2006-09-23

「アメリカ南部に生きる ー ある黒人農民の世界」    T. ローゼンガーデン 2006 彩流社 5,000円

 これは、また別の老人の話。名前はネイト・ショウ、1885年アラバマに生まれ、1973年そこで死んだ。彼の父親は15歳までショウという白人の持ち物であった。
 
 ネイトは21歳になるのを待って独立した。18の時から待って待って待っての独立だった。子供の時から父さんと畑にでて、大きくなってからは白人の畑に出された。給金は幾らだか分からないが全部父さんが“借金の”返済に充てたとしらされた。教育は黒人には邪魔だという父さんの考えでネイトは学校に行けなかった。独立してすぐ結婚したハナは家計簿をつけるぐらいの教育をうけていたので、ネイトは白人から見せられた書類はハナに読んでもらうのがつねだった。読み書きが出来無かったがネイトは記憶力と考える力をもっていた。理解出来ないものは分からないといい、理屈に合わないものは決して認めなかった。人一倍働き者であったから、白人はネイトの主張を無碍に退けることは難しかった。ネイトはそういう人間だ。
 結婚しても家もなく、妻の家に同居、財産と呼べるモノもなかった。働いて犂を手に入れ、ラバを手に入れ、半小作でも前借金のない黒人になる。「いい白人」にも出会うが「悪い白人」にも出会う。何度も煮え湯を飲まされる。この本はネイトの語るままの聞き書きである。注意して読み進めないと丸でかれは順風満帆のように思える。それほどさりげなく極く日常的な話として、白人からの差別を受けたことが語られている。原文がどんな文章か分からないがきっとPoliteという話言葉なんだろうと推測される。自分の意見も反論も口に出さずに黙って白人の話に耳を傾ける。「話ぐらい聞いてやらなきゃ気の毒だしな」

 1931年にシェアクロパーズー・ユニオンのことを聞き興味を持つ。ユニオンが最初に要求したのは、黒人が自分たちの組織を持つ権利だ。「わしらがこういう組織を求めるにはいろいろなわけがあったんだ。黒人たちは白人に何か言われるとすぐ身を引かなきゃならなかった。白人の下では、へりくだって振舞わなきゃならなかった。そうやってじぶんを守るしかなかった。」 このことをネイトは“自分の尊厳を殺す”という表現で言い表している。賛同したネイトたちは集会を開き、白人と衝突し、銃撃事件にまで発展してしまい、ネイトらは逮捕される。何人かが有罪になったが何故かネイトはその集会の首謀者と見なされたか、12年の刑を宣告される。この辺からネイトの口調が辛らつになってくる。聞き書きを始めたセオドア・ローゼンガーデンがネイトに出会ったのは、このユニオンに参加して刑に服していた経験をもつ黒人の年寄りの存在を知り、ユニオンについての論文を書く恋人とを訪ねたのがこの膨大な量の聞き書きの始まりであった。そして訳者の上杉健志氏もまたこのユニオンの活動を在外研究のテーマに選んだのが縁で著者と出会いこのネイトの話を翻訳する運びになったのだ。

1945年、出所。1950年、妻ハナ死す。ハナ名義の土地20エーカーを子供に相続させる。1953年、ジョウジーと再婚。
1954年連邦最高裁、学校の人種隔離は違憲の判決。1955年、モントゴメリー・バス・ボイコット運動始まる。1963年、ワシントン行進。1964年、公民権法。1965年、セルマ・モントゴメリー投票権要求行進。1968年、キング牧師暗殺。
1969年、著者に会い翌年からインタビューが始まった。ネイト・ショウの死後一年した1974年、本書が出版された。

 近在で一番の働き者であったネイトは、馬車を買い入れたのも自動車を買い入れたのも一番だった。自分がラバと苦労して畑に出て働いた結果で、白人にも ましてや黒人にも何も言われる筋合いはない。と ネイトは言うのだが、そんな単純にことは運んではいない。
 「おまえにはこんなことは分からんだろう、あんなことも分からんだろう、ろくな知恵が無いんだから」と言い放つ白人地主。白人が黒人に思い込ませたがっていることの数多くある中で、ネイトは土を耕す。


ネイトがラバに固執したこと。

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「映像」が出るならば、何の説明もされずに登場人物の人種が分かる。それに混血の場合はその程度も。では、活字の場合はどうであろう、特に記述がなければ私(達)は何故か当然の事として「白人」だと思って読んでいる。そして途中でその人物が黒人あるいは有色人種である紛れもない描写にぶつかり愕然としてしまう。「白人」はその名前から出自が推察できる。アイルランド系・ゲルマン系・北欧系・ロシア系・中東系と。黒人の場合は皆目分からない。ある人は昔からの苗字をつかい、ある人は結婚した相手の苗字、ある人は自分で苗字を決める。そんな訳で、黒人のハムレット・インド人のオフェーリアなどに出会うと驚いてしまう。ただ違和感はほんの少しの間で消えてしまう。それが演出家ピーター・ブルックの目指したところなのかもしれない。___________________________________________________
 
 その頃の黒人は奴隷主の名前で通っていた。自分の苗字はない。「ショウさんのところの.....」というヤツ。1885年、奴隷制度の廃止が成立して黒人奴隷は解放された。単に解放されただけで、家も土地も何も与えられなかった。地主であり元の“主”の小作農として生きるしかなかったのだ。半小作や半半小作もいた。収穫した作物ー多くの場合は綿ーの半分を地代として土地の持ち主に収める。残りの半分が自分の取り分。だが残りの半分を自由に仲買人に持ち込みそのときの相場で売ることは至難のことであったという。これもやはり土地の持ち主の所に持ち込み、その言い値で買い取ってもらう。白人は安値で買い入れた綿を相場で売り、利潤をあげる。これを仕方の無いものとして受け入れざるをえないのが実情。肥料(グァノ)の代金を前借し、日用品を白人の指定した店でツケで買う、只でさえ安い値で売った代金から引かれると負債が残ることもしばしばで、本当に引かれる金額が正しいかどうかは知らされてはくれない。記録は白人にのみ許されることだし、第一黒人が読み書き算盤は出来ないことになっているからだ。

 小作の契約はするが、「与えられるのはラバもうんざりするような荒れた土地」で、働き者の黒人に押し付ける。何年かして荒れた土地が畑の体裁を取り出すと契約をうちきり、白人の小作になる。「彼は家族が多く、食べて行かねばならないから、すまんな」という具合。ネイト・ショウはいう、「黒人にだって家族が居て全員で耕作していたのに、都合よく忘れられてしまう」。また、前借金の返済の為と称して銀行から借り入れをさせる。黒人の持ち物全部を担保にとってだ。借り入れした金は黒人の前を素通りして地主の白人の懐に直行する。黒人を呼び出してサインはさせるが内容の説明はされない。こんな風にして身ぐるみ剥がされてしまう。白人地主が白人を小作に選ばないのは、黒人の方がよく働くからだけではない。黒人に対する様に好き勝手ができないからだ。だから「貧乏白人、Poor White又は Red Neck」は気の毒だとネイトはいう。白人の創ったユニオンはそんな貧乏白人とわしら黒人のためにあったというネイトの認識の高さとどう白人は見るのか。結局ユニオンは貧乏でない白人の行政府によって潰されてしまった。

勿論、学校はあった。白人の学校と異なり年に何ヶ月も開かれない。州の予算はちゃんと配分されているが、現場の行政官は白人で、まず白人の学校のために使い、気が向いたら黒人の学校の費用にあてる。教科書も備品も教員の給料も出ない。その上収穫期の畑が忙しくなると、「放浪に対する罰」と称して歩いている成人黒人を畑に追いやる、子どもたちを働かせる為に休校にする。いつまでたってもまともな教育などは受けられない。だが、ネイトの存命中に黒人の経営する大学が出来たことも書いておかねばならない。ネイトは色の黒い白人だと笑ってはいたが...

 黒人達が大勢で集まって...などということは許されていなかった。家族や教会以外は。教会での音楽以外も同じ。楽器のない?いや、手と足がある。手を打ち鳴らし足踏みをする、腿を打つ、宗教歌はどんどん変容する。ゴスペルが、ブルースが誕生する。白人社会の教会と対比してみれば同じキリスト教とは思えまい。黒人にとっての教会は宗教の場であるとともに、劇場でもあり、議場でもあり、社交の場でもある。

 白人が黒人に思い込ませたがっていることは沢山ある。白人とは違うこと、教育は不要なこと、身奇麗に暮らすことは出来ないこと、考えるのは白人の役目だということ。 

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