2006-09-18

「ジャズ・マンとその時代ーアフリカン・アメリカンの苦難の歴史」 丸山 繁雄 2006.6 弘文堂 4,600円

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 確かに、「ジャズ・マンとその時代」ではある。むしろ、副題の「アフリカン・アメリカンの苦難の歴史と音楽」であり、音楽を縦糸にアメリカ黒人の歴史を織り込んでいる。自身音楽家でもある著者は、リズムと言語との関係からジャズの発生がアメリカ合衆国以外では起こり得ないことを明快に分析する。スペイン・ポルトガルはアフリカ西海岸のニジェール・コンゴ語と同じく「音節拍リズム言語」、対して英語・独語などのゲルマン語は「強勢拍リズム言語」であること、または黒人奴隷の処遇に関する差異。加えて、北アメリカにありながらフランス人の支配していたニューオルレアンズが合衆国に併合され(1803年)、白人と同等の権利を保証されていた市民であったクレオール達が、アメリカ社会になると外見の如何に関わらず黒人の血を1滴でも引く者は黒人とみなされ、有色人種として下層階級に区分けされたこと。これが結果的にジャズを誕生させたという。
 この場合のクレオールは混血人種を意味し、彼らのなかには父親の系統からの富裕階級に属する者も多く、黒人奴隷を所有し農場経営をし、子弟をヨーロッパに留学させたりもしていた。高価な楽器、特別な音楽教育を受けて初めて出来る高度な演奏技術を持った初期のジャズ・マンたちはこうして誕生していたのだ。今までずっと不思議に思っていたのが、ここで氷解した。

第一次世界大戦後、強化整備された黒人隔離目的の「ジム・クロウ法」は、1894年テネシー州で始まった。「合衆国憲法よりも各州の州法が優先されるという判決が連邦最高裁判所によってなされ、奴隷制地代にはなかば慣習的に行われていた黒人差別・分離制度が、学校、鉄道、食堂、劇場、ホテル、公園の水飲場に至るまで、公共の施設のあらゆる場面で黒人の差別が法制化された地代であった。黒人の選挙権は剥奪され、さらにリンチの凄惨さは目を覆うばかりであった。」
 極貧のうちに、1901年ルイ・アームストロングが生まれた。1920年には、Bird と呼ばれたチャーリー・パーカーが生まれ、1955年白人社会への反骨と侮蔑を貫いて死んだ。
 黒人としては中流階級の出であるマイルス・デイヴィスは1926年に生まれ、公民権運動の始まった1953年にはもうジャズ・マンとして名を成していた。丸山氏は、サッチモの「振りまかれる愛嬌」とマイルスの「倣岸さ」は、それぞれの育った時代を反映していると見ている。目を見合わせた、もしくはそう見えただけでリンチの口実になった時代と、やがては公民権運動として大きなうねりの萌芽が見られ始める時代と。
 コットン・クラブのステージはジャズをする人間にとっては最高の舞台だ。ここに出演する黒人プレイヤー達は裏口を使う。勿論白人専用のクラブであるから客は白人だけ。ステージに立って演奏している限り皮膚の色は忘れ、勝者であり英雄だった。ハーレムに戻った彼らは思いのままに演奏し、絶えず新しい手法を試し、お互いに挑戦し続けていた。「永遠の絶望」に満ち溢れた世界では、成人の黒人男性がまっとうな職につくのは難しいことであったという。単に白人の仕事を奪うからというにが理由ではあったが、実際は白人よりも仕事が巧みだったからだと社会学者のJ.W.ローウェンはいう。 貧困は荒廃を生み、最低所得者層が犯罪に移行するのは極く自然の成り行きだ。これが「永遠の絶望」なのだ。

 1968年に公民権法が成立した。だからといって社会が変わるわけではない。白人の市民と白人の警官の証言だけで逮捕され裁判にかけられる、運良く良心的な判事に出会って無罪になったとしても、家も仕事も何もかも失くしてその土地を出て行かざるを得ないのが現実なのだ。無罪を勝ち取った勝者である黒人に弁護団は「黒人は白人社会を汚染する存在という見方に変わりない。再び社会に受け入れられる可能性はゼロだ」という。これが1999年のミシシッピ州ジャクソン市の現実である。
 黒人への差別が南部だけの問題だという神話は間違いだ。「北部も含めて、黒人最底辺層の存在、その荒廃現象は全米的な問題」であることを見逃してはなるまい。

 05年8月29日のカトリーナの被害者に対して「非難命令は出した。(自分の意思で)残った住民は自己責任を果たすべきだ。避難しなかった市民にも責任はある。」とFEMAの長官は発言した。避難命令の意味が理解出来ないでいた者、家を離れている間に家財道具をなくしたら二度と買い戻せない者、避難したくても車も現金の蓄えも、安全な土地に住む縁者も居ないことを報道した記者はいなかった。ヒューストンの避難所は家族を失い家も仕事も失って身一つでたどり着いた人で溢れかえっていた。9月三日ここを訪れた元大統領夫人の発言を紹介している。「“クスクス笑いながら”もともと恵まれていない人たちですから、ここの待遇は充分ですよ」と。水と食料よりも先に、抵抗するものは全て撃ち殺せと命令された兵士が4日目に到着した。これが2005年の現実。

 これと同じ理屈はいままでも多くの場面で聞こえていた。「仕事はあるのに、何故働こうとしない」「貧民街から出て行けばいいのだ。そこが好きだといわれても仕方がない」「なぜ水泳の選手に黒人がいないって? 彼らのには浮力がないのさ」 etc. .......

 キャシアス・クレイがオリンピックで獲得したメダルは何処にあるのか。なぜ、モハメッド・アリと改名したのか。トスカニーニから百人に一人の声と絶賛され、ヨーロッパで喝采を受けてニューヨークに戻ったマリアン・アンダーソンを泊めてくれるホテルは一軒も無かったこと。事故に遭い救急患者として運ばれたベッシー・スミスは放置されて廊下で息を引き取った。

9.11から5年たって感動の映画が公開された。あの日、瀕死の怪我人を瓦礫の下から救い出し名も告げずに立ち去った海兵隊の隊員がいた。映画を見た彼は名乗り出た。彼は黒人であった。

アメリカ合衆国の人種差別を考える時、注意しなければならないのは、人種という分別は白人と非白人ではなく、白人と非白人、それと黒人のことである。

 丸山氏も書いているが、日本人が上手に歌うゴスペルやクワイヤに感じていた居心地の悪い違和感は、多分この血の繋がりの無い人間の「上手」に歌う不自然さのようなきがする。熱唱すればするほど、気持ちがはなれていく。

 このように差別や人権のことを思い煩ってどうなるというのか、なんにもならない。現在、世界のあちこちで皮膚の色や宗教によって迫害を受け 差別に甘んじているほかはない人々に私は何をしたというのか。なにもしない。ただ、これから読むだろう書物、見るだろう現実や映像に向き合った時に、その背景に思いが行くだけのこと。個人的な自己満足にすぎない。このように、私は見栄っ張りのスノッブである。

 在日米軍基地に出入りしている知人がいる。そこで普通のアメリカ人の日常生活の常識的な人種差別を有色人種の一人として経験している。だが、多くは語らない。

 参考に:「連邦黒人劇場プロジェクト」もとは公共事業促進局(仕事にあぶれた役者のためにローズベルト大統領が1930年代に始めた。イディッシュ劇場・実験的人形劇場などで、22の都市で開設されたが活動が今も続いているのはNY・シカゴ・シアトルだけ。

*無文字社会の音の世界           後日
*白人が楽器、特に打楽器を嫌った理由    後日

参考映像: マーティン・スコセッシ総監督「ブルースの誕生ー全7作」
      C.イーストウッド監督 「BIRD」

誰がどんな音だとか演奏法が聞き分けられるわけでもないが、なぜ、私はこんなにジャズ・マンの名前を知っているのだろうか。  

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