面の寒い高い所で村を作り生活している。そこで出来る作物はジャガイモしかない。

川田順造 34年生まれ、文化人類学:集権的国家成立の基盤は人による人の支配。儀礼的戦争から変質した徹底的破壊の戦争。常備軍の誕生。チンパンジーやたの動物の持つ攻撃性とは本質的に異なる。ヨーロッパ型の技術文化が近代化の原点。人間非依存性。日本の場合は人間依存性、簡単な道具を人間の巧みさで使いこなす。アフリカの場合は状況依存。価値観とか狩猟環境に対する意識が西洋タイプの技術文化に譲った。野蛮人savage(同一平面上の地理的違い)から未開人primitive(「遅れたもの」として、時間的な前後関係)へとの認識の変化。

佐原真 32年生まれ、考古学:「国立民俗博物館は、考古学と歴史、関連諸学の総合の学をめざしています。もう細かく分かれているだけではとてもだめで、やはり総合しなければ全体像が見えて来ません。」カヴァー裏表紙より  (氏は2002年逝去さる。)
1997年6月の鼎談「総合の『学』をめざして」にのみ参加。 出席者:尾本・川田・佐原

 環境問題が限界にきている現代のヒト学は どう考えていけばいいのか。
ヒトの進化における文化の淘汰圧。自然史の一部としてのヒト学。総合人間学としてのヒト学・「DNAから人権まで」とまとめにある。

 そして川田氏は続けて 「いま我々が勝手に熱弁を振るい、あとを次の世代に託したつもりでいても、十年前からいままで若い世代に強い共感も反発も無かったように、これからも無反応のまま、私達の感じているヒトの危機は進行しつずけるのではないかのか あるいは、ヒトの感受性自体が変わって、危機とすら感じない状態で、グローバル化、情報化、紛争、暴力、殺人、地球破壊が進む中で、それなりのヒト」の生き方を享楽する時代になるのであろうか」と

「悪魔と博覧会」 エリック・ラーソン 2006.4.   文芸春秋社  2,952円

一気に読みあげたいと思ったが、如何せん 500ページもある。原題は The Devil in the City, murder, madness at the Fair that changed America. 1983年5月~10月までのシカゴ大博覧会の話である。

 パデレフスキー、フーディニ、エジソン、少女時代のヘレン・ケラー、マーク・トウェーン。若さ溢れるクラレンス・ダロウ、フランク・ロイド・ライト、シオドラ・ドライサー。イギリスではロンドンの霧の中で「切り裂きジャック」が恐怖を撒き散らし、コナン・ドイルは短編小説で新しい英雄を創り出していた。そんな時代のアメリカを描いたノン・フィクション大作。乞うご期待といったところ。

 パリ万博の素晴らしさが伝わっていくうちに増幅される中、おなざなりに出品した為に他国、特にフランスの引き立て役に甘んじなければならなかったアメリカがそのプライドを賭けて開催したシカゴの万博。正式な名前は「世界コロンビア博覧会」という。コロンブスのアメリカ発見400年を記念する一大イヴェントである。シカゴはブラックシティと呼ばれ 博覧会の会場はホワイトシティと呼ばれた。建築物が全て建築用の漆喰に一番馴染む塗料「鉛白とオイル」で塗られていたからであり、またシカゴという現実の街が既に混沌とした暗黒の街でもあったからだ。

 博覧会の青写真が出来、工事が始まる。主役級の登場人物が山程あらわれる。それと呼応するように物静かにH.H.ホームズと名乗る男が自分だけの青写真を携えてやってくる。彼は大量無差別殺人者で、その記録はまだ破られてはいまい。断定できないのは本人もしかとその数を覚えていないからなのだ。
 この博覧会は当時のアメリカの技術と発明の粋を集めたもので、エジソンの動く映像・長距離電話・ジッパー・観覧車! バファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショウが隣接した会場で大人気を博していた。63丁目のゲート脇にはワールズフェア・ホテルが開業し、女性客に評判のオーナーがいた。時折宿泊代を払わずに姿を消す女性客がいても気にしない鷹揚な男であった。もう一人の重要な登場人物は冴えない男で、当時の市長の熱烈な支持者で、選挙に勝利した後では当然市の要職を提供される筈だと思い込んでいた。開幕と同時に建築現場が激減し、全国から集まってきた労働者はあふれ、景気は冷え込んできた。

 当ての外れた冴えない男は閉会寸前に市長を暗殺し、練りに練った閉会式は取りやめになった。外の世界は不況の嵐が吹き荒れ、翌1984年7月、大規模なストライキがアメリカ各地で勃発した。シカゴではストの参加者が鉄道を封鎖し客車を燃やした。其のあおりで博覧会の目玉だった七つのおおきな建物に火が放たれ、全てが炎の中に崩れ落ちた。1984年12月H.H.ホームズは保険金詐欺で逮捕され、ついでに大量殺人も発覚し、1896年7月絞首刑になった。

 それから100年たって、大観覧車はその大きさを競い、物欲を第一義としない連続大量殺人は珍しい事ではなくなり、どちらもギネスブックを賑わす話題となっていった。メディァの報道は連日 世界中の出来事を伝えている。其の中ではもはや「小説のような」とか「芝居をみているような」という表現は聞かれない。現実の方が想像の世界を遥かに凌駕している。このことがSFやファンタジィの世界が持て囃されている理由の一つだろう。

 50年後、環境破壊は想像を絶するほど進み、化石燃料は枯渇し、飢えた人間が地球を食い尽くしていると思う。コロンブスの新大陸発見500年記念の行事は南北アメリカの各地で企画されたが、反対集会もまた多かった。「我々は発見されたのではない!」

 50年後ですら保証できないのに、600年記念行事だなんて.......

「都市のアボリジニ~抑圧のはざまで」 鈴木清史   1995.2. 明石書店 2,600円 

 何年も前、東京大学の人類学の公開講座に出席した。最後の授業は頭蓋骨のオンパレードだった。ルーシーからトゥルカナ・ボーイ、ネアンデルタールにクロマニオン。チンパンジーからヒトに至るありとあらゆる頭蓋骨がスライドで提示された。其の上で次から次へと手渡されるレプリカの頭蓋骨。最後にこれは現代のヒトのと注釈付きで回ってきたのはアボリジニの人の頭蓋骨であった。現代?日本に当てはめれば明治維新後か?とすれば私の曽祖父の時代である。
 其の時 私の手の上に載っていたのは アボリジニの曽祖父の頭蓋骨だった。

1788年にイギリスの入植が始まり、しばらくしてアボリジニの人々を居留地に収容する“人道的政策”が行われた。居留地では、徹底的な白人同化教育がなされ、子供たちは寄宿生活と称して同じ居留地に住む家族(大人)から離された。それは信仰であれ言語であれ習慣であれ アボリジニであることを否定する教育であった。子供たちが白人社会で通用すると見なされると、女の子はドメスチックと呼ばれる白人家庭の使用人として雇われていった。居留地から出るには一定の条件さえ整えば可能であった。「良い性格で礼儀正しく、文明的な生活習慣を身に付け、正しい英語を話し、其の上 法定伝染病にかかっていない」ことを調査・確認し 条件を満たしたとされるアボリジニには許可証(アボリジニの間ではDog Licennceと呼ばれていた)が発行され、飲酒以外の殆どの権利を獲得できるようになる。その条件の中には一親等以上の親族と接触しないことも含まれている。血の記憶以外にアボリジニであることのなにもない人たちが都市を目指した。

 一般に白人の間で言われているのは、アボリジニは」呑んだくれで犯罪を犯す率が高いということだ。著書のなかのアボリジニの方への聞き書きにも「白人なら笑って見過ごされることも我々アボリジニだと逮捕される原因になる。」とある。「呑んだくれ」のことも、アボリジニだけではなく、なべて先住民に対して「白人」のとった態度は、低賃金で過酷な労働を忘れさせる為に、率先して安酒を勧めてきた歴史があることを忘れてはならないと私は考える。

 アボリジニは600以上の言語集団に分かれ、独自の文化を四万年以上も他の民族から離れて確立して暮らしてきた。だが、親(大人)と離され、自身の文化を否定する教育を受けて育ち、都市へ向かったアボリジニの人々が民族としての共通の認識を持つのは難しかった。
 1967年の国民投票によって、やっと国勢調査の対象としての市民権を得た。が、1970年代になっても夜10時以降の外出」は尋問の対象であり、それだけで留置される理由となった。1960年代になってから、アボリジニ児童の寄宿舎への強制収容や白人家庭への里親制度が廃止された。混血のアボリジニが増え、都市へ流入する数が多くなり居留地制度を解体せざるをえなくなっていった。

 ほんの200年の間に、都市部で暮らすアボリジニの数は全体の80%にもなり、金髪で青い目のアボリジニからあらゆる段階の皮膚の色をした混血アボリジニが暮らしている。合法的な婚姻がその原因の全てではない。辺境のアボリジニ」でも純血のアノリジニという民にであうのはまれであるという。また根強い人種差別の残る社会で、先住民に対する優遇処置を受ける為の「アボリジニとしての証明」が難しくなってきつつなっているともいう。圧倒的多数の「白人」の定義する「アボリジニ」の条件を満たすことの困難さ、都市であろうと辺境であろうと、アボリジニでありたいという意識の高まり、同時に 外見的にも文化的にも白人化しつつある現実。単一ではない言語や文化を「一つのアボリジニ文化」として学習しなければならない現実。それが都市のアボリジニの抱える課題であると、著者は言う。

 この著書は民博で1970年代終わりごろから行われたアボリジニ研究の中で、都市のアボリジニをシドニーに尋ねてまとめたものである。一連のフィールドワークから次に挙げる著書が刊行された。合わせて開いてみて欲しい。 松山利夫 「ユーカリの森に生きる」NHK出版、小山修三「狩人の大地」雄山閣。また昨年、窪田幸子氏の「アボリジニ社会のジェンダー人類学ー先住民・女性・社会変化」世界思想社 3,900円は アーネムランドに生きる人々の報告書として理解を深めるのに役立つ好著である。アボリジニの教育調査をしながら親しく交わった新保満氏の「悲しきブーメラン・アボリジニの悲劇」未来社 は等身大の生活を描いている。

:アボリジニの人々の「白人」の定義は、アボリジニではない人たちのことである。またここでは先住    民という時、大陸の先住民をいう。パプア・ニューギニアとオーストラリア北東部との間にある海峡に点在する諸島民は「トレス海峡諸島民」と呼ぶ。          

「熱帯アジアの森の民・資源利用の環境人類学」   池谷 和信 人文書院 2005.6. 2,400円

民博の共同研究の成果、報告書である。

 ...変わりつつある熱帯アジアの森の民の実像とそれへ向けられる一般社会からのまなざしを環境人類学の視点から総合的に把握することを目的...と 「はじめに」書かれている。ここで言う森の民とは、大きく分けて 狩猟採集民と焼畑耕作民とに分かれる。太古の昔 ヒトは皆 森の民であった。それから少し開けた水のある土地を利用することを覚え モノを所有する文化を生み出してきた。

 つい最近まで 森の民と外部社会との接点は 森の民の側の意思で成立していた。炭水化物としての食料や金属の道具と交換するために 狩の獲物(野生動物の肉・香木・藤蔓...)を定住する民に提供してきた。貨幣経済が進み近代化が開発という形で森を分断し始めると森の民の意思などお構いなく接触せざるを得なくなる。同化・定住化促進のために「改宗」した者に物質的な援助をする。記録上「改宗」「定住」している民が多く見られるという。中には生活の手段として秘境観光客のために伝統的扮装をし伝統的(原始的)生活を再現してみせる者も出てきている。勿論かれらの日常は「普通」である。

 熱帯雨林の森林資源で暮らしている森の民は、自然保護区の数や面積の拡大している今、「環境保全の妨げ」とみなされて移動させられているのも現実であるという。近年盛んに議論されている「焼畑」による森林の減少のことを書いておきたい。本来焼畑は数家族の人間が暮らしていく為の食料を得るために 周期的に決まった森を焼き・耕作することを意味してきた。絶えず森を焼き払い移動しているのではない。森林資源の伐採・木材の切り出しには大型トラックの出入りできる道路が付随し、産業の振興という目的で火を放ち焼き払った土地に 大規模な単一植物の農園(ゴム・コーヒーなど)が出来、利益が伴わなくなると即時撤退、あとには荒廃した地面がのこる。これはアマゾンでもアフリカでも同じである。森の民は周辺の「外部社会」に吸収されつつある。先住民としての森の民は木材産業やダム開発にどう対応するか、カナダやオーストラリアの先住民組織に倣って NGOが関与する運動が行われ始めている。

 熱帯雨林を再生させるには途方も無い時間がかかる。下生えも含めての再生は最低500年は懸かると言う。これは植物だけの話であり、小動物や昆虫達が戻ってくる保証はどこにもない。

「民衆史を学ぶということ」 佐々木 潤之介 2006.4.吉川弘文館  2,300円

著者の遺作となった「江戸時代論」、同時進行的に編纂されたこの論集は、講演録・紀要類・雑誌・新聞・自治体史などに発表されたもの。「近世の国家と天皇/近世社会の展開と民衆/近世の技術と科学/現代と歴史学」の四部構成。この中で著者は近世から現代に至るまでの民衆史を学ぶという事はどういうことかと 苦い味を飲み込みながら語っている。

 柳田国男が常民といい、宮本常一が庶民とよんだ民衆の歴史は天皇の存在を抜きにしてはかんがえられないこと。天皇でも天皇制でもなくこの「天皇の存在」という概念こそが民衆史を学ぶ基礎にあるという。武士階級の出現も明治維新も 天皇・朝廷の権威からの自立を果たさなかった故に、「われら」という血縁社会からうまれた身分差別(われらではない人たちへの差別)を存続させた。敗戦から新しい民主主義国家となった時も この概念を保持することによって戦勝国の占領統治が円滑に運んだのは記憶に新しい。

 1970年代半ばから歴史学の捉え方が変わったという。常民・庶民・民衆の歴史を社会史として見直そうという潮流だという。流れが変わったなかで育った年代には、当たり前のように読み飛ばしてきた「民衆史」をもう一度ふりかえってみるきっかけになる著書であると思う。

「龍の文明史」 安田 喜憲編  八坂書房 4,800円

 東洋・西洋・新世界の龍を分析。編者は国際日本文化研究センターの教授であり、これは二つ目の共同研究の成果である。安田氏は気候変動を中心に据えた環境文明史で多くの著書があり、広い分野に少なからぬ影響を与えた、と私は理解している。
 
 龍の文明史・安田喜憲/大河文明の生んだ怪獣・荒川紘/西洋のドラゴンと東洋の龍・田中英道/操舵櫌・伊東清司/龍の起源・李国棟/龍をめぐる神話・百田弥栄子/シャーマニズムから見た龍蛇と鳥と柱・萩原秀三郎/龍蛇と宇宙樹のフォークロア・金田久璋/メソアメリカ文明における龍蛇信仰・高山智博。確かに総花的に龍について学ぶには格好の書ではある。

 うぬと言わせる力作あり、またとりあえず手持ちの薀蓄を纏めた感ありの論文と、いわば言いすぎかも知れないが 玉石混交のように思われるのである。これが共同研究の成果を」まとめたものの恐ろしさであろう。三つの世界の空飛ぶ長虫状の生き物についての比較文明論があればとの感想を持ったのは無いものねだりなのか。ともあれ、薦めるに値する一冊ではある。

 思うに 西洋の龍はドラゴンで四肢(手と足)があり、空を飛ぶが地べたも歩き火を吹く。これは両生類だろう。それに彼らの現しているのは善としての姿ではない。攻撃の対象であり、亡ぼされるべき生き物なのである。
 新世界のは翼ある蛇とよばれる。東洋の龍地べたは歩かない、ひたすら宙にいる。聖なる存在である。個々の論証はあるが比較が無いというのはこのことなのである。

「ナガサキのおばあちゃん」  高橋 克雄      金の星社 ¥1,200.

 副題に「Memories of My Granma」、見開きには <昭和二十年八月九日 原爆により爆死した家族、命日を共にした学友たち、数え切れない多くの人々の 失われた愛と生命(いのち)をしのんで捧げます。> とあります。

ケンちゃんと親友のタキもっちゃん、ミカちゃん。ケンちゃんのおばあちゃん。あなたや私と同じような子ども達の日常。ケンちゃんの父親は四歳の時に平壤で重い胸の病で亡くなり、ケンちゃんを置いて看病に行っていた母親はその後望まれてかの地で再婚。ケンちゃんは長崎のおばあちゃんに引き取られ一緒に暮らしている。再婚して直ぐにケンちゃんを引き取りたいという母親におばあちゃんは「ばってん...朝鮮は、いくら日本じゃ言うても、もともと外国じゃなかね.....」といって、結局三年生まで、長崎の港を見下ろす西坂の丘の中腹にある南京下見張りの幸福そうな二階建ての家で暮らし続けている。
 ケンちゃんが 迎えにきた母親と平壤に旅立ったのは、昭和16年の夏、「...この年の十二月、日本は真珠湾を攻撃、中国だけでなくアメリカ・イギリス・オランダなどの連合軍を相手に大きな戦争をはじめました。...」

このように、さりげなく子供たちの目の高さの言葉での文章が続く。三人の仲良しは二十六聖人の中の三つの小さい十字架に自分達と同じ仲良しを重ね合わせ、義兄弟の誓いをする。ケンちゃんとはそれきりで、昭和二十年八月九日になる。タキもっちゃんはケンちゃんのおばあちゃんの家で十一時二分を迎える。浦上で爆弾の真下にいたミカちゃんは地獄の中を線路伝いに長崎駅近くの我が家まで辿り着き、炎と煙の街を見る。それから丘の中腹のケンちゃんのおばあちゃんチへ.....

 タキもっちゃんは命を助かり、 白髪の老人になったいま 毎年あの日になると車椅子に乗って、ケンちゃんのおばあちゃんチの辺りから海を見ている。
 大きな活字で総ルビ。そうです、この本は子供たちへの本です。もしかしたらタキもっちゃんが書いたのかも知れません。戦争についての批判も、原爆にあったミカちゃんがかわいそうとか痛そうとか そんな言葉は一つもありません。穏やかに静かに、あなたや私が小さい時の事を話すように、あの日を迎えた長崎の子供たちの話をしています。穏やかに静かに。           2006年 八月 九日

私の本棚が引越しました。

どうも 他の話題の不協和音を奏で始め、居心地が悪そうなので急遽ここに移した。いささかその選択には問題があるかも知れないが、一人の人間の好奇心なんてそんなものと理解していただきたい。

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