2006-10-05

「中世を旅する人びとーヨーロッパ庶民生活点描」   阿部 謹也 平凡社 


「中世を旅する人びとーヨーロッパ庶民生活点描」 阿部 謹也 
1978年初版 1980初版11刷 平凡社 1,900円

 著者はあとがきで都市における市民生活、とくに職人生活について、もっとまとまった形で論じて見たかったとしるしている。ここに挙げられている項目は、研究者がその旅の途中で出会った事柄をまるで音楽家が弦を爪弾くように見せてくれる。

 最初は、道・街道。農村に住む者にとっては「街道」と「村の道」とは全く別の世界を成していた。
街道は、主として経済上の目的と軍事上の目的のために建設され、「国王の道」とも呼ばれた。関税・通行税の徴収は勿論のこと、その所有権も国王にあった。街道に繋がる船舶航行可能な河川とその支流も街道の一部である。また街道は名誉ある者ならば誰でも通行できたが、名誉を喪失した者や践民は道を譲らねばならなかった。ただし、街道の整備や補修は近隣の共同体の役目であった。
 街道の交わるところ、十字路では善き霊と悪しき霊とが集まるところでもあり、霊の力で未来が見えるとも謂われた。町の近くの十字路は処刑場でもあり、奴隷を解放する場でもあった。

村の道ーわが国では水田や畑の畔でほぼ恒久的に区切られた道が見られる。中世ヨーロッパでは耕作地の仕組みが日本と 丸で異なる。三圃農法を採っている。この場合、耕作地は毎年移動するため、私有地を区切る畔という観念は存在しない。季節によって、年によって、用途によってその都度新しく設定される。曰く、六月の草刈用の道・木を刈り出す道・死んだ家畜を埋めに行く道・水車小屋に行く道、そして勿論、教会へ行く道.......。これらの村の道は、村落共同体が総出で整備し維持し、使用上の違反についての裁判権すら持っていた。街道を所有する国王や領域君主はその勢力を伸ばさんと村の道に触手を伸ばしていたともいう。

 11世紀ごろまでは農民という身分は無かったという。あるのは騎士と自由人、それに不自由人。騎士は農耕には従事しない。自由人は農耕に従事し、なおかつ 武装権も持っていた。騎馬軍役は装備に多大な費用がかかるために貧しい者には負担しきれず、貧困のために他の者の助力無しには遠征に参加しえない者は劣位の自由人として区別されていた。
 12世紀には自由人の武装権・私闘権が奪われ、その後、軍役義務もなくなり、徐々に農民という身分が形成されていったという。武装権を持つ名誉ある存在と それを持たない「農民」という社会的身分が生得身分として成立したのだ。その農民身分から逃れるには、成立しつつあった都市に逃げ込み商業や手工業を営むことだった。逃亡した農民が都市に向かえば結果として、市内の下層民が増える。そんな訳で、都市の人口の三分の一~二分の一は下層民・賤民であったそうな。こうした市民権を持たない住民は都市内に居住しても都市共同体からは排除され、祭りに参加することも出来なかった。

 下層民とは、職人・徒弟・僕婢・賃金労働者・日雇い労働者・婦人・貧民・乞食 そして賤民。
 賤民とは「名誉を持たない者」で、刑吏・墓堀・皮剥ぎ人・補史・牢守・共同浴場の主人・亜麻布織工・遍歴芸人・司祭の子・庶出子など。なお、パン屋や水車小屋の主なども賤民扱いであったという。

 下層民・賤民、それに人として扱われなかった人々がいる。
ジプシーと呼ばれる人々だ。彼らは法の保護の外にあり、市民の権利として彼らを鞭打ち・閉じ込め・殺すことが認められていた。16~18世紀の彼らへの排撃は苛酷で、捕らえられた彼らは強制労働、女は鞭と焼印、宿を貸した者も罰金が課せられた。1721年カール6世は「ジプシー」を絶滅せよとの命令を出したほどだ。
 彼らがヨーロッパに初めて現れたという記録は1100年アトスにある。次いで、ボスニア・セルビア。ドイツで「ジプシー」を確認されたのは1407年、パリでは1427年であった。“キリスト教に改宗し、7年間の巡礼特許状を法王から戴いている”という名目であったという。だが7年たっても10年たっても数が増えるばかりで、一向に定住もせず、放浪を続ける。その上中世末期から近代初頭にかけて、ヨーロッパには無数の放浪者・犯罪者の群れが各地で見られるようになってきていた。定住地を持たない乞食・群盗・巡礼・学生・楽師などや、戦乱で家を失った人々で、彼らが「ジプシーの群れ」を格好の隠れ場所にした。社会からはみ出した人びとと行動を共にして移動したことが「市民達」から忌み嫌われる原因ともなっていった。そして、放浪する集団の核になっていく彼らを、権力者が弾圧するのは必然のことであった。15世紀中葉、彼らはタタールの、又はトルコのスパイと言われ、ユダヤ人の変身した種族だと18世紀までまことしやかに語られていたと言う。
 ナチ時代、ヨーロッパ全体でアウシュヴィッツに送られた人数は、20万人とも40万人ともいわれている。弾圧が単にこの時代だけのものでなくもっと深い根のあることが理解できると思う。
 
 実際は、低地エジプト人と思われて「ジプシー」と呼ばれたのだが、彼らの言語はサンスクリット語と密接な関係があり、インドのビハール地方の種族と何らかの関係がある事が判明している。が、何故インドを離れて西へと旅立っていったのかは不明である。定住する機会があっても放浪を選び今に至っている。
 
 これまで「ジプシー」と表記してきたのは、彼らが自らをロマと呼んで欲しいと主張しているからだ。
ロマの意味は「ひと」で、「エスキモー」の人びとや、「ブッシュマン」の人々の主張とおなじだ。どの民族も「我ら自身」という意味の言葉を使っているのだ。先住民や大陸・島を発見し、勝手に名づける特権は誰にも無い。

 中世ヨーロッパの社会を理解するには格好の著書であるが、「ハーメルンの笛吹き男」の前に目を通しておいたほうが良かったかもしれない。 遍歴する職人については、シューベルトの歌曲集「冬の旅」と、この著書にある「オイレンシュピーゲル」に現れた職人像を対比させてもう少し詳しく別項で書いてみたい。
  

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