2006-10-01

「ハーメルンの笛吹き男ー伝説とその世界」       阿部謹也 '90年初版22刷 平凡社 1,854円

この本に出合ったきっかけは、06年9月17日の読書欄の「中世ヨーロッパ」と題したコラムだった。特にお勧めの四冊は表紙の写真つき。その終わり近く、三行ばかりの記事。“今月逝去した阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男」は街でたくましく生きる人びとを活写していた。”とあった。幼い頃に読んだ童話の挿絵がぼんやりと思い出されたのも一つの理由だ。
 「ハーメルン」からはヨーロッパ、特にドイツの中世都市の在り様が、「笛吹き男」からはそこに住む人びとの暮らし、社会構造を解き明かしてくれた。本は面白い。頁を開くと後から後から沢山の扉が現れるのだ。一つの扉を開けると次の扉が目に入る。扉を開けるもよし、そのままにしておくのもまたよし、扉など何処にも見つからない時もある。何日か、何年かたってまたその本を開くと.....

 さて、ハーメルン市は古来、東西交通の要路であり、ライン河からエルベ河までドイツを横断していく軍用道路の要の地でもあった。ヴェーゼル河を渡る橋はフランク時代からあり、橋を維持する為の隷農の村々が周囲に設置されていた。12世紀初頭には都市としての機能は大方完了していたようだ。水力を利用しての製粉業が盛んで、穀物の集積場として幾倉もの穀物倉が並んでいた。当然、鼠の繁殖力も高い。

 1284年、ハーメルンの街は鼠の被害で困っていた。その時鼠捕り男が現れ、報酬を払えばきれいさっぱり退治すると言う。市のお偉方は男と契約を結び、男は笛を吹いて鼠を誘き出しそのままヴェーゼル河に向かった。鼠たちは男の後を追って河に入り皆溺れた。お偉方は鼠からの災難を逃れると報酬を払うのが惜しくなり、口実を作って支払いを拒絶した。男は怒り、6月26日に町に戻って来てまた笛を吹いた。このとき男の笛についていったのは四歳以上の子供たちで、近くの山に着くと男もろとも消えてしまった。
 童話の世界では“...だから約束は守らなければいけない...”という教訓で終わっていた記憶がある。

 バルト海沿岸のクルケン村に伝わる鼠捕り男の話:ある男が粉引きのところにやってきて、住み込みで働かせて欲しいと頼むが、冷淡にあしらわれたので、鼠を小屋中に溢れる程送り込んだ。粉引きが泣かんばかりに謝ったので、男は鼠を湖の氷に穴をあけてそこに導き溺れさした。

 このように鼠捕り男の話はドイツのみならずフランスやブリテンにも伝わっている。共通しているのは、男が鼠を誘導して退治したこと、約定をまもらず報酬を払わなかったこと、男が仕返しをしたこと。また、男の身分は市民ではなく遍歴楽師であること。一所不在の民で土地を持たず定住できない者は土地所有が社会的価値の源泉であった当時、社会から除け者にされ差別されていた存在でもあった。したがって市民権の無い者との約定は守らなくてもなんら差し支えの無い、当然の行為だった、と思う。ハーメルンの子どもたちの集団失踪が鼠捕り男の復讐譚と一緒になるのは15世紀ごろからだと阿部氏は分析している。そして16世紀中葉に、添加されたのもが遍歴手工業職人たちによって全ドイツに広まっていった。

 阿部氏は続けて言う、「“130人の子供の失踪”という歴史的事件そのものには遍歴楽師は殆ど係わりを持たなかったと思う。遍歴楽師の社会的地位が近代に至るまで疎外されたものであり彼らを差別の目で眺め、悪行の象徴と見立てた人びとや学者の存在が“ハーメルンの笛吹き男”となった。」都市が繁栄していく反面、貧富の差は拡大し、近隣から流入してくる人びとは下層民・賎民となる。中世ヨーロッパでは、殆ど毎年何処かで飢饉、不作、疫病が起きていたが、そんな年でも都市の穀物の貯蔵量はかなりあったが、その価格は到底下層民の手の届くものではなかった。
 遍歴する楽師、放浪学生、手工業職人に加えて飢えた人々。このような人々が“裕福なハーメルンの町の子供たちの失踪”という話を耳にし、また片方で半ば慣例にもなっている“鼠捕り男への支払い拒否”を実感しているならば、この二つが合体するのは極く自然なことのように思われる。
 子供が失踪したのは笛吹き男の成だとする伝説がある一方、遍歴楽師に代表される放浪の民からのしっぺ返しの伝説。

 著者の阿部氏はヨーロッパの中世史が専門で、1971年ゲッチンゲン市の州立文書館で14~15世紀の古文書・古写本の分析・研究、特にバルト海に面した東プロイセンの一つの村を系統的に調べていた。史料のなかに、その村の水車小屋を舞台に鼠取り男の伝説が残されているという最近の研究が紹介されていた。阿部氏の思いは幼い頃に読んだ「ハーメルンの笛吹き男」に向かう。それからの毎日は、午前中は本来の研究に、午後はこのお伽話・伝説の分析が日課となったそうな。ゲッチンゲンからヴェーゼル河を少し下るとハーメルンで、その河口近くには音楽隊で有名なブレーメンの町ある。

 6月26日 祝祭日「ヨハネとパウロの日」はゲルマンの古い伝承では夏至の祭りの日でもあった。キリスト教は祭りの奥底に潜む古代的・異教的なものを嫌い、その伝統を根絶やしにする目的で古ゲルマン時代からの祭りの真っ只中にキリスト教の四季の斎日をぶつけた。いわばハレの日であるこの日に子どもたちが失踪したという記録を市が残している意味。2,000人の市民の中の130人は、実は子供ではなく植民のために門出する青少年であるとか、近隣の領主に引き入れられて戦いに赴く若者だとか、子供十字軍かとか、大別して25の解釈が今まで採られているという。中には純然たる作り話という説まである。

 下層民のこと

 「冬の旅」に見られる遍歴の職人のこと      未完

No comments: