2006-12-30

「グリム童話の世界~ヨーロッパ文化の深層へ」 高橋 義人 2006.10. 岩波新書 700円

 メルヘンは むかしむかしあるところに ではじまり、いつまでもしあわせにくらしましたとさ で終わる、どの時代・どの国の誰にでも当てはまる現実には実現不可能な夢の話。その土地の集団記憶とも.....

 ヨーロッパに於けるキリスト教は西暦313年時の皇帝コンスタンティヌス一世による公認(ミラノ勅令)といわれているが、これは単にローマ帝国内のことで、それも教会内での闘争の繰り返しが激しくいまだ基盤が確立していなかった。異教徒・異端者の改宗を強い 後のヨーロッパ共同体の基礎を築いたのは西暦800年に即位したカール大帝である。
 「今日のイタリアからドイツに至る西欧社会がほぼキリスト教化された後でも、北欧にはまだキリスト教化の波は訪れてはいなかった。そのため いわゆる西欧社会では古代ゲルマン神話を示す文献がほんのわずかしか残らなかったのに対して、北欧では12世紀から14世紀にかけて編纂された“サガ”、9世紀から13世紀にかけて書かれた“エッダ”が、キリスト教以前のゲルマン神話・ゲルマン信仰を記した貴重な文献として残った。」「ニーベルンゲンの指輪」や「カレワラ」も含めよう。

 グリム兄弟はドイツ民衆の間に広まっていた童話=メルヘンを蒐集し始めてまもなく、メルヘンの中の非キリスト教的な性格に気づいた。グリム兄弟より前に、イタリアのバジーレ(1575?-1632),フランスのペロー(1628-1703)等の蒐集したメルヘンがあったが、どれも彼ら自身の好み・近代的な解釈に合わせて脚色されていた。グリム兄弟は、そうした方法はキリスト教以前にルーツを有するものの多いメルヘンの原型が損なわれてしまうと考え、自分達が蒐集したメルヘンは出来るだけ原型に近づけようと心がけた。とは言っても、「より多くの読者を獲得するために読みやすく、文学作品としても認められるように、文章に磨きをかけた。」のだが...

 読む人びとの存在・印刷物の流布。固定化されたメルヘンは口承物語とか伝承物語とはかけ離れた別種のモノになっていく。キリスト教社会になって、その重圧のなかで生き延びてきた物語からキリスト教色を剥ぎ取り、G兄弟の考えた「古代ゲルマン信仰」の時代に戻す為の善意からなる「改変」をした。民俗学的・神話学的資料としての価値は薄められてはいるが、その時代背景を考えれば革新的意識の変化と言えよう。

 「ハーメルンの笛吹き男」で阿部謹也氏が述べているように、教会は、土着の民間農耕儀礼は異教的なルーツに由来していたとして完全に弾圧するよりは、キリスト教のなかに取り込んでしまう方を選んだ。12月から5月までの農耕儀礼を見てみよう。冬至祭・太陽神の誕生日(ミトラ教)=クリスマス、冬の最も寒い時期のカーニバル=謝肉祭、春の来訪を告げるのは復活祭、夏の到来を祝う五月祭り。これらはより多くの収穫を願う「冬追い、夏招き」の行事である。これらの農耕儀礼は古代ゲルマンに限らず普遍的なものである。日本では立春の前の「節分会」や、正月に祝われる奥三河の「花祭」、秋田のナマハゲなど。短絡的に古代ゲルマンの あるいは古代ケルトやドルイド教の伝播の証拠として面白可笑しく論を言い立てる輩すらいる。

 「シンデレラと変身譚」:「シンデレラ」には種々の変容が見られるが、一貫して同じなのは幸福な時代から不遇のどん底に、再三変身しては歓喜を垣間見て、最後には結婚して幸せに暮らしましたとさ、で終わる。この苦難から幸福へという移行が冬から春への推移と合致すると言うのだ。「民衆がこのようなメルヘンを作り出したのは、単に劇的効果を狙っただけではあるまい。私見では、シンデレラが美から醜へ、また醜から美へと変遷してゆくのは、季節が夏から冬へ、冬から夏へと移り変わるのと対応しているのである。」と筆者は述べているのだが、はたしてそこまで深読みしていいのだろうか。疑問である。民間伝承の現代的解釈、いわば後知恵ではなかろうか。

 「異類婚姻譚」:メルヘンでの異類婚姻の形式は、父親が目先の願望をかなえる為につい口走った約束から娘と動物との婚礼話が始まる。その動物はもともとは人間で、ある種の呪いの下にあり、呪いが解けたときに人間に戻って幸せになる、というのがお決まりの筋立て。変身させられていたモノが人間に戻ることであり、動物が人間になることではない。動物に変身させられていた人との婚姻で、動物との婚姻ではない。
 境界の外に住まう生き物は獣で、家畜とは異なった存在だ。そして家畜とは明確に人間の下に位置づけられ、従属物なのだ。また、人間にも当てはまる。この場合の人間とは市民であり、勿論 境界内に住むキリスト教徒である。野山の獣と家畜:異教徒とキリスト教徒:市民権を持たない者と市民。この構図が西洋のキリスト教国の原理なのだ。
 日本にも異類間婚姻の物語はある。「鶴の恩返し」がそうだし、「天女の羽衣譚」「南総里見八犬伝」なども広く言えばこの範疇にはいるだろう。まず人間からなんらかの恩をうけた動物(獣)がいる、危機に陥った恩人を助ける為に人に変身しその身を削って尽くす、最後は人の欲深さからくる言動に絶望し、あるいはその本性が露見して山に帰るところで終わる。あとには自分の愚かさを嘆く人がたたずむだけでハッピーエンドはない。あるのは悔恨の情だ。動物は自らの意思で人に変身し、意思に反して去っていく。

 西洋でもキリスト教が広く深く浸透する前はこうではなかったろう。筆者は、L.レーリヒの著書「メルヘンと現実」に次のようにあると紹介している。レーリヒが特に注目しているのは、イヌイットの研究家として名高いK.ラムッセンの残したイヌイット・メルヘンの研究のなかで、動物が人間に、人間が動物になり、人間が四足で地面を這い回ることがまるで当然のことのように描かれている。そのことから「動物への変身はもともとは罰でも呪いでもなければ、不思議なことでも厭わしいことでもなかった。というのも動物世界と人間世界の間には、後世に見られるような教会が無かったからである。むしろ動物世界と人間世界は同等の地位を持つものとして隣接していた。」と。

 野や山の獣が人間社会で生き残るには、人間の命令に従う家畜という身分を受け入れなければならない。砂漠で生まれたキリスト教の下では、自然界の現象や動物、異教徒はねじ伏せて支配せねばならない存在だ。東洋では、宗教は森で生まれた。命あるものはすべて複雑に係わり合い、主従ではなく対等の存在である。明治維新から、特に第二次大戦後からの意識の変化はめまぐるしい。その中で薄められたとはいえ動物への親和性が根底にある社会で、ペットを完全に人間の命令通りにさせるのは不得手なのは仕方が無いのかもしれない。それどころか人間同士ですら管理しなければ不要な摩擦が起きるの社会になっている。ここから、「人間の自己家畜化」という発想が醸しだされてくるのである。

 文字化されたメルヘンはもはや口承文芸ではない。「固定化したメルヘンは、結局のところメルヘン世界全体の死を招いたとG兄弟と同時代人のアルニムはいった。」口承文芸が文字化され固定されると、そこから創作童話・幻想小説が生まれた。ホフマン、アンデルセン、ルイス・ キャロル、サン=テクジュベリ、イエーツ。エンデやC.S.ルイス、トールキン、マクドナルドに代表される新しい文学ジャンルである。そして、今、映画という新しいメディアと手を携えて「映像の文化」へと進んできた。CGでの合成はどんな世界でも現実化してしまえる。もはや個々人の自由な発想の場は少なく、固定化されつつある。

 ペローがその時代の読者層である宮廷人たちに、G兄弟がより多くの読者を獲得する為に文章を練ったように、ディズニーに代表される「映像の文化・アニメや漫画」は口承も伝承も関係ない、かつてメルヘンが持っていた農耕的性格を失い、歴史的な背景を持たない他愛のない夢物語と化してしまった。

2006-12-19

「人類の自己家畜化と現代」 尾本 恵市 編著 2002.7. 人文書院 1,600円

本書は国際高等研究所課題研究「人類の自己家畜化現象と現代文明」(1996-1998)が基になっている。

この本は殆どヒトの絶望を描いている。現在、アフリカに住む我等の従兄弟たち(ボノボ・チンパンジー・ゴリラ)が絶滅危惧種になっているが、その姿は明日の我々だと、警鐘を鳴らしている。ただ、もう人間の知恵ではどうにもならないところまで事態は進んでいるのだ。滅ぶのは人類をふくめた一部の生物で、多くの生物達は別の生態系を織り出していくことは確かなことでもある。

「はじめに」 埴原 和郎(専門は人類進化学を中心とする自然人類学):
 「人類の進化は高度に文化の影響を受け、他の生物に見られない特徴を獲得するにいたった。」
 「人類は500万年あまり前から独特の進化を始めたが、生物の進化史からいえば、極めて短時間であること、特に、脳の変化は三倍余りになり、複雑な機能をそなえるようになった。この“爆発的”進化は自然環境への適応のみによって生じたとは考えられず、文化環境への適応という要因を考慮せざるを得ない。」

 文化を運び次代に受け継がせるために遺伝子は存在するというミーム論にも関係してくると私は考える。

 「人類では文化が進化の方向を左右するという例が少なからず見られるため、身体的進化を論ずる場合にも文化の影響を無視することは出来ないにである。」「家畜は文化環境の中で生まれ、育ち、そして集団として進化する。」
 「身体的特徴が文化の影響を受けるという点では、人類も家畜も本質的に同じと考えることが出来る。」 「コントロール技術が未熟のまま文明の利器が見切り発車の状態で実用に供され始めていること。」「現代人の体が、心理的な側面を含めて、一万年以上前の旧石器時代の環境にしか適応していないということ。」

「メタファーとしての自己家畜化現象ー現代文明下のヒトを考える」
尾本 恵市
:動物における家畜化とは、咀嚼器官を中心とした顔面部の短縮がまず思いつく。「色素の減少、貧毛、縮毛など野生動物にはなく、ある種の家畜にみられる特徴が、人類では地理的変異として普通に出現し、いわゆる人種差の根拠とされる。.....人類は無意識の内に、自己をある方向に“改良”、つまり“自己家畜化”した産物ではないだろうか。.....家畜は人間によって自然から保護・管理(単に固体の管理だけでなく、生殖も管理)されて、つくられたが、人類は文化によって、自己を自然環境から隔離し、その結果として、家畜と同様の性質を持つに至った、とされる。」
 尾本氏は、「自己家畜化という比喩には、ヒトの社会における“差別”という重大な現象を理解する鍵があると気づいた。.....人間は、家畜を“有用さ”という価値判断によって改良してきた。同時に、人間は、互いに個人または集団を“有用さ”という基準によって差別するようになったのではなかろうか。」

 生物の進化にとっての一万年:「一万年前のヒトが仮にこの世に生まれて、われわれと同じ学習・教育をうけたとして、彼または彼女が現代人と著しく異なる行動をするとは考えられないのである。われわれは、一万年前の遺伝子で現代文明下の急激な環境変化にたえねばならないともいえる。」
「作り上げた環境を離れては生存できないこと、それに集団として教育やマスコミによって画一化された世界観を植えつけられ易く、個性が欠如する傾向がある。」

 平成11年2月、尾本氏は、この共同研究をしめくくる国際ワークショップでの基調講演の中で次のように発言を纏めたとある。「“自己家畜化から自己規制する発展へ”という道筋を示すことが21世紀の人類学の究極の目標である。」と。

「人間の自己家畜化を異文化間で比較する」 川田 順造:
「自己家畜化の認知的側面」 松井 健:

「清潔すぎることの危うさ」 藤田 紘一郎:今、日本が危ない、日本の子どもたちが危ないと筆者はいう。「子どもたちが自分の体からでる“きたないもの”への嫌悪感を薄めることが大切ではないかと思った。人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは“人間が生き物”であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人と自然と付き合うことができなくなっていくであろう。体から出るものを忌み嫌うことは、当然、ヒトに共生している寄生虫や細菌を“異物”として排除しようとする。その結果、人間が本来もっている免疫システムまでも弱めてしまうのである。」

 「日本の社会から全ての“異物”を排除してしまったから、その社会に住む日本人は異物とうまく付き合う術をうしなってしまったようである。いまの日本の社会にはもっともっと異物が必要である。規格はずれの人や物が必要である。街も入り組んだり、汚い場所があってよい。そうすれば、もともと本人には無関係なダニの死骸や不潔な人や物にも気がつかなくなるであろう。」

 「言葉の世界でも異物の存在を許していないようである。.....“差別語”は確かに表面上は汚く、使ってはいけない言葉かもしれない。しかし、その言葉を周囲の状況やその人との関連でみると案外暖かいものだったりすることがあるのではないだろうか。今日の言葉をとりまく状態は、差別語という異物をそれこそ疫病のように忌み嫌うあまり、確かに言葉の免疫力がうしなわれてしまったといえるだろう。」
 「社会から異物を排除し続けると、社会の免疫力が低下する。」「日本人の免疫性が低下しているばかりでなく、日本社会の免疫性が低下しているとすれば日本人の未来は無いだろう。」

 「.....私は人類はあと100年、すくなくとも1000年以内には滅亡するだろうと考えている。.....われわれの行動の遺伝的基盤は数万年の間に作られたもので、一万年前の人類とほとんど変わっていない。したがって、文明のここ数千年間の激しい変化には、にわかに対処できるはずがないのである。」
 
 藤田紘一郎氏はこう結論した。「現代の文明が過剰な清潔志向を生み、それが現代人の身体的および精神的な衰弱を導いている。その一例として、過剰な清潔志向が、雑菌や寄生虫がいるからこそ成立していた人体の免疫システムを崩している。」

「いま、子どもの口の中で何が起きているか」 桑原 未代子:
「ヒトにとって教育とは何かー自己家畜化現象からの視点」 井口 潔:

「ペットと現代文明」 吉田 真澄:「ヒトのペット化とペットのヒト化」ペットが人間社会で共生するには、人間社会のルールを学び逸脱しないようにしなければならない。欧米の公園や街路、公共施設ではペットたちが飼い主の命令に従って行動する。それが出来なければ、ルールを躾けられなかった飼い主が社会のなかで糾弾される。人格さえ疑われるのだ。家畜に対する文化の差といえよう。日本ではペットとの一体化から来る他人との摩擦が増加している。人間社会の常識的ルールを理解できない飼い主がペットを躾けることなど出来ないのだ。東洋(日本)での家畜にたいする姿勢が欧米と異なるのは、文化の成り立ちが異なることが要因である。農耕と牧畜との差といえば理解し易いかもしれない。他者に厳しくすることが不得手なのだ。他者(人・ペット)を甘やかすことが優しいことではない。

「ヒトの未来」 武部 啓:「ヒトの未来はクローン人間であってはいけない。」遺伝子の多様性こそが種の継続を可能にする。クローニングでうまれた命の細胞の年齢は、提供した個体の年齢なのだ。ヒトのクローンを作るということは、どんなに解釈しても利害が、それも個人的な利害が絡んでくる。優秀な頭脳・芸術家・運動選手などが自分とおなじ能力をもつ個体が欲しくなる、そんな固体が家系にいればと思う。また、余命いくばくも無い一歳の子どもとそれ以上妊娠できないと診断された母親がいるとしよう。その母親がクローンのわが子を望んで何が悪いという理論がある。この場合の細胞は一歳だ。だが、もし、この子に先天性の障害があっても母親はクローニングを望むだろうか。そこに選別という意識が見えてくる。もし、ヒトのクローニングが許されるならば、子どもの誕生と同時にスペアとしてのヒトが生まれるだろう。それだけの財力があればの話。SF小説の世界ではもうこの珍しい話題ではなくなっているのだ。

 「生物の最大の特徴は多様性にあると、私は確信している。多様性とは、一人一人の顔つきも、性格も、考え方もことなることであり、人間社会はそのような人間の集団なのである。クローン人間の作成は、そのような多様性に支えられた人間社会を否定し、ある特定の意図のもとに人間と人間社会を改造しようとする方向性を秘めている。西洋諸国の、クローン技術への反発は、本能的にそれを感じ、多様性を尊重する西洋文化への挑戦と受け止めた結果であった、と私は確信している。日本は本質的に人間の多様性には否定的な文化なのではないだろうか。.....人間の多様性の尊重は、障害者に対する態度にもしばしば反映する思想である。障害者を同情し、あわれむべき対象と見るのか、障害者も人間の一つの姿にすぎないと、同じ視点から見るのかという根本的な論議が日本では不足している。、と私は感じている。特に、先天的な障害に対して、そのような人は生まれてくるべきではなかった、あるいはこれから生まれないようにすべきである、という排除の概念が、いわゆる先進国の中でも日本は特につようのではないか。」
武部氏の結論:「ヒトは人類の英知によって生物種として存在し続けるだろう、との確信である。」

「おわりに」 尾本 恵市

2006-12-09

「大地の咆哮ー元上海総領事が見た中国」 杉本信行 2006.7. PHP研究所 1,700円

 初めて中国へ行ったのは1979年3月、夜遅く北京に着いた。市内まで暗い道をバスが行く。広い道の交差点には裸電球が吊り下げられていて、人が大勢歩いている。全ての職場は3交代だからとのこと。3~5階建ての大きな建物の窓ガラスは割れたままであったり、ところどころぼんやりした灯りが見える。やっと開放が政策として始まったころで、外国人は日本でいうパンダ並の奇異な動物として見物の対象だ。トルファンなどのシルクロードを訪ねた。それから2000年までに何度も少数民族を訪ねて地方を旅した。

 山を幾つも越えてやっと車の通れる道が出来た村。水は竹や木の樋で山からひいて来る。電気もまだの土地が多かった。細い電信柱が道の端にたっている。電線はない。通訳の中国人に尋ねるとこう答えた。地方の人は教育がないから盗むのだそうだ。公のものは所有者がいないから貰っても気にならないのだと。公衆に係わることについては 工夫するとか改善するとかの意識は皆無のようだ。生ゴミは店のそとに放り投げる。共同厠所は使用に耐えられない。バスや路面電車に乗るときに並ぶという事はしない。生活のすべてがわれがちになのだ。

 大きな都市に近づくと工場からの色とりどりの煙が煙突から勢いよく噴出している。河は汚染された水が泡を巻き上げて流れている。建築現場や道路工事で働いている男達は私服。革靴や穴のあいたスニーカー。
老朽化した工場では劣悪な環境で、生産効率がいいとはお世辞にもいえない。環境破壊はすさまじい。
 
 現代の中国がかかえる最大の脆弱性は、国民の貧富の差。それと地域間の格差。都市と農村の間の差別感情。東京などより凄い林立する高層建築物。超豪華なホテルから地方の招待所まで泊まったが、部屋の水回りの完全に施工されているところはなかった。壁や床の亀裂へと滴り落ちた水が流れていく。見かけは豪華だが仕事はやっつけ仕事、職人の仕事ではない。

 この著書のなかで溜息と共に活字になっているのは、「何故、中国は気づかないのだろうか」ということだと思う。あまりにも広大で、あまりにも多い人口。殆ど現金収入のない地方の奥に住む少数民族。いままで中国の人が書いた「現代中国の悩み」の本を随分読んだ。ジャーナリズムという歴史のない、あるいはその教育のない報告は正直なところ、気の毒とは思うが説得力が弱い。なにもかもが桁外れなのだ。

 杉本氏のこの著書の中で述べている「水」について述べよう。中国で豊かな水資源のあるのは江南の地、揚子江の潤す土地と砂漠のオアシスだろう。黄河の水は無いに等しく、大きな河川は勝手にダム建設で水を取り込む。中国の年間平均降水量は660mm、日本の四割程度。使用可能な水資源保有量は世界第四位だが、一人当たりの水資源量は世界の一人当たりの平均量の四分の一。「貧水国」なのだ。
 
 驚くべき統計が紹介されている。降水の五分の四は南部に、耕地の三分の二は北部に。降雨量は夏と秋に集中し、夏の四ヶ月の降雨量が南部では年間降雨量の60%、北部では80%、このため水資源の三分の二は洪水として流失してしまうし、夏の豪雨を溜めようがない土地が多い上、黄土高原では樹木が極端に少なく、保水能力が乏しい。沿海部の都市や北京での水消費は増加し続け、地下水の汲み上げから地盤沈下をもたらしている。都市部での水不足の解消には農業用水をあて、また工業用水にはやはり農業用水をまわす。同じ量の水を消費しても工業製品は価格にして70倍もの価値があるからという理由で。
 その結果、農民が生活に使う水の確保もままならない土地すら出てきている。人口増加に伴い水消費は増加する上に、生活が豊かになれば肉や野菜の消費も増える。水の絶対量は増えない。地下水の水位が70mも下がった山西省の例も報告されているという。水難民が出始めている。水の浪費も問題だという。大都市での水道管からの漏水は20%にも及び、また工業面でいえば、先進国で1トンの鉄鋼を生産するのに平均6トンの水を使うが、中国では20~50トンに水を使う。紙の生産でも2.5倍に水を使う。設備の改善が早急な問題になってきている。

 温暖化による生態系の破壊、気候変動などによる砂漠化が着実に進行している。中国の砂漠地域の面積は国土の28%にもなり、90年代には毎年神奈川県の面積に相当する面積が砂漠化していたし、現在ではもっとその速度が加速し、毎年大阪府の二倍の面積が砂漠化している。飛行機からみる北京はオアシスなんだと実感できるし、砂漠は18kmのところまで迫っている。

 著者はこの本の目次に、「中国との出会い・尖閣諸島問題・経済協力について・台湾人の悲哀・対中ODAのこと・搾取される農民・反日運動の背景・靖国問題・転換期を迎えた中国の軍事政策」をあげている。

中国で問題なのは、差別・教育、それに公共という概念だろう。
 農村と都市の間の法的な裏づけのある身分差、貧富の差は仕方ないとしても。あって無きが如きの義務教育。三権の独立性、わけても司法の独立。国政に加わっていない黒子の存在。環境破壊についての認識。
 中国は大きすぎるのかもしれない。広すぎるし、人口も多すぎる。世界中の環境の見本市のような自然。どんな意味においてもコントロール不可能なことを認めようとしない政府。もしかしたら、人類の生存の鍵は中国が握っているのかもしれないと思う。
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中国人留学生の話:弁当屋にバイトに入ったという情報が流れると、友人や友人の友人は弁当を買いにいく。知り合いがくると何も言わなくても一ランクも二ランクも上の惣菜をサービスするから...

スーパーの地下の食堂で:札幌ラーメンとかコーヒースタンド、クレープ屋と並んで本場中国の味と称して店ができた。しばらくすると中国人の女性が一人で切り回すようになった。一服するのにその食堂の隅で一息入れていると嫌でも目につく。いつ行っても知り合いらしい人が何人かテーブルを囲んでいる。頼んでいないのに料理が次々運ばれる。中国茶も。店の女性も一緒になって中国語でおしゃべりに夢中。日本人の客が何かを注文している姿は見たことが無かった。

2006-11-30

WAVY さん! 

J: いつもお訪ね戴いて有難うございます。なんやらこのブログはへんですね。じつは、投稿した記事もこんな風に超長駄文が続かないように「一つ目の段落、もしくは全角で127字の短い方」に設定してあるのですが、Mr.Google はちっとも言う事を聞いてくれません。どうなっているんでしょうね、これこそ何かのエラーなのに。それについて彼は黙して語らず。先頭のみ/完全 なんて選択させない方がいいのに。でもいまのところ、彼のご機嫌はいいのであまり悪口を言いたくありません。 2006.10.30. 00:02

J:えぇっと、どなたかは存じませんが、はじめまして。(初めての方の前では丁寧語も使えます。大人ですから.....) お近くへお出での際はどうぞお立ち寄りください、でしょうか。この出会いではどんな挨拶がいいか、難しいです。ともかく よろしく!
          

2006-11-23

「祖先の物語 」  リチャード・ドーキンス  2006.9.   小学館 上下 各3,200円

THE ANCESTOR'S TALE:A Piligrimage to the Dawn of Life
「祖先の物語:ドーキンスの生命史」

 歴史の本はどれもそもそもの始まりから記述されている。お伽話も「昔々あるところに...」から始まる。生命史の場合、極端に言えば、濃いスープの中の化学反応から始まり、進化が進むにつれて生物達は複雑になり、最高位の哺乳類の頂点に人間:ヒトが君臨している、という図式だ。他の霊長類はヒトになれなかった劣った生物となり、発展した現代社会が享受している文化を持たない社会は劣った社会という認識が自然に生まれてくる。
 ドーキンス先生は別の考え方を示した。今までの歴史の記述法は「前向きの年代記」で枝別れして多様化していく物語で「いま」で終わる。では「後ろ向きの年代記」ではどうか。どこから出発しようと生命の単一性へ向かい、共通の祖先への収斂へと導かれる筈だ。これならばヒトを主人公に据えても問題はない。我々はヒトであり、ヒトのことは一番よく知っているからだ。あなたがイヌならばイヌを主人公にしようではないか。ヒトが生命の根源・始源に向かって旅するのを、チョーサーの「カンタベリー物語」の巡礼になぞらえて生命史を書いたのがこの著書である。
 
思い上がりの歴史観: 「生物学的な進化には、いかなる特権的な地位を占める家系もなければ、あらかじめ設計された目的もない。進化は何百万回となくその折々での暫定的な目標(観察時点で生き残っている種)を達成してきており、どれか一つの目標をほかの目標よりも特権的であるとか、究極的であるとか称するのは、虚しい自惚れ(あいにくそれは人間の自惚れである。なぜなら私たちが代弁しているのだから)以外の何者でもない。」

「生物学的な進化は方向性を持ち、進歩的で予測可能と言えるような場面が存在すると私は思う。しかし、進歩は断じて人間に向かう進歩ではなく、その予測についての判断や感覚は確固としたものではなく、都合よく思い込むべきものではないことを、私たちは受け入れなければならない。歴史家は、どんなわずかな程度であってさえ、人間という極相(クライマックス)に向かっているという物語を紡ぎ出すことのないよう、注意しなければならない。」

 「後ろ向きの年代記は、現生の哺乳類のどれを出発点に選んでも、つねに同じ唯一無二の原哺乳類、すなわち、恐竜と同時代の、謎につつまれた食虫性の夜行性動物に収斂していく。...中略...私は“収斂 convergence” という言葉を使ったが、これは前向きの年代記では全く違う意味で使うために、是非ともとっておきたいと思っている。したがって私は、本書の目的に合うようこれを“合流 confluence”あるいはすぐ説明する理由によって、“ランデヴー rendezvous”に置き換える積りである。...中略...後ろ向きの年代記では、どの種の組み合わせを取り上げても、その祖先どうしは、かならずどこか特定の地質学的な瞬間に出会うことになる。そのランデヴーの時点は、彼らすべてにとっての最後の共通の祖先で、私はこれを彼らの“concestor”と呼ぶことにする。コンセスターとは、すなわちたとえば、合流点にいる齧歯類、合流点にいる哺乳類、合流点にいる脊椎動物のことである。また最も古いコンセスターは、現在生きているすべての生物の始祖で、おそらくは一種の細菌であろう。

 この地球上に現在生きているすべての生物のたった一つのコンセスターが、本当に存在することについては強い確信がある。証拠は、これまで調べられたすべての生物が、同じ遺伝暗号を共有していることである。(大部分は厳密に同じ、その他はほぼ厳密に同じ。)遺伝暗号は、その複雑さのあらゆる部分に至るまで、あまりにも詳細に決定されているために、二度も発明されたとは考えられない。」

 「他の種に属する動物、植物が存在することも忘れてはならない。彼らは、それぞれ異なった出発点から独立に過去に向かって歩み、最終的に私たちと共有するものを含めて、それぞれの祖先を求めての巡礼の旅をするのである。もし、私たちが祖先の足跡を逆にたどっていけば、必然的に、ある定められた順序で、他の巡礼者たちと合流することになるだろう。その順序とは、彼らの系統が私たちの系統とランデヴーし、しだいしだいに親戚関係の幅を広げていく順序である。」

 具体的に言えば、およそ500万年さかのぼった時点で、すでに合流を果たしたボノボとチンパンジーに出会うのだ。それからゴリラと合流し、オランと合流する。こんな風にたった40回のランデブーで、我々ヒトの巡礼者は生命の起源そのものに行き当たるというのは、驚くべきことだ!

 ドーキンス先生は巡礼の旅に送り出す選にかかる。古代型ホモ・サピエンス(アファール原人)は10万年前まで現代型人類ホモ・サピエンスと共存していた。勿論ネアンデルタール人も一緒に。彼らは2万8千年前に消滅したが。100万年もさかのぼるとホモ・エレクトゥスで出会う。150万年前にケニアに住んでいた「トゥルカナ・ボーイ」。200万年前はホモ・ハビリスの時代、ケニアの「KNM-1470」と呼ばれているヒトは190万年前。
 「私たちの先祖であって、チンパンジーの先祖でない最初の動物はどれだったのか。」 どうやら、ホモ属の直接の祖先は頑丈型のロブストゥスではなく、華奢型アウストラロピテクスのどれかの種であったようだ。250万年前プレトリアにいたMrs.プレス。320万年前のMs.ルーシー。360万年前、ラエトリで並んで歩いていた親子を思われる三人は足跡だけ残している。そして、440万年前のラミダス猿人、「リトル・フット」が最古のヒトの化石ではないかと思われていたが、2000年にケニアで発見された「オロリン」は600万年前、2001年にはサハラ南部のチャドから7~800万年前の「トゥマイ」と名づけられた化石が発見された。サルではない特徴の方が多いので、目下のところ彼らがヒトの最初と見られている。

 このヒトの過去に遡る旅の中で、ドーキンス先生はそれぞれがそれだけで一冊の本が出来るぐらいの問題を提示している。出アフリカは従来考えてこられた二回ではなく三回(15~8万年前・84~42万年前・170万年前)であったとするアラン・テンプルトン説。狩猟採集・牧畜・農耕民の文化のあり方。ネアンデルタール人。ミトコンドリア・イブ(14万年前)とY染色体アダム(6万年前)。二足歩行を選択した理由。ネオテニー論。ミーム説。脳重量の対数.......。
 これらの問題はこれからどこかの合流点で出会う他の生物達が語ってくれる、チョーサーの物語のように。

 人選の最初に先生は今はもういないタスマニア島人ではとも考える。彼らは1万3千年の間孤立して生活していたが、19世紀の白人入植者達によって農業の外敵として絶滅させられた。タスマニア島人の最後の一人、トルカニニが1876年に死んだ。1万3千年の孤立は巡礼の旅に出すに充分な資格ではないか、と。

700万年前から500万年前の何処かで、初めて他の種の巡礼者と出会う。すでにチンパンジーとランデヴーを済ませたボノボであった。我々ヒト属と違って、彼らがどのような道のりでここまでやって来たのかはわからない。途中の証拠(化石)が何も発見されていないからだ。森に住んでいたというのも一つの理由だが、彼らが出会ったヒト属はさほど彼らと異なった姿ではなかった筈だ。ヒトとチンプに共通する化石はまだ見つかっていない。

我らが巡礼の旅:矢印→の先にいるのは次にランデヴーする相手であるが、現生動物の分類法による約1,000万種の生き物が我々と同時に巡礼に出て出会うのだが、もしかしたら今日我々が目にしている姿とは似ても似つかぬ姿であるかもしれない。「彼らの祖先であって他の生物の祖先でない最初の生物」という理論はここでも有効である。彼らも彼らなりの巡礼をしてきているのだから。既に何回かの合流を果たして大人数になった巡礼団やナメクジウオのように自分達だけの道をひっそりと旅して5億6千万年後にヒトの巡礼団と合流するものもいる。

 2006年11月16日、ネアンデルタール人のDNA断片解析から、37万年前に現代人と分岐したと報道された。つい最近まで共存していた彼らに敬意を表していまから2万8千年後に巡礼の旅に出発させてもドーキンス先生はうなずいてくれると思う。

 ヒト→チンプ・ボノボ→ゴリラ→オラン→テナガザル(系統樹と分岐樹、種の系統樹と遺伝子の系統樹)→旧世界ザル(世界の気候と植生が現在とほぼ同じだと認められる最後の地点・2,500万年前)→新世界ザル(色覚のこと)→メガネザル(毛のはえたカエル)→キツネザル(6,300万年前・白亜紀の大絶滅を終えて)→ヒヨケザル(滑空する!)・ツバイ(植物の隆盛)→齧歯類とウサギ類(遺伝子の延長された表現型)→ローラシア獣(カバ・アザラシなど異質な哺乳類たち)→異節類(貧歯類・アルマジロ)→アフリカ獣類→有袋類→単孔類(カモノハシ)→蜥形類(爬虫類・鳥類:ゴンドワナ大陸の分裂と走鳥類の分布、古磁気)→両生類(サンショウウオ・ネオテニー説)→肺魚→シーラカンス→条鮱類(ヴィクトリア湖のシグリット)→サメとその仲間→ヤツメウナギ・メクラウナギ→ナメクジウオ→ホヤ類→ヒトデとその仲間→旧口類(分子時計・牧畜と農業・光感受性・眼の誕生・交雑と種内差異・ショウジョウバエに於ける発生学と遺伝学・ホック遺伝子・中立説)(愛しのカイアシ類とはここで合流!)→無体腔型扁形動物(スノーボールアース説)→刺胞動物(クラゲなど)→有櫛類(ゴカイ・バッタ・フジツボ・ハキリアリなど)→板形動物→カイメン類→襟鞭毛毛虫類→ドリップス→菌類→アメーバ動物→植物→不確かなグループ→古細菌→真性細菌

 生命の始原までの巡礼を終えてドーキンス先生はこう問いかける。生物の進化=進歩の原動力である軍拡戦争とは? もう一度始原から始められたらどんな生き物が生まれるか?これについて先生はこんな風に書いている。赤外線感熱・反響ソナー・電気的接触・パラボラ反射器などの光学的原理に基づいた眼は宇宙の他の惑星に生命が存在しうるなら、私たちが地球上で知っていると同じやり方で発達させたという方に賭けてもいいだろう。それから、毒針・発音・滑空・ジェット推進方・反響定位などは多様の生物がそれぞれ工夫して進化させたであろう(一種の収斂現象)。また一つの種だけに見られる一回かぎりの進化もあるだろう。移動方法は二足歩行・四足歩行・うねらせての移行・滑空・飛行などあろう。だが、我々のような異常に発達した脳細胞を持つ二足歩行の奇妙な生物が誕生することは無いかもしれない。

 「島」という概念:生物学的な制約から移動できない距離が二つの場所を隔てていること。尾根の反対側や密度に異なる水、隣の浅瀬もある生き物にとっては「島」になる。地球自体も「島」なのだ。

 「最初に自然淘汰を始動させ、最終的に累積的な進化の壮大な叙事詩のすえに、ネズミや人類にまでたどり着かせることになった決定的な要素は何だったのか」
 「最初の遺伝子(自己複製子)」「最初の細胞(代謝体)」

 「超音波を発するコウモリは、一連の一寸刻みの微細な改良の結果であり、それぞれの改良は同じ方向上にある進化的趨勢を前に進めるように先行物に累積的な付け加えをして行く。これは当然ながら進歩である。...中略...しかし、こういった種類の進歩は、進化が始まったときから現在まで不変の、一様なものではない。それは韻を踏むのである。...軍拡戦争の過程における進歩...個別の軍拡戦争は、ひょっとしたら恐竜におこったような種類の大量大惨事の過程を通じて、やがて終わる。そしてまたふたたび全プロセスが始まるが、まったくのゼロからではなく、その軍拡戦争のはっきりと認められる初期の段階から始まるのである。...恐竜絶滅の後を受けてただちに上昇をはじめて以来、哺乳類もまたいくつもの絶滅の後のいくつもの小さな軍拡戦争、そのまた後の新たな軍拡戦争を行ってきたのである。軍拡戦争は、周期的な何段階もの進歩的進化の奔流において、以前の軍拡競争の韻を踏むのである。」

我々は、自らを知恵ある人 ホモ・サピエンス Homo-sapience と称しているが、何万年もあとの古生物学者はもしかしたら、愚かなるヒトという動物 Homo-insipience と呼ぶかもしれないとドーキンス先生は予見する。
 
 生命という点では植物の存在も私の始原の先祖とは思うのだが、古細菌や真性細菌になると、彼らに対する親近感はない。生命の誕生は濃いスープからなのは理解するが、(化学は昔から苦手だ)よく分からない。何年かたったら理解できるようになっているかもしれない。この著書自体が生物学の濃いスープのようなものだと思う。

2006-11-10

「レッドパージ・ハリウッド」 上島 春彦 2006.7.    作品社 3,800円

 私が始めて自分の小遣いで映画を見たのは1951年作「探偵物語」であった。渋谷東急名画座。授業の終わった後だったから四時ごろからの上映だったろう。館内は空いていたけれど、なんだか許されていない場所に潜り込んだような気がして、一番後ろの席でみた。その後では自信も付いてきてしばしば映画をみた。地下にはニュース映画だけの館もあり、そこは10円で、名画座は60円、まもなく75円に値上げされた。そのころは封切館は日比谷で,二番館といっていた新宿・渋谷になるとほとんど2本立て、その次の近所の小さな映画館では3本立てで、どこも満員で座れるのは一巡した後でやっとという時代。

 1938年、非米活動調査委員会(HUAC)が設立された。この委員会は演劇人団体を召喚して“左翼的”と非難している。だが一方で真珠湾攻撃の年には左翼主導による「脚本家戦時動員組織」も発足し、1942年には戦時情報局(OWI)が設立され、リベラル派の拠点になった。大戦が終わってすぐの1946年には“鉄のカーテン”で隔たれた冷戦が始まった。翌47年にはHUACによる映画人の喚問が開始された。ブラックリスト体制が公然化し、ハリウッドテンの業界追放がはじまった。1951年、映画人喚問が再開し、いわゆる「密告・ネーミング ネームズ」の時代がきた。「ブラックリストへの反対者は即、共産主義者の陰謀に加担する者としてブラックリストにのせる。」そして業界追放。公民権に関する嘆願書に署名?追放だ。アクターズ・スタジオ?この俳優集団は爆竹花火のように赤い連中だ。どいつを追放しようか。

 この、戦後アメリカにおける極端に排他的・全体主義的でヒステリックな反共産主義を一般的にマッカーシズムと呼ぶ。ただし、上院議員J.R.マッカーシーが活躍したのは50年代初頭の数年間であったが、そのずっと前からのマッカーシー主義的政治委員会がHUACなのだ。反ニューディール主義、反リベラル、反ユダヤ主義、人種差別主義などで、一言でいえば極右だ。
 映画産業から始まったブラックリスト作りはやがてTV産業、新聞、ラジオ、教育施設さらに公務員、公社職員へと爆発的に広まっていった。映画制作者協会は「自分が共産党員ではないことを公に誓約するまでは誰も再雇用しない」と宣言した。マスメディアの発展と共にいよいよヒステリックになっていく。

 奥平康弘氏はその著書「表現の自由を求めて」で次のように書いている。「マッカーシズムとは何であったのだろうか。これはワシントン政府ー合衆国議会・大統領府・国務省・司法省などーがとったさまざまな種類の権力装置を頂点に、諸州・地方公共団体の多種多様な同調的な類似政策を含む。そしてそれは、たとえばもっとも典型的には、学問の府である大学その他研究機関内部の人事のありように響き、同じ動きが法曹界その他の自由職業分野に及び、果ては、鉛管工・医療関係者などの職場に波及し、さらに社会保険受給者の需給資格を脅かす、といったありさまであったのである。つまりマッカーシズムは公私の区別を越え、社会の風潮、ひとびとの思想・信条の中身にまで食い込む態のものであった。」 2006年に封切りの「Good night and Good Luck」(アカデミー監督賞?作品賞?最優秀賞?を受賞した。なんとも皮肉なこと。)に詳しい。

 50年代はTV時代の幕開けだ。勿論、TV局内には思想傾向取締り機関が元FBI職員の天下り先として設置されていた。映画業界から追放された脚本家たちは変名を使い、またフロントと呼ばれる表の実在人物の名前を借りて、仕事をしていた。50年代はまた黒人主導による人種差別撤廃運動が高まり、55年にキング牧師による人種差別バスのボイコットが始まっている。それにリベラルであることはもはや左翼的ではなくなってきていた。59年、アカデミー賞の規約から「ブラックリスティ排除」の項目が消えた。ブラックリスティたちの活動を無視することが困難になって来たからでもあった。

 「探偵物語」51年、監督はウィリアム・ワイラー、脚本はブラックリスター。主演のカーク・ダグラスはバート・ランカスターと並んでブラックリスターの脚本家に理解があったという。助演の女優リー・グラントは批評家協会賞をとりオスカーにノミネートされ、カンヌでは最優秀女優賞までもらったが、ブラックリスターの葬儀でHUACに批判的な発言をしたためにTV・映画からもしめだされている。
 50年代に殆ど毎週、父に映画館に連れて行かれた。60年代も随分映画館にいった。そのころ見た映画が大なり小なりこの「レッド・パージ」に関係があることを認識してあらためて思い出すと、また違ったものが出てくる。

 その頃役者を志す人間にとっては、スタニスラフスキー・システムという演技理論は絶対であり、アメリカでそれを実践に移して活動している、リー・ストラスバーグやエリア・カザンを中心としたアクターズ・スタジオは憧れの的でもあった。ブラックリスターであった脚本家たちの名誉が復活した後で、密告者として名高いエリヤ・カザンにアカデミー特別賞が与えられた。会場は拍手と失笑が半々だった。

 著者の「注」について:章ごとに数多くの「注」がある。これだけ読んでも価値のあるという素晴らしい力作といえる。が、「注」だけでは読めない。本文と照らし合わせなければ一体誰についての「注」なのかわからないのだ。また、本文を読みながら「注」に出会ったからといっていちいち参照しながら読むことはしない。実際「注」はこのようになっている。
 *66 監督。ハリウッドテンの一人。メッセンジャーボーイからスタートし、編集者を経て監督に。低予算の反日プロバガンダ映画で評価され、やがて製作者E. スコットとのコンビで.....後略
とこんな具合。「注」66は誰かといえば、87頁5行目、エドワード・ドミトリクでなかなか見つからない。非常に不親切な「注」で、もったいない作り方と思う。全部で20章あり行数が増え、ページ立てが何ページか増えたにしてもそうして見るべきであった。

2004年9月出版のサラ・パレッキー「ブラック・リスト」はこの赤狩りの旋風に巻き込まれ、翻弄された人々の癒えることなき傷を描いてある。また彼女は9.11以後の社会を憂えている。そのわずか一ヶ月半ののちに成立した「愛国者法」に危惧を抱いている。今のアメリカは、かっての「赤狩り」時代のアメリカに戻りつつある...そんな危機感から、この作品が誕生したのであろう。...訳者山本弥生氏のあとがきから...
 

2006-11-05

「カイアシ類・水平進化という戦略」 大塚 攻 2006.9. NHK出版 1,070円

副題に「海洋生態系を支える微小生物の世界」とある。著者は「はじめに」でつぎのように記している。
「はじめに」が面白ければ本文も面白い、その通り!

右図:カンブリア紀末期のオルステン動物群の生態図
左図:深海のカイアシ類 
    A・カイアシ類を襲う肉食性
      ヘテロラブドゥス属




「生物のヒトに至る複雑化・高度化を“タテ”の進化とすれば、カイアシ類のように多様化によって地球生命圏にあまねくはびこる生命は“水平進化”という戦略を選んだのではないだろうか。われわれヒトが知性を得てからは、まだたった10万年にすぎない。しかし、すでに地球環境に大きな影響を与え、自滅の兆候さえある。一方、カイアシ類は四億年以上のたゆみなき多様化に道をたどり、ヒトが絶滅した後も地球にはびこり続けるだろう。」

 では、そのカイアシ類とは一体どんな生物なのか。要約してみる。...海では動物プランクトンとして最も生物量(バイオマス)が多いものの一つで、通常、プランクトンサンプルの総固体数の7~8割を占めるほど圧倒的に優占する。
 プランクトン? 水中を漂う生き物の総称で、大きさは1m、重さ200kgにもなるエチゼンクラゲから、数マイクロメートル以下のバクテリアなども包合する。つまり、大きさでなくその遊泳能力で定義されており、遊泳能力がゼロか、ごくわずかな水中浮遊生物群の総称。

 カイアシ類は海洋微小甲殻類で、大きいもので1cmぐらい、普通は1~2mm。東南アジア・ヨーロッパでは地方食とされているが、日本では同じプランクトンのアミ・オキアミ以外は食さない。魚類は、特にサンマ・イワシは一生カイアシ類を食べ続ける。シラスの腹部の赤い点が甲殻類カイアシの入っている胃袋だ。生息場所はヒマラヤの氷河から湖沼・田んぼ・地下水・古タイヤに溜まった水溜りから水深1万mの深海など、ありとあらゆる水圏に進出している。その中には魚介類に寄生する種類もあり、養殖場では被害も出ている。

食事:雑食性、つまり何でも食べる。数マイクロメートル~体長の20~30%前後の大きさの別の種類のカイアシ類の卵・繊毛虫などの原生動物・植物プランクトン・マリンスノー。

休眠する卵!:300年たって目を覚ました例有り。この休眠卵は乾燥・高湿・低温に強く、常温で25年耐えられる種もいる。

成長段階:受精してから成体まで基本的に12ステージ。成体になってからは脱皮しないで成長が打ち止 めとなる。

カイアシ類の眼:現生種のカイアシ類には複眼がなく、通常単眼のみを備える。結像する機能は持たないと推定。深海性カイアシ類の眼は広範な波長の光を効率よくキャッチする集光器と分析されている。視覚 以外の感覚器官を特化した動物であり、このおかげで光のない世界にもおおいに進出した。

運動能力:浮遊性のプランクトンであるのに、捕食者から逃げるために、海面から15cmもジャンプする。たいしたことないって! とんでもない。体長2~3mmのカイアシ類からみれば体長の50倍だ。

最古のカイアシ類の化石:一億二千万年~一億七千万年前、ブラジル白亜紀前期の汽水産硬骨魚化石の鰓腔に寄生していたのが見つかっているという。彼は寄生性カイアシで体長1mm、現生の分類群におさまるのだそうだ。彼らはいってみればカブトガニたちと同様生きた化石なのだ!

 さあ、ページを開いて、本文に進もう。
著者のいう奇妙奇天烈な生物の驚天動地の世界へ...

2006-11-03

「旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶」   読売新聞西部本社編 2006.7. みずのわ出版 3,000円


 1969年八月、会津若松駅で目じりに皺をいっぱい寄せて笑う宮本常一の写真でこの本は始まる。「民俗学者宮本常一は、生涯のうち四千日以上を民俗調査に充てた。作家の佐野真一さんは“旅する巨人”と呼ぶ。三千を超える地域を訪ね、子どもや労働に汗を流す男や女たち、街角、橋、看板、洗濯物~~とあらゆるものにレンズを向けてきた。戦後だけで約十万枚。山口県周防大島町で2004年開館した周防大島文化交流センターが保管している写真から、九州・山口の戦後をたどり、“いま”を取材する。」

 最初の一枚は、長崎県対馬・厳原町浅藻。ここは宮本常一の生まれ故郷である周防大島から渡ってきた漁師たちが移って来て出来た集落である。1950年、浅藻に最初に住み着いた人の家で、梶田富五郎と会う。今八十一歳になる梶田富五郎さんの五男の嫁、梶田味木さんは写真を手にして当時を思い出す。「私はお茶を出しました。じいちゃんは上半身裸、宮本先生は半袖シャツ。長いこと話しているもんだから、ちらっと様子を見に行くと、山口弁でのやりとりに夢中、昼ごはんも食べずにね。じいちゃんも先生も何だかうれしそうでしたよ。」
 また、別の土地でのこと。当地の民謡を夜の更けるのを忘れて歌ってくれた年寄りの女性達については、「もうお目にかかることはないだろうが、ゆうべのようにたのしかったことはなかった。死ぬまで忘れないだろうが、あなたもいつまでもゆうべのことをわすれないでほしい。」 宮本は出会った人々とこんな風に接し、そしてそのことを「私の日本地図」という著書に書き留めている。

 宮本が出会った土地の人びとのまなざしもまた優しい。「一升は入るホラガイでみんなが酒の飲み比べをするのを眺めて楽しそうでした。」熊本県矢部町、通潤橋を訪ねて出会った高宮家現当主晃裕氏。
萩市浜崎の蒲鉾店の主、一利さんはこう回想する。「そういえば八月一日の住吉祭りの時。暑いのに、炭火で蒲鉾を焼いているのを目の前で、長いこと一生懸命見ていた人がいた。こんな本を書く人やったんか。」宮本はこう書いているという。“ーまぁ食べて見なさい”と主人。これは“うまい”と宮本。話を弾ませた後、“持っていきなさい”と勧めるのを丁重に断っている。名乗りあうこともなく別れ、二度と会うことのなかった二人。本の中には名前も屋号も出てこない。その主は四年前に他界し柳井良子さん(70才)は夫を偲ぶ。

 失われた風景、幼いころの友や自分、逝ってしまった夫・父母・祖父、あそこにあった店、そんなものがいっぺんに胸に溢れてくる。その写真を目にしなければ思い出すこともなかったのに。誰もが暮らしの中に埋没させている記憶。戦後の食糧難の時代から「もはや戦後ではない」といわれた復興の大波の押し寄せる中で、その土地から失われつつある風景、利便性の大鉈で切り落とされていく暮らし。そんな日常を宮本は十万枚もの記録に残した。
 「島をほんとに発展させてゆくのは、ここに住んでいる人たちの努力にたよる外はない。」と記す一方で、「やがて消え行くもの」の気配、「地方の町の個性が失われていく」のを確実に予見している。残念ながら記者たちが古い写真をもっておとずれた場所には宮本の見たであろう風景は残っていなかった。老いた人たちの色褪せていない記憶に「その時代」が残っていた。

 民俗学者宮本常一の姿勢は何だろう。彼に接した人々を魅了する宮本常一。膨大な写真の中から宮本に語りかけるもの。同時にその写真を手に新聞記者は写された関係者を探し、その土地に流れた三十年から五十年の時間を辿り直した記録である。二十一人の手になる記録ではあるが、まるで一人の宮本に執り付かれた人間が書いているようだ。これは一体なんだろう。多分、これが「宮本常一」なのだ。

民俗学者である宮本常一はまた営農指導者でもあった。訪れた農村・漁村・島でどうしたらその土地が、土地にすむ人々が活気ずくのか、中央や大きな資本に収奪されずに地場産業が興せるかということを真剣に考え、その土地の人たちと議論した。
「地方にいくほど銀座が多い。涙ぐましいほどの中央追随の姿である。そして、そういうことによって次第に地方都市の自主性を失っていくようである。」
「この町が長い歴史の中から生み出したようなよさを、いつまで持ち伝えていくことができるであろうか。」
「島の人々は島につよい愛着をもっており、何とか島をよくしようとしているのだが、今の政治はそういう意欲をそぐ方向に向かっている」
「離島振興事業もかならずしも期待するほどの効果をあげているとはいえない。次々に無人島のふえてきていることがそれをものがたる。」2006年、過疎の村は増加し日本から切り捨てられつつある。
「進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。」

長崎県長崎半島の突端に野母崎がある。そこから椛島まで赤いアーチの樺島大橋が架かっている。まだ橋のなかった1961年、宮本は島の悲願である架橋についてこう記している。「“橋でも架かるといいのですが”と島の人がこぼすから“その気になりなさい。わずか300メートルの海に橋がかからぬこともありますまい。ただ、その橋を観光めあてにかけたのでは意味がない。できあがった橋がほんとに役にたつ産業をもつということでしょう。お互いに考えてみようではありませんか”とはなしたのであった。」
1966年、宮本は種子島にいた。離島振興法の施行から13年たって、産業や人びとの暮らしぶりなどについての調査団を率い、約10日間滞在した。当時、調査団に同行した田上利男さん(74歳)は「宮本先生はほとんど休むことなく、島中を駆け回っていたのを思い出します。本当に忙しそうでしたが、人と話すときだけは時間を忘れていました。」

 ずっと前、TVの特集番組で佐渡の漁師が「宮本常一」のことを懐かしんで話していた。何故かその情景が思い出される。

*山口県周防大島にある宮本の古里、東和町に彼自身が設立した「郷土大学」がある。この大学は彼の精神の継承を掲げ、いまも地域の人びとの学びの場になっている。この「宮本学」の中心施設として2004年に、町立の周防大島文化交流センターが開設された。
 この本の監修は全国離島振興協議会・財団法人日本離島センター・周防大島文化センターである。

*「土佐源氏」という彼の収録した話を、沼田耀一氏は一人芝居に仕立てて全国を回った。沼田氏は2005年  逝去された。

2006-10-26

「ヒトは今も進化しているー最新生物学でたどる人間の一生」 R. フーパー 2006.8. 新潮社 1,500円

「The Evolving Humann:How new bioloby explains your journey through life」
by Rowan Hooper

1970年、イングランド生まれ。1988-94年、シェフィールド大学で生態学・行動生態学・性選択の理論を学ぶ。1995-99年にかけて、つくば市の国立環境研究所に在籍。この間「The Japan Times」紙に生物学に関する記事を寄稿しはじめ、現在も同紙に「Natural Selections」と「Animal Tracker」のコラムを連載している。ダブリン大学トリニティ・カレッジ客員研究員。著書に「脳とセックスの生態学」2004年  新潮社

然り、生物は今も進化している。

 もし手っ取り早く科学的教養をひけらかしたいのならば、最適の本。

 新聞のコラムであり、4~5ページで、ヒトの一生をなぞっての生物学をやさしく解説、読みやすい。。目次は以下の通り。生殖・妊娠・出産/子どもから大人へ/恋愛・結婚・子育て/感情と知性のはざまで/病気と健康/老化と死。話題の新聞記事や事件、人気俳優の名前を挙げたり、難解な生物学もこれでバッチリ。
あなたの教養度もこれで急上昇すること間違いなしの一冊。読書の秋は教養を深める秋でもある。 以上

 

2006-10-25

「哺乳類天国ー恐竜絶滅以後、進化の主役たち」   デイヴィッド R. ウォーレス 早川書房

「哺乳類天国ー恐竜絶滅以後、進化の主役たち」 
ディヴィッド R. ウォレス  2006年7月初版 早川書房 2,500円

  著者の言うには、「この本はイェール大学 ピーポディ自然史博物館にある風景画“哺乳類の時代”を紙の上に甦らせるものである。数多くの本が恐竜のためにしてきた事を、私は先史時代の哺乳類のために試みる積りだ。」
 画家はルドルフ・ザリンガー。博物館専属の画家である。進化の「システィナ礼拝堂」だという。この18メートルの絵の中にザリンガーは「自然史博物館では、古生物の復元図は一種の動物の1頭から数頭の集団を描くことで、地質学上の時間と場所を厳密に表すのが従来の習慣だったが、私はまったく異なる手法を用いた。壁全体を使って“時間のパノラマ”を再現し....地球生命の進化の歴史を象徴的に表現したのだ。」ラクダは巻物を紐解く様にプエブロテリウム→プロカルメス→カメロプス、またサイはサブヒラコドン→ディケラテリウム→テレオケラスと進化の道筋を示して登場する。ウマやゾウ達がいびつなサボテンのような系統樹を創りながら今に至っている。

 なんとも、これだけで胸がわくわくする、次のページを捲るのが待ち遠しくなる。哺乳類が中生代に「発達停止」したかに見えた理由も、その後、巨大な爬虫類が姿を消したあと、シンデレラ顔負けの変身を遂げた理由もいまだ謎のままだと言う。

 最初期の哺乳類モルガヌドン(三畳紀後期)はわずか数センチで、現在もたくましく生きているトガリネズミぐらいの大きさだという。日本のトガリネズミは大雪山にしか生息していないと思われていたが、近年本州(関東)でも発見された。「夜行性の微小ともいえる動物は生き延びるために制約は多々あったが、進化は止まらなかった。小さいままで遺伝子の多様化の道を選んだのだ。数を増やして広い範囲に進出し、それぞれその地の環境に適応しつつ、分岐点をふやしていった。」

 たとえば歯。哺乳類だけが永久歯を持つ。そして用途に応じた進化を遂げた。噛み切る・噛み砕く・突き刺す・擂り潰すという複雑な機能を持つ。爬虫類の「多生歯性」は、歯のある他の背椎動物の特徴だが、機能の分化の度合いが低く単機能である。これは、食いちぎったものを一度も噛まずに丸呑みするワニを思い起こせば直ぐ理解できる。爬虫類の下顎は複数の骨から成り、それに比べて哺乳類は単に歯骨が単関節で頭骨に結合しているだけで、構造の単純さが、歯種を分化させた。さらに槌骨と砧骨は下顎から中耳に移動することで聴覚は鋭敏になり、鼻の部分が大きく複雑になって嗅覚、ひげが生えることで触覚を発達させた。夜間にも活動できるようになり、特徴的な顎と歯のおかげで、恐竜が見向きもしなかった様々な食物を得、小さいままでニッチを広げて行った。
 2001年5月25日の新聞は、雲南省で一億五千万年前の新種の動物の頭骨(12ミリ)が発見されたと報道した。爬虫類から哺乳類に進化する途中の「哺乳類の祖先」で、推定体重2g,体長3cm。恐竜の栄えたジュラ紀前期、学名を「ハドロゴデイゥム」という。この本の中ではもっと詳しく書いてある。「名前の意味は“重い頭、または中身の詰まった頭”といい脳や顎・内耳はこれまでわかっていたよりもずっと発達していた。大きさやその他の特徴は4,500万年後の動物によく見られるものだった。ということは、哺乳類の発達はこれまで考えられていたほど恐竜の支配に阻まれていたわけではなかったのだ。」

 彼らには「何より適応性があったからである。適応能力のおかげで、巨大爬虫類の息の根を止めた環境変化の危機を乗りきれたのだ。そして、巨大爬虫類が絶滅すると、哺乳類はその適応能力の高さで急速に増加し、それまで爬虫類との競争のせいで手に入らなかった新しい生態を選び取った。」

 各章で著者は描かれた主役や名脇役について述べる。ピーポディ自然史博物館を中心にして回る究極の哺乳類たちの戦いにも触れる。それぞれが聖杯を求めてアメリカ西部やパタゴニア・モンゴル、エジプトへと発掘にでかける。その間にも殴り合い、引っかきあい、袈裟懸け、足払い、闇討ちと何でもござれのようだが、ダーウィンの始めた進化論は激しい議論の中でそれ自体進化していったのだ。

 20世紀の初頭まで、地球の年齢は一億年というのが科学的な事実であったし、生物は絶滅せずに変化するだけだというのもまた生物学的常識だったとは、驚くべき事実である。1920年代になってやっと五億年になった。そしてこの頃から古生物学はフィールドで発掘した化石の研究ではなく、研究室の中で遺伝から進化理論を、遺伝学に基づいて理論を構築するのに必要な統計的分析が主となっていく。クリック・ワトソンの二重螺旋構造の解明、ドーキンスの画期的な遺伝子論、ミームとしての生命。脚光を浴びている理論生物学者の傍ら、発掘は続き幻の聖杯がすぐそこにあるような新しい報告がなされている。

 科学と解析技術の進歩は進化論に大きく揺さぶりをかけた。1915年、ウェゲナーの「大陸移動説」が発表された。最初はたいして注目されなかった。「土地の隆起と沈降に伴って海岸線が変動したり、時には内海が大きく広がることはあっても、大陸は少なくとも中生代以降は、およそ現在の位置にあった。」というのがそれまでの学者の統一した見解だったという。第二次大戦後、調査船チャレンジャー号による計測などから「プレートテクトニクス」理論が登場した。古地磁気の研究解明も進み、生物が陸続きに住処を広げて適応・進化したという考え方、根底から怪しくなってきたのだ。
 従来の分類法は祖先と思しき生物の系譜をたどることで成り立っていた。科学史家のJ.シコードの反論は「それまでの分類学者は構造の並行進化、すなはち器官の類似性を自然界の秩序の基準にしてきた。この考え方が誤りで、類似性を基準にして似ている種を一グループにまとめるのではなく、遺伝系統による分類法が必要だったのだ。」
 系統分類学は1950年代に分岐学と名を改め、推定される祖先ではなく、共通する「派生形質」の数で化石種を結びつけ、「分岐図」によって進化を図式化する方法で、生物の時間的位置は示さない方向に進んでいく(1960年代)。1980年代には、化石生物と現生生物の進化を図式化するのに化石の定量的分析という流れの延長上にあるコンピューター・モデリングで作業し、地質データと摺り合わせることが可能になった。同時に顕微鏡の性能も格段に向上し、いままで出来なかった植物化石や花粉分析が可能となっていた。
 物理学者アルヴァレス親子の「イリジウム濃度」の研究から、新しい説が登場した。「小惑星衝突説」。数十億年かけてこつこつと適応してきた地球の生物を気まぐれな彗星がうっかりと全滅させてしまったというなんとも情けない話である。
 現在ではこのイリジウム層「K/T境界」の上と下との生物相の差異は明白と証明されているが、まだ激しい議論が続いている。新旧のダーウィニズムが落ち着く1930年代以来、主流であった「漸進説」に対して、エルドリッチとグールドの「断続平衡説」が華々しく登場した。

 絶滅の解釈の違いがそれぞれの進化論を形ずくっているが、多くの科学者の分析は地球外物体との衝突が6,500万年前一度だけではなく、地球の軌道が小惑星帯やその他の天体群を通過する度に大量絶滅が定期的に(2,600万年毎)巡ってきているという結果も出ている。ダーウィニズムにしろ何にしろ、これまで説明されてきた進化の物語は人類の出現を持って幕を閉じている。そのため往々にして、生命の進化はその役割を終了したように錯覚させられる。未来を語る進化論はない、とおもっていたら、人間の想像力の素晴らしさは あの時絶滅しなかった“新恐竜ー進化した恐竜たちの世界”やこのまま未来に進み“二億年後の世界”などが極彩色の挿絵入りで出版された!

S.J.グールドの言葉が締めくくるのに適当と思う。
「人間が進化したのはもっぱら白亜紀の大絶滅のおかげであり、この絶滅が行手の障害を一掃し、なおかつ 我々の祖先の命を救ってその道を進めるようにしたのだ。」
「人間は運がよかったのでここにいるのだ。」
「生がもっとも発達したように見えるときは、絶滅間近なのかもしれない。たとえばウマは賢いとはいえ  ない葉食性の小型動物から賢い草食性の大型動物に発達したようにみえるが、それは生き残った属が一つ だけだったからである。進化の頂点」としては、数百もの種がある現生のコウモリや齧歯類とは対照的  だ。」
「進化の典型的な“傾向”の多くはこうした不運なグループの物語である。細い小枝だけ残して剪定されて しまった木のようなもので、それが絶頂期だと謝って理解されているが、じつはかっての力強さを失った 枝がやっと残っているだけなのだ。」

 最後の三分の一は主としてダーウィンに始まる進化論の変異について語っている。それまでの発掘された化石の分類とか系統とかの話は出てこない。訝しく思われるかもいれないが、至極当然なのである。ザリンガーの言葉を思い出してみよう。「...生物の生態を描くことで時間のパノラマを再現しようとした...」

 中世からヨーロッパの知識人たる者ならラテン語の知識は必須であり、学名のラテン語の意味も我々がカタカナで読むチンプンカンプンとは異なり理解していたのだ。ラテン語をそのまま訳せば、爬虫類の王、犬の顎、猛々しく凶暴なものとなるのは、それぞれバシロザウルス・キノグナトラス・オニシエナのこと。(嵐泥棒:ザラングダレステスという詩的な名前を貰ったウサギ状の生き物もいる...)漢字文化圏の学者の不利な点である。恐竜の学名も意味が分かったらどんなにか面白かろう。

 登場する動物にあわせてザリンガーの絵の部分がモノクロで一ページずつ紹介されている。表紙はマストドンと巨大な角を持つバイソン、立ち上がったグリズリーのようなメガテリウム。見開きで全部を何頁かにわけても見せて欲しかった。細部はともかく、全体のつながりが見たかった。

 この風景画を観た事で古生物学者になろうとした子供(著者)がいたのだ。
       __________________________________________________________

大陸移動の説明として、分かり易く書いている。ぜひ紹介したい。科学記事もこんな風になる見本だ。
「...初期の単弓類が栄えた三畳紀前期には、大陸はパンゲアという一つの巨大な陸塊を形成していたらしい。やがてパンゲア大陸は、新しくできた拡大中心に引き裂かれて北半球のローラシアと南半球のゴンドワナの二大陸に分裂し、さらにごたごたと小さな陸塊に分かれ、それ以降は手のかかる子供のようにあちこち動き回っている。ゴンドワナ大陸の分裂は波乱に富んでいた。南極大陸はアフリカと南アメリカを手放して極寒の南極で孤立を守り、オーストラリアとインドはアジア方面に逃げていき、その間にニュージーランド、ニューギニア、マダガスカルといった浮浪児が押し入った。ローラシア大陸はそれよりすっきりと分裂した。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸は大西洋中央の亀裂を境におおむね穏便に縁を切り、生まれた浮浪児の数はすくなかったのである。」

2006-10-20

「乞胸と江戸の大道芸」 高柳 金芳           1981年初版 柏書房 1,800円


 江戸時代の社会構成は、良民・乞胸・賤民に分けられていた。この賤民と呼ばれる人々の職種は時代により差異・変遷がある。江戸時代初期、長吏頭・弾左エ門の支配下にあった職種は28座、享保10年(1725年)には、穢多・猿飼・非人・乞胸・茶筅の5種であった。明治維新になり、賤民開放令と呼ばれる「太政官布告 第448号」が公布され、乞胸頭・乞胸の名称が廃止されるに伴い家業の特権も無くなった。武士階級は秩禄処分の代償として現金および公債が交付され、授産事業にも援助が与えられたが、彼ら乞胸の生活の根拠である家業の奪取については何らのの配慮もされなかった。

 「乞胸 ゴウムネ」とは一体どういう人々なのか。「...慶安年間1648-1651、江戸御府内において、浪人が無為徒食を禁じられたため、已む無く編み笠に面を隠し、習い覚えた謡・浄瑠璃を唱え、三味線を弾き、家々の門口に立ち、金銭を乞うたことに始まり、編み笠を被ることが乞胸の徴であった。そして、次第に寺社境内・明地、及び大道において、あるいは各家々に立ち 芸を披露し、一般から銭金を受けることを“家業”として認められた」人々なのである。
 この時の「家業」とは、綾取・猿若・江戸漫才・辻放下・からくり・操り・浄瑠璃・説教・物まね・仕方能・物読講釈・辻勧進の十二種で、時代によって多少の変化はあるが、おおむね変わらない。
 
 乞胸の頭は九代目より仁太夫と名乗り、住まいも日本橋から下谷山崎町へと移った。1842年仁太夫の書上には、配下の乞胸は749人にもおよび、四谷天龍寺門前・深川海辺大工町と合わせて三ヶ所と主として、その他は御府内に散在して暮らしていた。尚、下谷山崎町は江戸時代から四谷鮫ヶ橋・芝新網町とともに明治の貧民屈として知られていた。

  乞胸頭の支配の及ばない者は、堺町の仲村座・葦屋町の市村座・木挽町の森田屋、所謂江戸三座と狂言座、および湯島天神境内の狂言に出演する者、三河万歳・大神楽・越後獅子など。 其の他に、乞胸頭の支配外には、「願人坊」と「香具師」がいた。

 「願人坊」は、一説に1643年に東叡山寛永寺の末寺建立のために日本橋橋本町の空地に居住し、加治祈祷および毘沙門天の守り札・秘札を頒り、代参・代垢離を業として、托鉢・願望成就の祈りなどを行っていたが、次第に困窮し町家の門口にたち、軽口謎・阿呆陀羅経と唱え、はては謡・浄瑠璃を唄って米銭を乞う僧体の乞食にまで堕落していった。慶安5年(1652年)に13人であったのが、天保14年(1843年)には7~800人と膨れ上がり、また乞胸の家業の一つである「辻勧進」とも大道芸とも抵触し紛争の種となった。

 「香具師」は、「縁日・祭礼において、品物を商う露天商(縁日商人)がその手段として技芸を行った。この手段と目的が互いに交錯して露天商を「的屋 テキヤ」、技芸を主とする者を「見世物師 タカモノシ」と称するに至った。」 香具師には乞胸のように決まった頭はいない。弁舌・力量・知恵のあるものが選ばれて「首領、総元締め」となり、元締めは縁日・祭礼の日には興行師の場所の割り当て・土地借料の世話などを行うようになったが、そもそもは浪人が武士の嗜みとして覚えていた切り傷の薬などを調合して売ったり、居合い抜きをしてみせたのが香具師の始まりと言われている。
 享保20年(1735年)の記録によれば「十三香具師」と言われ、居合抜・軽業などの愛嬌芸と共に、諸国妙薬取次売り・辻療治・膏薬売りなどを生業としていた。翌20年の南町奉行大岡越前守により定められた「香具師職法式目」には、「香具師に対しその身分を定め、十手捕縛を許し、隠密御用や密貿易の取り締まりを命じた とある。
 商いは主として医薬品の販売であったが、その手段であった愛嬌芸の多くは乞胸家業の「辻放下」に属していた為、ここでも紛争・係争が生じた。
 著者の調べたところでは、「この係争の結果が如何になったかについては、種々手を尽くしたが、遂に史料、記録を発見することができなかった。恐らくは先に述べた乞胸と願人坊の“辻勧進”問題と同様に曖昧裡に落着したのではなかろうか。」

 天保の改革・・・・・「江戸時代末期の天保年間(1830-43)に至ると、幕府を始め諸大名の財政逼迫、武士の貧困化、農村の荒廃、百姓一揆の続発、そして都市生活の退廃と、あらゆる悪条件が山積・重複し、封建制度の基盤もようやく揺るぎ始めた。このため施政者は封建支配体制の維持・強化のためにも、果敢な政策の転換に迫られた。」老中首座となった水野は天保12年、享保・寛政の改革に習って天保の改革を断行した。奢侈の禁止・風俗の粛清で有名であるが、天保13年の「無宿野非人旧里帰郷令」は俗に「人返し」といわれ、江戸の無宿人の取り締まりを非人頭に命じた。公布されて半年で5,000人もの人数が「狩りこみ」「片付け」に遭った。
 ここで「ぐれ宿」が登場する。木賃宿は時代と共に変化・発展し、宿泊に食事を出す旅籠となっていったが木賃宿も貧困者の宿泊所として残った。旅籠が行き渡ると木賃宿や姿を消し、替って「長旅・六十六部・順礼・金毘羅参り・伊勢参りおよび物貰いの徒は、乞胸頭あるいは願人坊蝕頭を便りきて、宿泊を頼むようになった。一方乞胸や願人坊にしても、その家業や所業だけでは生活に苦しいので、これらを迎え入れた。これが“ぐれ宿”である。」木賃宿に比べても安い宿泊料にその日稼ぎの貧困者の利用が増え、遂にはいかがわしい者やお尋ね者までもが紛れ込むようになっていった。「人返し」の強化取締りの対象になり、無宿者と共に乞胸や願人坊の多くが宿払いに遭い、その数を半数以下に激減させたという。

 「乞胸」とは、身分はあくまでも一般の町人で、町方の支配に属するが、家業のみをその組織の頭である仁太夫を通じて浅草の非人頭、車善七の支配を受ける。ただし、家業を止めれば乞胸頭との関係は消滅し元の一般の町民に戻った。他の賤民と異なり身分は固定されたものではなく変更することの出来る特異な存在だ。だが、慶安年間から200年近くたつと幕府側や一般町民の意識に乞胸は賤民であるとの固定観念が生じてきた。明治維新の「賤民開放令」が発布され、当然、氏の称(苗字を付ける事)が許されてしかるべきであったが、明治政府は彼らは賤業の者であり、非人頭の支配を受け、非人同様の渡世であるからという理由で、「苗字用い候儀、相成らず候。」という結論をだした。

2006-10-05

「中世を旅する人びとーヨーロッパ庶民生活点描」   阿部 謹也 平凡社 


「中世を旅する人びとーヨーロッパ庶民生活点描」 阿部 謹也 
1978年初版 1980初版11刷 平凡社 1,900円

 著者はあとがきで都市における市民生活、とくに職人生活について、もっとまとまった形で論じて見たかったとしるしている。ここに挙げられている項目は、研究者がその旅の途中で出会った事柄をまるで音楽家が弦を爪弾くように見せてくれる。

 最初は、道・街道。農村に住む者にとっては「街道」と「村の道」とは全く別の世界を成していた。
街道は、主として経済上の目的と軍事上の目的のために建設され、「国王の道」とも呼ばれた。関税・通行税の徴収は勿論のこと、その所有権も国王にあった。街道に繋がる船舶航行可能な河川とその支流も街道の一部である。また街道は名誉ある者ならば誰でも通行できたが、名誉を喪失した者や践民は道を譲らねばならなかった。ただし、街道の整備や補修は近隣の共同体の役目であった。
 街道の交わるところ、十字路では善き霊と悪しき霊とが集まるところでもあり、霊の力で未来が見えるとも謂われた。町の近くの十字路は処刑場でもあり、奴隷を解放する場でもあった。

村の道ーわが国では水田や畑の畔でほぼ恒久的に区切られた道が見られる。中世ヨーロッパでは耕作地の仕組みが日本と 丸で異なる。三圃農法を採っている。この場合、耕作地は毎年移動するため、私有地を区切る畔という観念は存在しない。季節によって、年によって、用途によってその都度新しく設定される。曰く、六月の草刈用の道・木を刈り出す道・死んだ家畜を埋めに行く道・水車小屋に行く道、そして勿論、教会へ行く道.......。これらの村の道は、村落共同体が総出で整備し維持し、使用上の違反についての裁判権すら持っていた。街道を所有する国王や領域君主はその勢力を伸ばさんと村の道に触手を伸ばしていたともいう。

 11世紀ごろまでは農民という身分は無かったという。あるのは騎士と自由人、それに不自由人。騎士は農耕には従事しない。自由人は農耕に従事し、なおかつ 武装権も持っていた。騎馬軍役は装備に多大な費用がかかるために貧しい者には負担しきれず、貧困のために他の者の助力無しには遠征に参加しえない者は劣位の自由人として区別されていた。
 12世紀には自由人の武装権・私闘権が奪われ、その後、軍役義務もなくなり、徐々に農民という身分が形成されていったという。武装権を持つ名誉ある存在と それを持たない「農民」という社会的身分が生得身分として成立したのだ。その農民身分から逃れるには、成立しつつあった都市に逃げ込み商業や手工業を営むことだった。逃亡した農民が都市に向かえば結果として、市内の下層民が増える。そんな訳で、都市の人口の三分の一~二分の一は下層民・賤民であったそうな。こうした市民権を持たない住民は都市内に居住しても都市共同体からは排除され、祭りに参加することも出来なかった。

 下層民とは、職人・徒弟・僕婢・賃金労働者・日雇い労働者・婦人・貧民・乞食 そして賤民。
 賤民とは「名誉を持たない者」で、刑吏・墓堀・皮剥ぎ人・補史・牢守・共同浴場の主人・亜麻布織工・遍歴芸人・司祭の子・庶出子など。なお、パン屋や水車小屋の主なども賤民扱いであったという。

 下層民・賤民、それに人として扱われなかった人々がいる。
ジプシーと呼ばれる人々だ。彼らは法の保護の外にあり、市民の権利として彼らを鞭打ち・閉じ込め・殺すことが認められていた。16~18世紀の彼らへの排撃は苛酷で、捕らえられた彼らは強制労働、女は鞭と焼印、宿を貸した者も罰金が課せられた。1721年カール6世は「ジプシー」を絶滅せよとの命令を出したほどだ。
 彼らがヨーロッパに初めて現れたという記録は1100年アトスにある。次いで、ボスニア・セルビア。ドイツで「ジプシー」を確認されたのは1407年、パリでは1427年であった。“キリスト教に改宗し、7年間の巡礼特許状を法王から戴いている”という名目であったという。だが7年たっても10年たっても数が増えるばかりで、一向に定住もせず、放浪を続ける。その上中世末期から近代初頭にかけて、ヨーロッパには無数の放浪者・犯罪者の群れが各地で見られるようになってきていた。定住地を持たない乞食・群盗・巡礼・学生・楽師などや、戦乱で家を失った人々で、彼らが「ジプシーの群れ」を格好の隠れ場所にした。社会からはみ出した人びとと行動を共にして移動したことが「市民達」から忌み嫌われる原因ともなっていった。そして、放浪する集団の核になっていく彼らを、権力者が弾圧するのは必然のことであった。15世紀中葉、彼らはタタールの、又はトルコのスパイと言われ、ユダヤ人の変身した種族だと18世紀までまことしやかに語られていたと言う。
 ナチ時代、ヨーロッパ全体でアウシュヴィッツに送られた人数は、20万人とも40万人ともいわれている。弾圧が単にこの時代だけのものでなくもっと深い根のあることが理解できると思う。
 
 実際は、低地エジプト人と思われて「ジプシー」と呼ばれたのだが、彼らの言語はサンスクリット語と密接な関係があり、インドのビハール地方の種族と何らかの関係がある事が判明している。が、何故インドを離れて西へと旅立っていったのかは不明である。定住する機会があっても放浪を選び今に至っている。
 
 これまで「ジプシー」と表記してきたのは、彼らが自らをロマと呼んで欲しいと主張しているからだ。
ロマの意味は「ひと」で、「エスキモー」の人びとや、「ブッシュマン」の人々の主張とおなじだ。どの民族も「我ら自身」という意味の言葉を使っているのだ。先住民や大陸・島を発見し、勝手に名づける特権は誰にも無い。

 中世ヨーロッパの社会を理解するには格好の著書であるが、「ハーメルンの笛吹き男」の前に目を通しておいたほうが良かったかもしれない。 遍歴する職人については、シューベルトの歌曲集「冬の旅」と、この著書にある「オイレンシュピーゲル」に現れた職人像を対比させてもう少し詳しく別項で書いてみたい。
  

2006-10-01

「ハーメルンの笛吹き男ー伝説とその世界」       阿部謹也 '90年初版22刷 平凡社 1,854円

この本に出合ったきっかけは、06年9月17日の読書欄の「中世ヨーロッパ」と題したコラムだった。特にお勧めの四冊は表紙の写真つき。その終わり近く、三行ばかりの記事。“今月逝去した阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男」は街でたくましく生きる人びとを活写していた。”とあった。幼い頃に読んだ童話の挿絵がぼんやりと思い出されたのも一つの理由だ。
 「ハーメルン」からはヨーロッパ、特にドイツの中世都市の在り様が、「笛吹き男」からはそこに住む人びとの暮らし、社会構造を解き明かしてくれた。本は面白い。頁を開くと後から後から沢山の扉が現れるのだ。一つの扉を開けると次の扉が目に入る。扉を開けるもよし、そのままにしておくのもまたよし、扉など何処にも見つからない時もある。何日か、何年かたってまたその本を開くと.....

 さて、ハーメルン市は古来、東西交通の要路であり、ライン河からエルベ河までドイツを横断していく軍用道路の要の地でもあった。ヴェーゼル河を渡る橋はフランク時代からあり、橋を維持する為の隷農の村々が周囲に設置されていた。12世紀初頭には都市としての機能は大方完了していたようだ。水力を利用しての製粉業が盛んで、穀物の集積場として幾倉もの穀物倉が並んでいた。当然、鼠の繁殖力も高い。

 1284年、ハーメルンの街は鼠の被害で困っていた。その時鼠捕り男が現れ、報酬を払えばきれいさっぱり退治すると言う。市のお偉方は男と契約を結び、男は笛を吹いて鼠を誘き出しそのままヴェーゼル河に向かった。鼠たちは男の後を追って河に入り皆溺れた。お偉方は鼠からの災難を逃れると報酬を払うのが惜しくなり、口実を作って支払いを拒絶した。男は怒り、6月26日に町に戻って来てまた笛を吹いた。このとき男の笛についていったのは四歳以上の子供たちで、近くの山に着くと男もろとも消えてしまった。
 童話の世界では“...だから約束は守らなければいけない...”という教訓で終わっていた記憶がある。

 バルト海沿岸のクルケン村に伝わる鼠捕り男の話:ある男が粉引きのところにやってきて、住み込みで働かせて欲しいと頼むが、冷淡にあしらわれたので、鼠を小屋中に溢れる程送り込んだ。粉引きが泣かんばかりに謝ったので、男は鼠を湖の氷に穴をあけてそこに導き溺れさした。

 このように鼠捕り男の話はドイツのみならずフランスやブリテンにも伝わっている。共通しているのは、男が鼠を誘導して退治したこと、約定をまもらず報酬を払わなかったこと、男が仕返しをしたこと。また、男の身分は市民ではなく遍歴楽師であること。一所不在の民で土地を持たず定住できない者は土地所有が社会的価値の源泉であった当時、社会から除け者にされ差別されていた存在でもあった。したがって市民権の無い者との約定は守らなくてもなんら差し支えの無い、当然の行為だった、と思う。ハーメルンの子どもたちの集団失踪が鼠捕り男の復讐譚と一緒になるのは15世紀ごろからだと阿部氏は分析している。そして16世紀中葉に、添加されたのもが遍歴手工業職人たちによって全ドイツに広まっていった。

 阿部氏は続けて言う、「“130人の子供の失踪”という歴史的事件そのものには遍歴楽師は殆ど係わりを持たなかったと思う。遍歴楽師の社会的地位が近代に至るまで疎外されたものであり彼らを差別の目で眺め、悪行の象徴と見立てた人びとや学者の存在が“ハーメルンの笛吹き男”となった。」都市が繁栄していく反面、貧富の差は拡大し、近隣から流入してくる人びとは下層民・賎民となる。中世ヨーロッパでは、殆ど毎年何処かで飢饉、不作、疫病が起きていたが、そんな年でも都市の穀物の貯蔵量はかなりあったが、その価格は到底下層民の手の届くものではなかった。
 遍歴する楽師、放浪学生、手工業職人に加えて飢えた人々。このような人々が“裕福なハーメルンの町の子供たちの失踪”という話を耳にし、また片方で半ば慣例にもなっている“鼠捕り男への支払い拒否”を実感しているならば、この二つが合体するのは極く自然なことのように思われる。
 子供が失踪したのは笛吹き男の成だとする伝説がある一方、遍歴楽師に代表される放浪の民からのしっぺ返しの伝説。

 著者の阿部氏はヨーロッパの中世史が専門で、1971年ゲッチンゲン市の州立文書館で14~15世紀の古文書・古写本の分析・研究、特にバルト海に面した東プロイセンの一つの村を系統的に調べていた。史料のなかに、その村の水車小屋を舞台に鼠取り男の伝説が残されているという最近の研究が紹介されていた。阿部氏の思いは幼い頃に読んだ「ハーメルンの笛吹き男」に向かう。それからの毎日は、午前中は本来の研究に、午後はこのお伽話・伝説の分析が日課となったそうな。ゲッチンゲンからヴェーゼル河を少し下るとハーメルンで、その河口近くには音楽隊で有名なブレーメンの町ある。

 6月26日 祝祭日「ヨハネとパウロの日」はゲルマンの古い伝承では夏至の祭りの日でもあった。キリスト教は祭りの奥底に潜む古代的・異教的なものを嫌い、その伝統を根絶やしにする目的で古ゲルマン時代からの祭りの真っ只中にキリスト教の四季の斎日をぶつけた。いわばハレの日であるこの日に子どもたちが失踪したという記録を市が残している意味。2,000人の市民の中の130人は、実は子供ではなく植民のために門出する青少年であるとか、近隣の領主に引き入れられて戦いに赴く若者だとか、子供十字軍かとか、大別して25の解釈が今まで採られているという。中には純然たる作り話という説まである。

 下層民のこと

 「冬の旅」に見られる遍歴の職人のこと      未完

2006-09-27

「昨日の戦地からー米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア」  D・キーン編  2006.7. 中央公論社 2,800円



1945年八月19日からはじまるこの書簡集は、米軍日本語将校達の間で交わされた書簡である。提案したテッド・ドバリーは26歳、編者のドナルド・キーンは若干23歳であった。言うまでも無くこの年は太平洋戦争の終結した年で、米軍のとっては終戦、日本からみれば敗戦である 。

 グァム・ホノルル・マーシャル諸島のクワジェリン、京城(ソウル)・青島・南京・北京・上海、沖縄・東京・京都・佐世保・大阪・広島から、お互いに書き送った40通の書簡が収められている。23歳 D.キーン・28歳 S.モラン・29歳 F.ターナー。24歳 O.ケリー、D.オズボーン、W.ツネイシ。30歳 ヒサシ クボタ、D.ビアズレーという若い感受性に溢れる書簡であり、占領軍将校として日本語を操り接した日本人(一般人の大人や子どもたち・軍人...)、街の光景など、驚くほど素直に描いている。日系アメリカ人の二人は日本人や韓国人と接したときのお互いの戸惑いにも触れている。

 内容についての紹介も説明もしない。只、2006年の出版にあたってドナルド・キーン氏の「はじめに」からの言葉を記すだけにする。それだけで充分のような気がする。
 実は、アメリカでの出版は結局出来なかったのだ。戦後、同志社大学でアメリカ文化史の教授を務めたO.ケリーは、同志社大で若い学者グループと協力して日本語に翻訳し、52年抄訳で出版、75年から三回英語版が別々の出版社から異なったタイトルで出版されている。日本語での全文出版は今回が始めてである。

「はじめに」 D.キーン から.....
「1945年、太平洋戦争終結後まもなく、米軍の若い将校たちによって書かれたものである。・・・T.ドバリーの提案は“9月になった頃終戦直後の時点における私たちの経験を記した書簡を交換しよう”」

「自分達とおなじく、戦時中に日本語の翻訳と通訳をしていた他の人々も手紙の交換に招き入れることを二人で思い立った。歴史の重要な岐路に立っていると考えた私達は、それらの手紙が刺激に満ちた一つの時代を理解する、包括的な展望を与えることを望んだのである」

「日常においても。一層観察的になり、出版を計画した(この書簡を集めた)本の内容を高めようと、ある程度は意識していろいろな経験を追い求めるようになった。」

「当初の段階から決めていたのは、後日、新たな事実が判明しても手紙の内容には一切、手を加えないということだ。たとえ、そのために私たちの見解や未来への予測が実は間違っていたとしても。」

この若い日本語通訳将校たちは皆 海軍日本語学校で11ヶ月間の短期促成栽培された。小学校4年まで小樽で過ごしたO.ケーリ以外は日本語は初めてだった。将校であるから勿論捕虜の尋問や日本人兵士の復員にも携わる。外地で民間の日本人や現地人(中国人)との交流、好感をもって接していた日本軍将校の別の面に接し愕然とする。あらためて職務として尋問してもその将校の態度は変わらなかった。彼個人の性向なのか、日本人だからか、普遍的に人間にあることなのか。斉南から青島に戻ったD.キーンは、東京のT.ドバリーに書き送っている。40通の書簡に見えるのは、社会学的・文化人類学的フィールド・ワークの記録ともいえる。特に1945年12月、東京のO.ケーリからの書簡では、ピリンス・タカマツとその「お兄さん」、進駐軍の将校たちの率直な心境が伺える。書簡全体を通じて現代アメリカに繋がるジャーナリズム精神が随所に感じられることだ。
 この若者達は一刻も早く帰国し、もとの大学での学究生活に入りたいと願う。日本文学者・東洋思想・アメリカ文化史・ビルマのアメリカ大使・人類学者・議会図書館東洋部門局長・ニューズウィーク日本支社・原子力研究・アジア諸国での経済顧問など戦後の業績もめざましい。

 今のこの時代の我々日本人からみると、占領軍(進駐軍と日本人は呼んだ)のこの将校達は観察する側でもあり、観察される側でもあるという、そしてその時代の生の記録としての価値は初期の思惑以上に確実に存在しているのに気付く。


 日比谷のマッカーサー司令部の入っている第一生命ビル(GHQ)のクリスマスの電飾について
東京のS.モランからの書簡:1945年12月23日
 「クリスマスの飾りつけをしたGHQビルの写真が、あらゆる新聞の紙面を飾るのは間違いない。実に見事なものだ。ファサードの八本の巨大な御影石の柱のうち四本には緑の糸杉の大枝が約6フィートまで飾りつけられている。その大枝に星飾りがちりばめられ、その梢のさらに上に、また巨大なクリスマスツリーが両側に立てられ、色とりどりの電球が光っている。おまけに軒蛇腹のあたりは彩色され、花飾り模様を彫られた部品が夜には電灯に縁取られて、ビルの三方をぐるっと囲っている。そして、これらのすべての頂上には、燦然たる灯りをともされた、もう一つのクリスマスツリーが、屋上に聳えているのである。この大がかりなディスプレイ全体で二千を超える電球が使われているとか。」50人の作業員が四日懸かりで作った。

 また、12月22・23日には、「日米クリスマス音楽大会」が開かれたとも書いている。ヘンデルの「メサイア」をN響の前身であるニッポン・シンフォニー・オーケストラで、合唱は日本人と占領軍兵士で180人。主催は日本基督教団戦後生活活動委員会・国際平和協会・道議新生会。東京大学安田講堂で、観客は1,500人。殆どは兵士・水兵・陸軍婦人部隊の兵士と看護婦。

「解説」で五百旗頭 真氏が面白いことをかいている。「ほぼ1,600年ほどのこの国の歴史において、他国により滅ぼされたのは、1945年(昭和20年)ただ一度きりである。」と始めた文章で、663年の白村江で完敗、13世紀にはモンゴル軍が日本攻略を二度しかけたが辛くも防戦、19世紀半ば馬関海峡と薩摩湾で長州・薩摩の攘夷派連合軍が西洋の艦隊に敗れた。三回とも日本が植民地化しても可笑しくない状況ではあった。が、それぞれの相手国は日本を征伐するほどの軍事力の余裕が無かった。
「...興味深い現象は、白村江と攘夷派の敗北の後、それぞれ数十年にわたって、この国が中国文明と西洋文明から猛然と学習し、その時代の世界における最高水準の文明に自らを近づける躍進期を生み出したことである。国家滅亡に至らない二度の敗戦が、日本史の飛躍的な発展期をもたらした。ならば全面的な敗戦と外国軍による占領支配まで受けることになった1945年は日本史に何をもたらすであろうか。
 われわれはその長期的帰結を知っている。」と

また、この九人の若者達については、「第二次大戦直後はまだただの若者であった彼らは、実は一級の人物の青年期にあった。若き日の普通でない強烈な異文化体験が彼らを目覚めさせ、磨いた面もあろうが、優れた人物が感受性鋭い青年期に書いた手紙として本書を読んだほうが良いであろう。しかも、彼らは通りがかりのジャーナリストと違って、言語と地域についての基礎訓練を受け、重要な変革期に居合わせ、問題から目をそらさず直視する決意をもって飛び込んでいく若者であった。日本は自らの史上空前絶後の重大事態を迎えた数ヶ月に、かくもよき観察者を手にすることができたのである。」

 肌の白い、眼と髪の色が黒くない人間は地球上の何処でも年齢性別を問わず出かける。絶対なる安心感がある。また彼の地の現地民たちの頭の中には「こいつらに手を出すな、百倍になって返ってくるぞ」がある。西洋ではない土地が学んだ知恵である。

2006-09-24

「田中 清玄 自伝」  インタビュー 大須賀瑞夫    1993年 文芸春秋 1,900円

 1906年生まれのこの人物の経歴を見て、面白く無い筈は無い。途中まで読み進んで、なんでこんなに面白くないのかと不思議に思えてきた。「人」が見えてこない。

 戦前の非合法時代に旧制弘前高校時代に革命運動に走り、東大に入学後は共産党の党員で24歳で書記長まで勤める。1941年4月29日に11年10ヶ月の刑期を終えて出獄したが、獄中で転向、他に比較できないほどの天皇主義者となり「戦後、人類の平和と安定を願い、アジア・アラブ・ヨーロッパ各国で行動してきた」と語っている。右翼よりも右翼らしい彼が60年安保では左翼の全学連に巨額の資金を提供している。吉田茂に始まる政治家達、松永・土光らの財界人、禅僧 山本玄峰、京都学派の今西錦司、山口組の田岡など単なる名刺交換的な付き合いではない濃密な付き合いをしたという。そんな人間が85歳になって長時間のインタビューを受けて語ったものが面白くない筈はない。

 会津藩筆頭家老を先祖に持ち、黒田清輝に取り立てられた曽祖父は函館近郊の開拓使庁の畑などを作っていたと言う。裕福な家庭に育ったそうだ。1941年恩赦で出獄した後、禅寺龍沢寺の山本師のもとで修行、45年には建設会社“後の三幸建設”を設立。日本側の戦後処理に陰でかかわり「政界の黒幕」と呼ばれているのはこの頃の活動を指している。中東の石油を日本に持ち込み「石油利権屋」とも呼ばれる。こういう経歴の持ち主が85歳になっての二年にも及ぶインタビューが面白く無い筈は無いのだが...

 私の中には、何も残らなかった。この本というかこの人物に興味を持ったのは、クラス会の打ち合わせで同席していたT氏から何かの拍子に「田中清玄」という妙な経歴“戦前は共産党の書記長で戦後は右翼、全学連に資金提供した”を聞かされたからだ。あぁ 思い出した、彼の父君が「三幸建設」に在職していたとかの話で、その会社を始めた男は...というのがきっかけであった。それだけの話である。

2006-09-23

「アメリカ南部に生きる ー ある黒人農民の世界」    T. ローゼンガーデン 2006 彩流社 5,000円

 これは、また別の老人の話。名前はネイト・ショウ、1885年アラバマに生まれ、1973年そこで死んだ。彼の父親は15歳までショウという白人の持ち物であった。
 
 ネイトは21歳になるのを待って独立した。18の時から待って待って待っての独立だった。子供の時から父さんと畑にでて、大きくなってからは白人の畑に出された。給金は幾らだか分からないが全部父さんが“借金の”返済に充てたとしらされた。教育は黒人には邪魔だという父さんの考えでネイトは学校に行けなかった。独立してすぐ結婚したハナは家計簿をつけるぐらいの教育をうけていたので、ネイトは白人から見せられた書類はハナに読んでもらうのがつねだった。読み書きが出来無かったがネイトは記憶力と考える力をもっていた。理解出来ないものは分からないといい、理屈に合わないものは決して認めなかった。人一倍働き者であったから、白人はネイトの主張を無碍に退けることは難しかった。ネイトはそういう人間だ。
 結婚しても家もなく、妻の家に同居、財産と呼べるモノもなかった。働いて犂を手に入れ、ラバを手に入れ、半小作でも前借金のない黒人になる。「いい白人」にも出会うが「悪い白人」にも出会う。何度も煮え湯を飲まされる。この本はネイトの語るままの聞き書きである。注意して読み進めないと丸でかれは順風満帆のように思える。それほどさりげなく極く日常的な話として、白人からの差別を受けたことが語られている。原文がどんな文章か分からないがきっとPoliteという話言葉なんだろうと推測される。自分の意見も反論も口に出さずに黙って白人の話に耳を傾ける。「話ぐらい聞いてやらなきゃ気の毒だしな」

 1931年にシェアクロパーズー・ユニオンのことを聞き興味を持つ。ユニオンが最初に要求したのは、黒人が自分たちの組織を持つ権利だ。「わしらがこういう組織を求めるにはいろいろなわけがあったんだ。黒人たちは白人に何か言われるとすぐ身を引かなきゃならなかった。白人の下では、へりくだって振舞わなきゃならなかった。そうやってじぶんを守るしかなかった。」 このことをネイトは“自分の尊厳を殺す”という表現で言い表している。賛同したネイトたちは集会を開き、白人と衝突し、銃撃事件にまで発展してしまい、ネイトらは逮捕される。何人かが有罪になったが何故かネイトはその集会の首謀者と見なされたか、12年の刑を宣告される。この辺からネイトの口調が辛らつになってくる。聞き書きを始めたセオドア・ローゼンガーデンがネイトに出会ったのは、このユニオンに参加して刑に服していた経験をもつ黒人の年寄りの存在を知り、ユニオンについての論文を書く恋人とを訪ねたのがこの膨大な量の聞き書きの始まりであった。そして訳者の上杉健志氏もまたこのユニオンの活動を在外研究のテーマに選んだのが縁で著者と出会いこのネイトの話を翻訳する運びになったのだ。

1945年、出所。1950年、妻ハナ死す。ハナ名義の土地20エーカーを子供に相続させる。1953年、ジョウジーと再婚。
1954年連邦最高裁、学校の人種隔離は違憲の判決。1955年、モントゴメリー・バス・ボイコット運動始まる。1963年、ワシントン行進。1964年、公民権法。1965年、セルマ・モントゴメリー投票権要求行進。1968年、キング牧師暗殺。
1969年、著者に会い翌年からインタビューが始まった。ネイト・ショウの死後一年した1974年、本書が出版された。

 近在で一番の働き者であったネイトは、馬車を買い入れたのも自動車を買い入れたのも一番だった。自分がラバと苦労して畑に出て働いた結果で、白人にも ましてや黒人にも何も言われる筋合いはない。と ネイトは言うのだが、そんな単純にことは運んではいない。
 「おまえにはこんなことは分からんだろう、あんなことも分からんだろう、ろくな知恵が無いんだから」と言い放つ白人地主。白人が黒人に思い込ませたがっていることの数多くある中で、ネイトは土を耕す。


ネイトがラバに固執したこと。

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「映像」が出るならば、何の説明もされずに登場人物の人種が分かる。それに混血の場合はその程度も。では、活字の場合はどうであろう、特に記述がなければ私(達)は何故か当然の事として「白人」だと思って読んでいる。そして途中でその人物が黒人あるいは有色人種である紛れもない描写にぶつかり愕然としてしまう。「白人」はその名前から出自が推察できる。アイルランド系・ゲルマン系・北欧系・ロシア系・中東系と。黒人の場合は皆目分からない。ある人は昔からの苗字をつかい、ある人は結婚した相手の苗字、ある人は自分で苗字を決める。そんな訳で、黒人のハムレット・インド人のオフェーリアなどに出会うと驚いてしまう。ただ違和感はほんの少しの間で消えてしまう。それが演出家ピーター・ブルックの目指したところなのかもしれない。___________________________________________________
 
 その頃の黒人は奴隷主の名前で通っていた。自分の苗字はない。「ショウさんのところの.....」というヤツ。1885年、奴隷制度の廃止が成立して黒人奴隷は解放された。単に解放されただけで、家も土地も何も与えられなかった。地主であり元の“主”の小作農として生きるしかなかったのだ。半小作や半半小作もいた。収穫した作物ー多くの場合は綿ーの半分を地代として土地の持ち主に収める。残りの半分が自分の取り分。だが残りの半分を自由に仲買人に持ち込みそのときの相場で売ることは至難のことであったという。これもやはり土地の持ち主の所に持ち込み、その言い値で買い取ってもらう。白人は安値で買い入れた綿を相場で売り、利潤をあげる。これを仕方の無いものとして受け入れざるをえないのが実情。肥料(グァノ)の代金を前借し、日用品を白人の指定した店でツケで買う、只でさえ安い値で売った代金から引かれると負債が残ることもしばしばで、本当に引かれる金額が正しいかどうかは知らされてはくれない。記録は白人にのみ許されることだし、第一黒人が読み書き算盤は出来ないことになっているからだ。

 小作の契約はするが、「与えられるのはラバもうんざりするような荒れた土地」で、働き者の黒人に押し付ける。何年かして荒れた土地が畑の体裁を取り出すと契約をうちきり、白人の小作になる。「彼は家族が多く、食べて行かねばならないから、すまんな」という具合。ネイト・ショウはいう、「黒人にだって家族が居て全員で耕作していたのに、都合よく忘れられてしまう」。また、前借金の返済の為と称して銀行から借り入れをさせる。黒人の持ち物全部を担保にとってだ。借り入れした金は黒人の前を素通りして地主の白人の懐に直行する。黒人を呼び出してサインはさせるが内容の説明はされない。こんな風にして身ぐるみ剥がされてしまう。白人地主が白人を小作に選ばないのは、黒人の方がよく働くからだけではない。黒人に対する様に好き勝手ができないからだ。だから「貧乏白人、Poor White又は Red Neck」は気の毒だとネイトはいう。白人の創ったユニオンはそんな貧乏白人とわしら黒人のためにあったというネイトの認識の高さとどう白人は見るのか。結局ユニオンは貧乏でない白人の行政府によって潰されてしまった。

勿論、学校はあった。白人の学校と異なり年に何ヶ月も開かれない。州の予算はちゃんと配分されているが、現場の行政官は白人で、まず白人の学校のために使い、気が向いたら黒人の学校の費用にあてる。教科書も備品も教員の給料も出ない。その上収穫期の畑が忙しくなると、「放浪に対する罰」と称して歩いている成人黒人を畑に追いやる、子どもたちを働かせる為に休校にする。いつまでたってもまともな教育などは受けられない。だが、ネイトの存命中に黒人の経営する大学が出来たことも書いておかねばならない。ネイトは色の黒い白人だと笑ってはいたが...

 黒人達が大勢で集まって...などということは許されていなかった。家族や教会以外は。教会での音楽以外も同じ。楽器のない?いや、手と足がある。手を打ち鳴らし足踏みをする、腿を打つ、宗教歌はどんどん変容する。ゴスペルが、ブルースが誕生する。白人社会の教会と対比してみれば同じキリスト教とは思えまい。黒人にとっての教会は宗教の場であるとともに、劇場でもあり、議場でもあり、社交の場でもある。

 白人が黒人に思い込ませたがっていることは沢山ある。白人とは違うこと、教育は不要なこと、身奇麗に暮らすことは出来ないこと、考えるのは白人の役目だということ。 

2006-09-18

「ジャズ・マンとその時代ーアフリカン・アメリカンの苦難の歴史」 丸山 繁雄 2006.6 弘文堂 4,600円

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 確かに、「ジャズ・マンとその時代」ではある。むしろ、副題の「アフリカン・アメリカンの苦難の歴史と音楽」であり、音楽を縦糸にアメリカ黒人の歴史を織り込んでいる。自身音楽家でもある著者は、リズムと言語との関係からジャズの発生がアメリカ合衆国以外では起こり得ないことを明快に分析する。スペイン・ポルトガルはアフリカ西海岸のニジェール・コンゴ語と同じく「音節拍リズム言語」、対して英語・独語などのゲルマン語は「強勢拍リズム言語」であること、または黒人奴隷の処遇に関する差異。加えて、北アメリカにありながらフランス人の支配していたニューオルレアンズが合衆国に併合され(1803年)、白人と同等の権利を保証されていた市民であったクレオール達が、アメリカ社会になると外見の如何に関わらず黒人の血を1滴でも引く者は黒人とみなされ、有色人種として下層階級に区分けされたこと。これが結果的にジャズを誕生させたという。
 この場合のクレオールは混血人種を意味し、彼らのなかには父親の系統からの富裕階級に属する者も多く、黒人奴隷を所有し農場経営をし、子弟をヨーロッパに留学させたりもしていた。高価な楽器、特別な音楽教育を受けて初めて出来る高度な演奏技術を持った初期のジャズ・マンたちはこうして誕生していたのだ。今までずっと不思議に思っていたのが、ここで氷解した。

第一次世界大戦後、強化整備された黒人隔離目的の「ジム・クロウ法」は、1894年テネシー州で始まった。「合衆国憲法よりも各州の州法が優先されるという判決が連邦最高裁判所によってなされ、奴隷制地代にはなかば慣習的に行われていた黒人差別・分離制度が、学校、鉄道、食堂、劇場、ホテル、公園の水飲場に至るまで、公共の施設のあらゆる場面で黒人の差別が法制化された地代であった。黒人の選挙権は剥奪され、さらにリンチの凄惨さは目を覆うばかりであった。」
 極貧のうちに、1901年ルイ・アームストロングが生まれた。1920年には、Bird と呼ばれたチャーリー・パーカーが生まれ、1955年白人社会への反骨と侮蔑を貫いて死んだ。
 黒人としては中流階級の出であるマイルス・デイヴィスは1926年に生まれ、公民権運動の始まった1953年にはもうジャズ・マンとして名を成していた。丸山氏は、サッチモの「振りまかれる愛嬌」とマイルスの「倣岸さ」は、それぞれの育った時代を反映していると見ている。目を見合わせた、もしくはそう見えただけでリンチの口実になった時代と、やがては公民権運動として大きなうねりの萌芽が見られ始める時代と。
 コットン・クラブのステージはジャズをする人間にとっては最高の舞台だ。ここに出演する黒人プレイヤー達は裏口を使う。勿論白人専用のクラブであるから客は白人だけ。ステージに立って演奏している限り皮膚の色は忘れ、勝者であり英雄だった。ハーレムに戻った彼らは思いのままに演奏し、絶えず新しい手法を試し、お互いに挑戦し続けていた。「永遠の絶望」に満ち溢れた世界では、成人の黒人男性がまっとうな職につくのは難しいことであったという。単に白人の仕事を奪うからというにが理由ではあったが、実際は白人よりも仕事が巧みだったからだと社会学者のJ.W.ローウェンはいう。 貧困は荒廃を生み、最低所得者層が犯罪に移行するのは極く自然の成り行きだ。これが「永遠の絶望」なのだ。

 1968年に公民権法が成立した。だからといって社会が変わるわけではない。白人の市民と白人の警官の証言だけで逮捕され裁判にかけられる、運良く良心的な判事に出会って無罪になったとしても、家も仕事も何もかも失くしてその土地を出て行かざるを得ないのが現実なのだ。無罪を勝ち取った勝者である黒人に弁護団は「黒人は白人社会を汚染する存在という見方に変わりない。再び社会に受け入れられる可能性はゼロだ」という。これが1999年のミシシッピ州ジャクソン市の現実である。
 黒人への差別が南部だけの問題だという神話は間違いだ。「北部も含めて、黒人最底辺層の存在、その荒廃現象は全米的な問題」であることを見逃してはなるまい。

 05年8月29日のカトリーナの被害者に対して「非難命令は出した。(自分の意思で)残った住民は自己責任を果たすべきだ。避難しなかった市民にも責任はある。」とFEMAの長官は発言した。避難命令の意味が理解出来ないでいた者、家を離れている間に家財道具をなくしたら二度と買い戻せない者、避難したくても車も現金の蓄えも、安全な土地に住む縁者も居ないことを報道した記者はいなかった。ヒューストンの避難所は家族を失い家も仕事も失って身一つでたどり着いた人で溢れかえっていた。9月三日ここを訪れた元大統領夫人の発言を紹介している。「“クスクス笑いながら”もともと恵まれていない人たちですから、ここの待遇は充分ですよ」と。水と食料よりも先に、抵抗するものは全て撃ち殺せと命令された兵士が4日目に到着した。これが2005年の現実。

 これと同じ理屈はいままでも多くの場面で聞こえていた。「仕事はあるのに、何故働こうとしない」「貧民街から出て行けばいいのだ。そこが好きだといわれても仕方がない」「なぜ水泳の選手に黒人がいないって? 彼らのには浮力がないのさ」 etc. .......

 キャシアス・クレイがオリンピックで獲得したメダルは何処にあるのか。なぜ、モハメッド・アリと改名したのか。トスカニーニから百人に一人の声と絶賛され、ヨーロッパで喝采を受けてニューヨークに戻ったマリアン・アンダーソンを泊めてくれるホテルは一軒も無かったこと。事故に遭い救急患者として運ばれたベッシー・スミスは放置されて廊下で息を引き取った。

9.11から5年たって感動の映画が公開された。あの日、瀕死の怪我人を瓦礫の下から救い出し名も告げずに立ち去った海兵隊の隊員がいた。映画を見た彼は名乗り出た。彼は黒人であった。

アメリカ合衆国の人種差別を考える時、注意しなければならないのは、人種という分別は白人と非白人ではなく、白人と非白人、それと黒人のことである。

 丸山氏も書いているが、日本人が上手に歌うゴスペルやクワイヤに感じていた居心地の悪い違和感は、多分この血の繋がりの無い人間の「上手」に歌う不自然さのようなきがする。熱唱すればするほど、気持ちがはなれていく。

 このように差別や人権のことを思い煩ってどうなるというのか、なんにもならない。現在、世界のあちこちで皮膚の色や宗教によって迫害を受け 差別に甘んじているほかはない人々に私は何をしたというのか。なにもしない。ただ、これから読むだろう書物、見るだろう現実や映像に向き合った時に、その背景に思いが行くだけのこと。個人的な自己満足にすぎない。このように、私は見栄っ張りのスノッブである。

 在日米軍基地に出入りしている知人がいる。そこで普通のアメリカ人の日常生活の常識的な人種差別を有色人種の一人として経験している。だが、多くは語らない。

 参考に:「連邦黒人劇場プロジェクト」もとは公共事業促進局(仕事にあぶれた役者のためにローズベルト大統領が1930年代に始めた。イディッシュ劇場・実験的人形劇場などで、22の都市で開設されたが活動が今も続いているのはNY・シカゴ・シアトルだけ。

*無文字社会の音の世界           後日
*白人が楽器、特に打楽器を嫌った理由    後日

参考映像: マーティン・スコセッシ総監督「ブルースの誕生ー全7作」
      C.イーストウッド監督 「BIRD」

誰がどんな音だとか演奏法が聞き分けられるわけでもないが、なぜ、私はこんなにジャズ・マンの名前を知っているのだろうか。  

2006-08-22

「石斧と十字架・パプアニュギニア・インボング年代記」 塩田光喜 彩流社 2006.7. ¥4,700.

 まさに、年代記なのである。
 「石器時代に生きる人々の行動と心性、そして文明と遭遇し、文明にのみこまれることによって彼らの精神にいかなる変容が生じたのか、そこからいかなる新たな精神のドラマが展開してくるのかが本書の主題である。そしてそのためには、私は絶妙のタイミングで最高のフィールドに入っていったのだった。いまから20年前、文明接触から30年、石器時代に生を受け、其の中で成人となり、石器時代の生を鮮明に記憶している老人達が未だ多数生存していた。今やインボング族に残る語り部は、私のニューギニアにおける父ウィンディ老人やわが人生の師モゴイ・オガイエ老人など十指に満たない。」

 筆者塩田氏は1985年1月から1987年4月までニューギニアに滞在し、其のうちの一年半は高地のインボングの人々とくらした。ひたすら聞き書きをし、録音し、映像で記録する。ピジンイングリッシュを習い、インボング語を習い、微妙な言い回しに戸惑いつつ、文明の誕生に立ち会っているのだと高揚した気持ちで共に暮らす。夕食を「保護者」のごとき家族と共にし、8時ごろに散会、「雨季の雨はすでに夕方から降り始め、夜になってからは篠突くように大粒の雨滴を地面にたたきつけている。.....とうとうと降り注ぐ雨に打たれながら、洗い物をする私は幸福感で息も詰まらんばかりでだった。」何の説明もなく、唐突に塩田氏は家族になり、父を持つ。読んでいてあれっと思うのだが、前のどこを捲ってみてもそんなことは書いていない。聞きたがり屋の外国人では無くなっているのである。
高地の人々との会話や語りは、(よく分からないが多分)関西言葉である。それがまた柔らかな物言いであって、標準語にはない軽妙な味をだしている。

 こういう風に言ったら如何か。氏は稗田阿礼に出会ったのだ。30年前 まだ少年か青年になりかかりの頃、父は倭国大乱で戦い、もしかしたら自分もその戦いに加わったかもしれない。文字の無い社会では覚えるということが記録することであり、当たり前の日常でもあった。恐れを知らぬ宣教師が入り、石器時代の暮らしも宗教も習俗もすべてが邪教として忌み排除したが、老人たちは記憶を奥深くしまい込んだかも知れないが、忘れ去ったわけではなかった。氏の求めに応じて豊かな表現で語り、氏は指が擦り切れるほど記録した。

 縄文からいきなり文明開化だ。たった30年で大学にいく子供もいる、純粋なほどのクリスチャンになる、白人のするビジネスというものをもたらしている通貨が白蝶貝より有利だと気づき、店というビジネスを始める。30年前までは金属の存在も知らなかった石器時代から(多少の躊躇いはあったにせよ)喜々として乗り切ってしまう。それなりに成熟した社会でなければ出来ることではない。
 思い出した。この孤立していたニューギニアで、7千年前の農耕の跡が発見された報道があったのを。日本の縄文時代だ。バナナやタロイモの栽培がされていた。(2003年6月20日の記事)

 第一部の「石斧」では長いインボング大乱やらの話。第二部の「十字架」はこういう書き出しだ。
「それまでサラサラと音を立てて流れていた時がドロリと粘って動かなくなる。心と体が弾みを失って、どんな面白い話にも無感覚で無反応になってゆく。ウィンディ老人の言葉は私の外をいたずらに通りすぎていく。」「帰ろう、ポート・モレスビーに。.....」町で文明を貪り、次の段落では懐かしい我が家の小道を踊るように通り抜けている。「シオタ。何しとったんや!アンブプルでマガリの踊りやって、オレイの衆とアンブプルの間でそらおもろい悪口歌合戦やったのに」 一ヶ月の留守は無いに等しかった。

 それから三千人も集まるブタ屠りの儀式があり、第一部でさりげなく伏線が張られていた世紀末を目の前にした最後の審判の噂、畳み掛けるように一度死んでよみがえった女の噂。噂ではなくその女にはアンボ・ルートという名前があり、村々を回って自分の経験した奇跡の話する。シオタは ラジカセに90分を超える説教を収め、「意味は分からないながら、私はその張りのある中性的な声に魅入られていた。その声に込められた深遠な謎には私の心をとらえて離さぬものがあった」村人の間では、改悛と悔い改まりが熱波のように広まり、シオタのテープを聴きにくる者が多くいた。宗教的熱狂に包まれた村では「昼と夜、安息日と日常生活の区別も失って、始終、(教会で)集会を開いているようになった。塩田氏の言うように、アンボ・ルートの説教は、つい30年前までは石器時代であったのに真にキリスト教の道理にのっとって、ひたすらに純粋にキリストと天国の話をしている。ここでも塩田氏は論評しない。インボングの人々との交わりで価値観の違いやらで戸惑うことはあっても、それはたとえば日本の中で環境の異なった土地へ単身赴任した時に感ずる類いのものとして“さよか”と受ける。インボングの人々もどうやら同じように感じて接しているようだ。

 アンボ・ルートの説教の翻訳を完成させるために、塩田氏はまた町におりる。もう村に帰らない。通訳を買って出た青年とともにインボング語のテープを書き起こし、それを日本語に翻訳するのに神経をすり減らす毎日。「このままいたら、俺はほんまに神経が参って、ノイローゼになってしまいそうなんや」ということで、ふたりは休養日を設ける。塩田氏は新聞を買いビデオを借り、BBCやABCのテレビを見る。「分厚いノートにびっちり書き込まれたアンボ・ルートの説教のトランスクリプションと翻訳を辿るうちに、私は興奮に駆られ、言葉が始原の無音の世界から生み出されてきた人類史の100万年を追体験しているように感じ、.......そして、翌朝、目が覚めた時、私は言葉を失っていた。」

 「体を切れば旋律が吹きだすまでに」音楽をきく。ブラームス、ヘンデル、シューベルト etc. 一ヶ月かけて言葉を取り戻した。日本語が読めるようになって、ピジンが話せ、「たどたどしくはあっても、曲がりなりにも日本語の文章を紡ぎだせるようになっていく」 説教の翻訳が終わる頃、通訳の青年は新しい老人に引き合わせた。なんと、その老人はカーゴ・カルトの目撃者なのだ。また翌日から新しい聞き書きが始まる。話好きなパレ老人は カーゴ・カルトの話や、白人達が来た時のインボングの老人達の驚きと誤解にまつわるさまざまな笑い話、御伽噺などをテープに10本分も話した。

「老人は戦の時代を戦い抜き、白人統治の時代の屈辱を耐え、.....そして過去の己が人生を深い満足と自信を持って眺め、楽しい追憶として祖父が孫にでも語って聞かせるように私とテレマ(通訳)に己が体験を語った。老人は石器時代、白人支配の時代、それに独立パプアニューギニアの三代を見事に生き抜いてきたのだ。そしてワイガニに林立する政府の高層ビルディングを見物し、ボロゴのスーパーマーケットに溢れかえっているモダンな電気製品や見たことも無い珍奇な食物の数々を見、まるで御伽噺の世界に紛れ込んだかのように驚き、それが自分の一代で達成されたことに誇りを抱いていたのだ。」

 1987年四月九日、塩田氏は日本へ向かった。心の半ばはインボング族として.......

注:カーゴ・カルト~パプア・ニューギニア各地で事例が報告されている宗教運動。船(または飛行機)が祖先(あるいは神格)があの世で造った富をじきに運んでくるから、もう労働する必要もなくなり、貧しかったパプアニューギニア人は富み栄え楽園の生活を送るようになるというのが共通する教義。

(本文中に多数のモノクロ写真、巻頭にはまた多量のカラー写真。だが この類いの著者にある記念写真的もしくは研究対象(人のこと)と並んで写した写真は一枚も公表されていない。)

2006-08-16

「子ども兵の戦争」 P.W.シンガー 2006年6月   NHK出版 2,100円

 「武装組織から仲間になれって言われたけど、いやだって言った。そしたら、弟を殺された。だから仲間になった。」  L、  七歳
 「村には帰りたくない。ぼくが村中の家を焼き払ってしまったから。みんながぼくをどんな目に遭わせるかわからない。だけど、きっと痛めつけるはずだ。受け入れてもらえるとは思えない。」 I、 十六歳

 や町で子どもを徴集するときに、皆の見ている前でその子どもの親・弟・妹・親戚・隣人などを殺させたり手足を切り落とさせ、村の家々に火を付けさせる。逃げ帰れないように。

 「小火器が技術的にも効率の面でも進歩した結果、いまでは子供も大人と同じくらい危険な戦闘員になれる。人類の歴史のほとんどを通じて、兵器にはそれを使う者の腕力を当てにしていた。使いこなすには何年も訓練しなければならないのが普通であったため、子供を兵士にしても役に立たなかった。」

  の昔、戦いにいくのは大人の仕事であった。しかるべく通過儀礼を受け、大人としてその社会に認められて初めて戦士となる。戦士は名誉ある存在でもあった。武器を担って行軍し戦うだけの体力のある者だけが生き残った。それが有史以来第二次大戦まで続いていた。戦後の技術革命はプラスティックを誕生させ、勿論、武器の軽量化を促進させる。カラシニコフは4.7Kg、部品も少なく30分で使い方を習得できるという。兵士の低年齢化に歯止めが無くなった。

 国の貧富の格差は広がり続ける。「先進国」「発展途上国」、そして新たに登場したのは「破綻国」だ。冷戦が終わる頃,名ばかりの弱体国家が、大国の援助で大量の小火器を受け取り独立を勝ち取った。国内の秩序を保つこともおぼつかない国の中で、資源や利権をめぐって権力闘争や紛争が新興の軍閥やら紛争企業家を生み、兵力を競いあった。手っ取り早い兵力拡大は「子供たち」だ。極端な例では200人の男が12,000人の子ども達を徴収し て兵士に仕立て上げたウガンダの事例が報告されていると言う。

 06年8月17日付けの朝日新聞は、国連ルワンダ支援団の元司令官の話を伝えている。「私の見たものは敵国の兵士同士が戦う古典的な戦争ではない。隣人が隣人を手斧や鎌で襲い、少年が少年を殺す。人道も国際法もない、おぞましい狂気と蛮行が支配する世界だ...」この司令官ロメオ・ダーレル氏は退役後、虐殺を防げなかった自責や悲惨な戦場体験から、強度のPTSDを発症した。現在はカナダ上院議員で戦争被害を受けた子どもの救済活動などに取り組んでいるという。

 大人と同じ戦闘力をもつ子ども兵士はろくに報酬を払わなくてもいいから安上がりだし、命令に疑問を持たずに従う、補充も簡単だと 組織の統率者は語るという。補充は何処でも出来る。村で、難民収容所で、孤児院で、学校で、市場で。ストリートチルドレンも狙われる。武器を扱えなくなったら処分される。幸運にも紛争が鎮圧され、安定した国になったとしよう。先進国からの援助は子ども兵士が存在していたことが発覚したら大幅な減額になるか、無くなるかだ。では存在しなかったことにしよう。子ども達はそのまま放り出される。家も家族も教育も生活する術もない人殺しと略奪だけを知っている子ども達が町や村に放り出された結果、犯罪が大増加する。これらの子ども達のPSDTに対処するNGOは無きに等しい。立場を換えただけの政府軍と反政府軍、紛争は止まず、子ども兵士も無くならない。
 保護された子ども兵士の社会復帰のためのリハビリ施設の話もこの本に載っている。近隣の村人はどういう子供達がそこに収容されているのかが分かると、襲撃し殺戮した。理由は報復と恐怖。子供達は機会をみつけては逃亡するという。戻る家も村もなくまた別の組織に徴収・拉致されるだけだ。

 「夢ではたいてい、ぼくは銃を持ってて、人を撃って、殺して、切って、手足を切り取っている。こわいよ。ひょっとしたらまたあんな目に遭うんじゃないかって。泣くこともある.....女の人をみるとこわいんだ。女の人をひどく扱ってたから、近づいたらぶたれそうな気がして、殺されるかもしれない」 Z, 14歳

 「多くの途上国の軍隊が子供兵の部隊と戦ってきただけでなく、欧米の軍隊と子供の兵士たちが相対するケースも増加している」 パレスチナの子供が何百メートルも離れたイスラエル軍の見張り所から撃ち殺された報道を思い出した。ただ遊んでいた子供たちと子供兵士との区別をつけるのが難しい場所もあるのだ。

 「組織が子ども兵士を使うという選択をするには、偶然でもなく、無知だからでもなく、純粋な悪意からでもない。根底には利害があって、子ども兵士を使うことがプラスになると信じるから、組織は熟慮した上で子供達を徴収し、教化し、兵士にして実際に使う為のプロセスを用意する。」

 著者は言う、どうすればこの悪循環を無くせるかと。国への援助物資をとめる、国として孤立させる、紛争地域の利権にかかわる企業との取引を控える、不買運動を世界的に連動させる。そして、著者はこの企業への働きかけが一番効果的だとも言う。心の痛む解決法ではないか。国連では子供達をめぐってさまざまな宣言やら決議書が発せられた。特に200年の「武力紛争への子どもの関与に関する子どもの権利条約の選択議定書」は2003年までに111を超える国が署名、50カ国が批准している。紛争を抱える国々も含まれている。 子供兵士の数は地域紛争がなくならない限り増えることはあっても減ることはない。
 
 「地雷」についても随分おおくの国が批准してはいないか。

 子供兵士の数=「進行中もしくは終結まもない紛争のうち、18歳未満の子供たちが戦闘員となっているケースは68%(55のうち37)そのうち80%で18歳未満の子供たちが戦っている。
 同様に、これはつまり、世界中のさまざまな武装組織で(つまり、政府軍でも、政治や軍事がらみで行動しているすべての非政府武装組織でも)子供たちがふえているということだ。...中略...子供兵の平均年齢は12~13歳.....全戦闘員の10%近い、20年前はこの数字はゼロだった。」
 国連の試算では50を超える国で、現役の子供兵士は30万人、軍隊や準軍事組織に徴収しているのが50万人という。

追記: 先進国の軍隊あるいは国連軍が武力組織から攻撃を受け、撃破したとき相手の戦死者の、また捕虜の半数以上が子供と分かった時、その衝撃のためにその兵士も重いPSDTを発症するという。あらかじめその対策を訓練の中に取り入れていることも付け加えるのが公平というものであろう。

2006-08-10

新しい本棚には...

本たちの引越しが終わり、次から新しい本が並ぶ。この本棚は並び替えが出来ないのでその分だけ選択のいい加減さがはっきり出て面白いのではないかと思う。     2006.8.10.

2006-08-07

「裏社会の日本史」 フィリップ・ポンス 安永愛訳 2006.3. 筑摩書房 ¥4,300

 まず、訳者である安永氏の取り組み方に敬意を表したい。随分と生意気な言葉遣いではあるが、他に表現する言葉を知らない。訳者あとがきに「差別の重い現実をも見据える内容を日本語にする心理的な葛藤をなかなか克服できないでいた。」とある。固有名詞の表記確定・事実確認の作業などを正確に行うためのチームと共に、原注を含めて400頁になんなんとする大著の翻訳を流れるような日本語に置き換えている。

 著者はフランス人で30年以上 ル・モンド誌の日本特派員として多忙な記者活動の傍ら日本に関する著述を多数著している。この著書でも分かるように氏の「知的咀嚼力」は広範囲にわたる。歴史学・文化人類学・哲学・文学などの膨大な書物の読解を基本にやくざの親分へのインタビューやドヤ街への潜入ルポなど、分析力の確かさとジャーナリストとしての姿勢がうかがわれる。

 第一章は、中世における周縁民から始めている。穢れと差別・漂泊と差別の考察、良民と賎民との選別と統制。大きな変化は明治維新と前(さき)の敗戦であると筆者は主張する。明治新政府は戸籍をもたなかった被差別民や博徒・テキヤなど非農業民で移動を伴う職業に携わる人々、彼らに戸籍を与えて新平民とした時点で差別はより巧妙な形で存続することとなっていった。被差別民の開放は、特定の職業の独占権をなくしたが、職に付くことの平等に移行したわけではなかった。

 日本の研究者が使用するのを躊躇している言葉、被差別民を呼ぶ言葉や特定の地名が出てくる。
日本人は「人権」を考える立場から「えた・ひにん」などを使用禁止語に指定した。みなし・見立ての文化である。その言葉を使わないことで差別も偏見も無いことにしよう、というのが暗黙の了解であり、安永氏の「心理的な葛藤」を知らず知らずのうちに抱いてしまう。
 ただ気になるのは、貧窮民=下層民であり被差別民であるという記述が随所に見られる。「“えた・ひにん”は根強い偏見の犠牲者であり、その後も更に社会の低層へと落ち込み、彼らのゲットーは村落からの赤貧の移住者でふくれあがり、やがて近代都市の下層を構成することになるのである。」又は「明治になり、仕事をもとめて都市に流入した人々は下層プロレタリアートを構成し、其の中でも最も恵まれない人々が自ずと貧窮地区、すなはち被差別地区にあつまった。被差別民と同一視され、差別意識は拡大された。」

 ヤクザ・テキヤ・暴力団・ドヤ街については一般向け(素人好み)の面白可笑しく書かれたものが多い。専門の研究者も被差別民については「.....昔は...」という段階で留まっている。被差別民について発言できるのは、既に歴史に組み込まれたと解釈される時代に於いてだけである。 人権擁護・差別禁止というお題目には逆らえない。地名でも敗戦ですら穏やかな名前に呼び換える。そうする事で自己の正当性を主張してきたのだと、私は考える。

 横山源之助「日本之下層社会」・松原岩五郎「最暗黒の東京」・紀田順一郎「東京の下層社会」などの潜入ルポを継ぐ書だ。現代の寄場である山谷・寿町・釜が崎などのドヤ街は、西洋でのゲットーでもスラムでもない。どんずまりの街であり住まうのは単身者の男達が殆どで、そこには家族とか家庭は存在しない。その次の段階はホームレスで「青天井の老人ホーム」になる。ここが終着点。

 圧倒的な気迫で迫ってくるのは、敗戦後の混乱期にみられた権威(占領軍・官僚)と暴力団・テキヤとの図式だ。これらに見られる日本の総括的記述は現代までつながっていく。目の覚めるようなとでも言おうか。アメリカ占領軍司令部から日本の政界・金融・行政・司法と見事なまでに出来上がったテキヤ・暴力団との癒着構図。権力と結びついた結果、市民権を得て合法的な存在までに成長し進化してきた暴力団の素顔。1992年、暴力団対策法が大規模な暴力団を押さえ込んだ結果、軛が無く「粗暴な」外国人を招来してしまった。こんなところで合点がいっては堪らないと思うほど合理的で明解な文章だ。この敗戦の混乱期から「今」までの怒涛のような記述は 社会の空気にどっぷりと浸かっている日本人ではないから 書けるのかもしれない。

 特に印象的な分析は、アメリカ占領軍が理解に苦しんだとされる“親分・子分の関係”である。「この関係は社会関係のメカニズムとしてどのような社会にもさまざまな次元で存在していたし、また現在も存在している。日本に於いてこのような関係の図式の起源は非常に古く、政治家の派閥・家元制度・大家と店子(ひいては天皇と臣民)にも及んでいる。」 頂点の親分から末端の子分にいたる共通認識あるいは同質性、結局は「日本の“単一民族的”社会の同質性なるものが西洋において公理の如く見なされているのみならず、日本においても、さらに深い意味において、明治以来、有力なイデオロギーとなっている。それが当時、国家創生の壮大なる神話を持ち出し、またそれを再生産し、“富国強兵”を推し進めるべく明治期に着手された“伝統という発明”の所産である。」
 引用が長くなったが、これは「天皇ではなくて “天皇の存在”という概念」が維新期の発展に必要だったとする佐々木 潤之介氏の論旨の別の表現ではないか。

 「やくざやマフィアの文化を母胎とする組織的システムは自分達のものである周りの社会環境において見出さなければ“水の中の魚”のように存続していくことは出来ない。.....やくざやマフィアの基層文化はそれを取り巻く社会や文化の形態に似通っているものであり、また その極端な形となっているように思われる。」

 日本史の固有名詞の比定に苦労されたとあったが、原著ではどんな表記になっていたのであろうか。たとえば、品部・雜戸など。「界隈」という言葉が頻繁に見られたが これはどんな言葉に当てはめたのだろうか。

 とにかく しんどい一冊であった!

「ヒトの全体像を求めて・21世紀ヒト学の課題」        川田順造編 2006.5. 藤原書店

大貫良夫・尾本恵市・川田順造・佐原真・西田利貞。
 Anthropoloby Prehistory Ethnology, APEの会 それにプラス Primatologyで「新APEの会」を始めようではないか!と川田氏は口火を切る。
 生年月日を見て欲しい。殆ど同期である。敗戦の日に十代初め、戦後の混乱期と飢餓の記憶を持ち、学問の爆発を目の当たりにしている。知のネットワークの「感電するばかりの喜び」を吸収し共有している。

 この方達の著作に出会ったのはもう25年以上前になるか。特に編者の川田順造氏の「無文字社会の口頭伝承・歴史伝承、モシ王国からの報告」は人の根源的な文化というもののあり方を考える上で衝撃的な程の出会いであった。一連の著作の延長上にあるのがこの本。
 若い研究者の若い発想。私の意識の中では ずっとそう感じていたが、今 あらためて考えると七十代 の決して若くは無い年になられているのに驚く。なお持続している若さにまた驚く。総合科学としての博物学の再生を 異口同音に語っている。
 私の一番初めに知った博物学者はドリトル先生だし、総合科学の重要性を書いた本はSFの「宇宙船ビーグル号」だった。銀河系のかなたの星で 専門の学者が分析しきれないモノを解くのが 日ごろ何の為に乗船しているのかと揶揄されていた「総合科学者」だ。面白い本だった。

 2005年3月、尾本・西田・大貫・川田の諸氏が、差別と暴力の問題、自然のなかの人間の位置づけの問題などに対する問題提起の後で討論に入る。討論は、1.現代世界における人類学/2.自然の一部としてのヒト/3.現代以後のヒト学はどうあるべきか/まとめは各人から「新しい始まりへ向けて」。

尾本恵市 33年生まれ、分子人類学:遺伝人類学より分子人類学。自然人類学と文化人類学との乖離。カタカナで書くヒトという特別のかただか20万年の歴史しかない特別な単一種。霊長類学は動物学である。ヒトの進化の鍵はネオテニー。区別distinctionすること、科学の原点。偏見prejudice、文化の能力が本来持っている性質、価値判断。価値判断に由来する個人的好き嫌い。
差別discriminationは特定の社会または公人としての個人が人間の価値判断に関する偏見を公に認め、または法律等に反映させること。DNAは差別の対象にはならない。単なる情報。これを差別するのが文化である。

西田利貞 41年生まれ、霊長類学:集団間暴力の起源。霊長類では、基本的にはチンパンジーとヒトだけが縄張りの外に出て他の縄張りの中に入って行き、攻撃する。ヒトは完全に組織された戦いをし、集団で同盟する。また双方とも基本はメスの移動(嫁入り)。チンパンジーは自分の出自集団との関係をひきずらないから、同盟関係を結ぶのが困難なのか。また ヒトは集団遊びをする。

大貫良夫 37年生まれ、先史学・文化人類学:人間の普遍的な特徴は、文化人類学でいう文化の定義。言語の重要性、二重文節言語を駆使。身体の外側に適応の種々な手段を作った。技術であり、それの発達である。論理体系で解釈し納得する基本的性格。幅の広い雑食性からくる繁殖力。発情期の喪失。
 今、アンデスの先住民はジャガイモを栽培し食している。では ジャガイモ文化か?かつてインカ帝国が繁栄していた谷間の素晴らしい場所にはインディオはいない。全部追い出され、スペイン人が」興味を示さない急斜面の寒い高い所で村を作り生活している。そこで出来る作物はジャガイモしかない。

川田順造 34年生まれ、文化人類学:集権的国家成立の基盤は人による人の支配。儀礼的戦争から変質した徹底的破壊の戦争。常備軍の誕生。チンパンジーやたの動物の持つ攻撃性とは本質的に異なる。ヨーロッパ型の技術文化が近代化の原点。人間非依存性。日本の場合は人間依存性、簡単な道具を人間の巧みさで使いこなす。アフリカの場合は状況依存。価値観とか狩猟環境に対する意識が西洋タイプの技術文化に譲った。野蛮人savage(同一平面上の地理的違い)から未開人primitive(「遅れたもの」として、時間的な前後関係)へとの認識の変化。

佐原真 32年生まれ、考古学:「国立民俗博物館は、考古学と歴史、関連諸学の総合の学をめざしています。もう細かく分かれているだけではとてもだめで、やはり総合しなければ全体像が見えて来ません。」カヴァー裏表紙より  (氏は2002年逝去さる。)
1997年6月の鼎談「総合の『学』をめざして」にのみ参加。 出席者:尾本・川田・佐原

 環境問題が限界にきている現代のヒト学は どう考えていけばいいのか。
ヒトの進化における文化の淘汰圧。自然史の一部としてのヒト学。総合人間学としてのヒト学・「DNAから人権まで」とまとめにある。

 そして川田氏は続けて 「いま我々が勝手に熱弁を振るい、あとを次の世代に託したつもりでいても、十年前からいままで若い世代に強い共感も反発も無かったように、これからも無反応のまま、私達の感じているヒトの危機は進行しつずけるのではないかのか あるいは、ヒトの感受性自体が変わって、危機とすら感じない状態で、グローバル化、情報化、紛争、暴力、殺人、地球破壊が進む中で、それなりのヒト」の生き方を享楽する時代になるのであろうか」と

「悪魔と博覧会」 エリック・ラーソン 2006.4.   文芸春秋社  2,952円

一気に読みあげたいと思ったが、如何せん 500ページもある。原題は The Devil in the City, murder, madness at the Fair that changed America. 1983年5月~10月までのシカゴ大博覧会の話である。

 パデレフスキー、フーディニ、エジソン、少女時代のヘレン・ケラー、マーク・トウェーン。若さ溢れるクラレンス・ダロウ、フランク・ロイド・ライト、シオドラ・ドライサー。イギリスではロンドンの霧の中で「切り裂きジャック」が恐怖を撒き散らし、コナン・ドイルは短編小説で新しい英雄を創り出していた。そんな時代のアメリカを描いたノン・フィクション大作。乞うご期待といったところ。

 パリ万博の素晴らしさが伝わっていくうちに増幅される中、おなざなりに出品した為に他国、特にフランスの引き立て役に甘んじなければならなかったアメリカがそのプライドを賭けて開催したシカゴの万博。正式な名前は「世界コロンビア博覧会」という。コロンブスのアメリカ発見400年を記念する一大イヴェントである。シカゴはブラックシティと呼ばれ 博覧会の会場はホワイトシティと呼ばれた。建築物が全て建築用の漆喰に一番馴染む塗料「鉛白とオイル」で塗られていたからであり、またシカゴという現実の街が既に混沌とした暗黒の街でもあったからだ。

 博覧会の青写真が出来、工事が始まる。主役級の登場人物が山程あらわれる。それと呼応するように物静かにH.H.ホームズと名乗る男が自分だけの青写真を携えてやってくる。彼は大量無差別殺人者で、その記録はまだ破られてはいまい。断定できないのは本人もしかとその数を覚えていないからなのだ。
 この博覧会は当時のアメリカの技術と発明の粋を集めたもので、エジソンの動く映像・長距離電話・ジッパー・観覧車! バファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショウが隣接した会場で大人気を博していた。63丁目のゲート脇にはワールズフェア・ホテルが開業し、女性客に評判のオーナーがいた。時折宿泊代を払わずに姿を消す女性客がいても気にしない鷹揚な男であった。もう一人の重要な登場人物は冴えない男で、当時の市長の熱烈な支持者で、選挙に勝利した後では当然市の要職を提供される筈だと思い込んでいた。開幕と同時に建築現場が激減し、全国から集まってきた労働者はあふれ、景気は冷え込んできた。

 当ての外れた冴えない男は閉会寸前に市長を暗殺し、練りに練った閉会式は取りやめになった。外の世界は不況の嵐が吹き荒れ、翌1984年7月、大規模なストライキがアメリカ各地で勃発した。シカゴではストの参加者が鉄道を封鎖し客車を燃やした。其のあおりで博覧会の目玉だった七つのおおきな建物に火が放たれ、全てが炎の中に崩れ落ちた。1984年12月H.H.ホームズは保険金詐欺で逮捕され、ついでに大量殺人も発覚し、1896年7月絞首刑になった。

 それから100年たって、大観覧車はその大きさを競い、物欲を第一義としない連続大量殺人は珍しい事ではなくなり、どちらもギネスブックを賑わす話題となっていった。メディァの報道は連日 世界中の出来事を伝えている。其の中ではもはや「小説のような」とか「芝居をみているような」という表現は聞かれない。現実の方が想像の世界を遥かに凌駕している。このことがSFやファンタジィの世界が持て囃されている理由の一つだろう。

 50年後、環境破壊は想像を絶するほど進み、化石燃料は枯渇し、飢えた人間が地球を食い尽くしていると思う。コロンブスの新大陸発見500年記念の行事は南北アメリカの各地で企画されたが、反対集会もまた多かった。「我々は発見されたのではない!」

 50年後ですら保証できないのに、600年記念行事だなんて.......

「都市のアボリジニ~抑圧のはざまで」 鈴木清史   1995.2. 明石書店 2,600円 

 何年も前、東京大学の人類学の公開講座に出席した。最後の授業は頭蓋骨のオンパレードだった。ルーシーからトゥルカナ・ボーイ、ネアンデルタールにクロマニオン。チンパンジーからヒトに至るありとあらゆる頭蓋骨がスライドで提示された。其の上で次から次へと手渡されるレプリカの頭蓋骨。最後にこれは現代のヒトのと注釈付きで回ってきたのはアボリジニの人の頭蓋骨であった。現代?日本に当てはめれば明治維新後か?とすれば私の曽祖父の時代である。
 其の時 私の手の上に載っていたのは アボリジニの曽祖父の頭蓋骨だった。

1788年にイギリスの入植が始まり、しばらくしてアボリジニの人々を居留地に収容する“人道的政策”が行われた。居留地では、徹底的な白人同化教育がなされ、子供たちは寄宿生活と称して同じ居留地に住む家族(大人)から離された。それは信仰であれ言語であれ習慣であれ アボリジニであることを否定する教育であった。子供たちが白人社会で通用すると見なされると、女の子はドメスチックと呼ばれる白人家庭の使用人として雇われていった。居留地から出るには一定の条件さえ整えば可能であった。「良い性格で礼儀正しく、文明的な生活習慣を身に付け、正しい英語を話し、其の上 法定伝染病にかかっていない」ことを調査・確認し 条件を満たしたとされるアボリジニには許可証(アボリジニの間ではDog Licennceと呼ばれていた)が発行され、飲酒以外の殆どの権利を獲得できるようになる。その条件の中には一親等以上の親族と接触しないことも含まれている。血の記憶以外にアボリジニであることのなにもない人たちが都市を目指した。

 一般に白人の間で言われているのは、アボリジニは」呑んだくれで犯罪を犯す率が高いということだ。著書のなかのアボリジニの方への聞き書きにも「白人なら笑って見過ごされることも我々アボリジニだと逮捕される原因になる。」とある。「呑んだくれ」のことも、アボリジニだけではなく、なべて先住民に対して「白人」のとった態度は、低賃金で過酷な労働を忘れさせる為に、率先して安酒を勧めてきた歴史があることを忘れてはならないと私は考える。

 アボリジニは600以上の言語集団に分かれ、独自の文化を四万年以上も他の民族から離れて確立して暮らしてきた。だが、親(大人)と離され、自身の文化を否定する教育を受けて育ち、都市へ向かったアボリジニの人々が民族としての共通の認識を持つのは難しかった。
 1967年の国民投票によって、やっと国勢調査の対象としての市民権を得た。が、1970年代になっても夜10時以降の外出」は尋問の対象であり、それだけで留置される理由となった。1960年代になってから、アボリジニ児童の寄宿舎への強制収容や白人家庭への里親制度が廃止された。混血のアボリジニが増え、都市へ流入する数が多くなり居留地制度を解体せざるをえなくなっていった。

 ほんの200年の間に、都市部で暮らすアボリジニの数は全体の80%にもなり、金髪で青い目のアボリジニからあらゆる段階の皮膚の色をした混血アボリジニが暮らしている。合法的な婚姻がその原因の全てではない。辺境のアボリジニ」でも純血のアノリジニという民にであうのはまれであるという。また根強い人種差別の残る社会で、先住民に対する優遇処置を受ける為の「アボリジニとしての証明」が難しくなってきつつなっているともいう。圧倒的多数の「白人」の定義する「アボリジニ」の条件を満たすことの困難さ、都市であろうと辺境であろうと、アボリジニでありたいという意識の高まり、同時に 外見的にも文化的にも白人化しつつある現実。単一ではない言語や文化を「一つのアボリジニ文化」として学習しなければならない現実。それが都市のアボリジニの抱える課題であると、著者は言う。

 この著書は民博で1970年代終わりごろから行われたアボリジニ研究の中で、都市のアボリジニをシドニーに尋ねてまとめたものである。一連のフィールドワークから次に挙げる著書が刊行された。合わせて開いてみて欲しい。 松山利夫 「ユーカリの森に生きる」NHK出版、小山修三「狩人の大地」雄山閣。また昨年、窪田幸子氏の「アボリジニ社会のジェンダー人類学ー先住民・女性・社会変化」世界思想社 3,900円は アーネムランドに生きる人々の報告書として理解を深めるのに役立つ好著である。アボリジニの教育調査をしながら親しく交わった新保満氏の「悲しきブーメラン・アボリジニの悲劇」未来社 は等身大の生活を描いている。

:アボリジニの人々の「白人」の定義は、アボリジニではない人たちのことである。またここでは先住    民という時、大陸の先住民をいう。パプア・ニューギニアとオーストラリア北東部との間にある海峡に点在する諸島民は「トレス海峡諸島民」と呼ぶ。          

「熱帯アジアの森の民・資源利用の環境人類学」   池谷 和信 人文書院 2005.6. 2,400円

民博の共同研究の成果、報告書である。

 ...変わりつつある熱帯アジアの森の民の実像とそれへ向けられる一般社会からのまなざしを環境人類学の視点から総合的に把握することを目的...と 「はじめに」書かれている。ここで言う森の民とは、大きく分けて 狩猟採集民と焼畑耕作民とに分かれる。太古の昔 ヒトは皆 森の民であった。それから少し開けた水のある土地を利用することを覚え モノを所有する文化を生み出してきた。

 つい最近まで 森の民と外部社会との接点は 森の民の側の意思で成立していた。炭水化物としての食料や金属の道具と交換するために 狩の獲物(野生動物の肉・香木・藤蔓...)を定住する民に提供してきた。貨幣経済が進み近代化が開発という形で森を分断し始めると森の民の意思などお構いなく接触せざるを得なくなる。同化・定住化促進のために「改宗」した者に物質的な援助をする。記録上「改宗」「定住」している民が多く見られるという。中には生活の手段として秘境観光客のために伝統的扮装をし伝統的(原始的)生活を再現してみせる者も出てきている。勿論かれらの日常は「普通」である。

 熱帯雨林の森林資源で暮らしている森の民は、自然保護区の数や面積の拡大している今、「環境保全の妨げ」とみなされて移動させられているのも現実であるという。近年盛んに議論されている「焼畑」による森林の減少のことを書いておきたい。本来焼畑は数家族の人間が暮らしていく為の食料を得るために 周期的に決まった森を焼き・耕作することを意味してきた。絶えず森を焼き払い移動しているのではない。森林資源の伐採・木材の切り出しには大型トラックの出入りできる道路が付随し、産業の振興という目的で火を放ち焼き払った土地に 大規模な単一植物の農園(ゴム・コーヒーなど)が出来、利益が伴わなくなると即時撤退、あとには荒廃した地面がのこる。これはアマゾンでもアフリカでも同じである。森の民は周辺の「外部社会」に吸収されつつある。先住民としての森の民は木材産業やダム開発にどう対応するか、カナダやオーストラリアの先住民組織に倣って NGOが関与する運動が行われ始めている。

 熱帯雨林を再生させるには途方も無い時間がかかる。下生えも含めての再生は最低500年は懸かると言う。これは植物だけの話であり、小動物や昆虫達が戻ってくる保証はどこにもない。

「民衆史を学ぶということ」 佐々木 潤之介 2006.4.吉川弘文館  2,300円

著者の遺作となった「江戸時代論」、同時進行的に編纂されたこの論集は、講演録・紀要類・雑誌・新聞・自治体史などに発表されたもの。「近世の国家と天皇/近世社会の展開と民衆/近世の技術と科学/現代と歴史学」の四部構成。この中で著者は近世から現代に至るまでの民衆史を学ぶという事はどういうことかと 苦い味を飲み込みながら語っている。

 柳田国男が常民といい、宮本常一が庶民とよんだ民衆の歴史は天皇の存在を抜きにしてはかんがえられないこと。天皇でも天皇制でもなくこの「天皇の存在」という概念こそが民衆史を学ぶ基礎にあるという。武士階級の出現も明治維新も 天皇・朝廷の権威からの自立を果たさなかった故に、「われら」という血縁社会からうまれた身分差別(われらではない人たちへの差別)を存続させた。敗戦から新しい民主主義国家となった時も この概念を保持することによって戦勝国の占領統治が円滑に運んだのは記憶に新しい。

 1970年代半ばから歴史学の捉え方が変わったという。常民・庶民・民衆の歴史を社会史として見直そうという潮流だという。流れが変わったなかで育った年代には、当たり前のように読み飛ばしてきた「民衆史」をもう一度ふりかえってみるきっかけになる著書であると思う。

「龍の文明史」 安田 喜憲編  八坂書房 4,800円

 東洋・西洋・新世界の龍を分析。編者は国際日本文化研究センターの教授であり、これは二つ目の共同研究の成果である。安田氏は気候変動を中心に据えた環境文明史で多くの著書があり、広い分野に少なからぬ影響を与えた、と私は理解している。
 
 龍の文明史・安田喜憲/大河文明の生んだ怪獣・荒川紘/西洋のドラゴンと東洋の龍・田中英道/操舵櫌・伊東清司/龍の起源・李国棟/龍をめぐる神話・百田弥栄子/シャーマニズムから見た龍蛇と鳥と柱・萩原秀三郎/龍蛇と宇宙樹のフォークロア・金田久璋/メソアメリカ文明における龍蛇信仰・高山智博。確かに総花的に龍について学ぶには格好の書ではある。

 うぬと言わせる力作あり、またとりあえず手持ちの薀蓄を纏めた感ありの論文と、いわば言いすぎかも知れないが 玉石混交のように思われるのである。これが共同研究の成果を」まとめたものの恐ろしさであろう。三つの世界の空飛ぶ長虫状の生き物についての比較文明論があればとの感想を持ったのは無いものねだりなのか。ともあれ、薦めるに値する一冊ではある。

 思うに 西洋の龍はドラゴンで四肢(手と足)があり、空を飛ぶが地べたも歩き火を吹く。これは両生類だろう。それに彼らの現しているのは善としての姿ではない。攻撃の対象であり、亡ぼされるべき生き物なのである。
 新世界のは翼ある蛇とよばれる。東洋の龍地べたは歩かない、ひたすら宙にいる。聖なる存在である。個々の論証はあるが比較が無いというのはこのことなのである。

「ナガサキのおばあちゃん」  高橋 克雄      金の星社 ¥1,200.

 副題に「Memories of My Granma」、見開きには <昭和二十年八月九日 原爆により爆死した家族、命日を共にした学友たち、数え切れない多くの人々の 失われた愛と生命(いのち)をしのんで捧げます。> とあります。

ケンちゃんと親友のタキもっちゃん、ミカちゃん。ケンちゃんのおばあちゃん。あなたや私と同じような子ども達の日常。ケンちゃんの父親は四歳の時に平壤で重い胸の病で亡くなり、ケンちゃんを置いて看病に行っていた母親はその後望まれてかの地で再婚。ケンちゃんは長崎のおばあちゃんに引き取られ一緒に暮らしている。再婚して直ぐにケンちゃんを引き取りたいという母親におばあちゃんは「ばってん...朝鮮は、いくら日本じゃ言うても、もともと外国じゃなかね.....」といって、結局三年生まで、長崎の港を見下ろす西坂の丘の中腹にある南京下見張りの幸福そうな二階建ての家で暮らし続けている。
 ケンちゃんが 迎えにきた母親と平壤に旅立ったのは、昭和16年の夏、「...この年の十二月、日本は真珠湾を攻撃、中国だけでなくアメリカ・イギリス・オランダなどの連合軍を相手に大きな戦争をはじめました。...」

このように、さりげなく子供たちの目の高さの言葉での文章が続く。三人の仲良しは二十六聖人の中の三つの小さい十字架に自分達と同じ仲良しを重ね合わせ、義兄弟の誓いをする。ケンちゃんとはそれきりで、昭和二十年八月九日になる。タキもっちゃんはケンちゃんのおばあちゃんの家で十一時二分を迎える。浦上で爆弾の真下にいたミカちゃんは地獄の中を線路伝いに長崎駅近くの我が家まで辿り着き、炎と煙の街を見る。それから丘の中腹のケンちゃんのおばあちゃんチへ.....

 タキもっちゃんは命を助かり、 白髪の老人になったいま 毎年あの日になると車椅子に乗って、ケンちゃんのおばあちゃんチの辺りから海を見ている。
 大きな活字で総ルビ。そうです、この本は子供たちへの本です。もしかしたらタキもっちゃんが書いたのかも知れません。戦争についての批判も、原爆にあったミカちゃんがかわいそうとか痛そうとか そんな言葉は一つもありません。穏やかに静かに、あなたや私が小さい時の事を話すように、あの日を迎えた長崎の子供たちの話をしています。穏やかに静かに。           2006年 八月 九日

私の本棚が引越しました。

どうも 他の話題の不協和音を奏で始め、居心地が悪そうなので急遽ここに移した。いささかその選択には問題があるかも知れないが、一人の人間の好奇心なんてそんなものと理解していただきたい。

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