2006-09-27
「昨日の戦地からー米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア」 D・キーン編 2006.7. 中央公論社 2,800円
1945年八月19日からはじまるこの書簡集は、米軍日本語将校達の間で交わされた書簡である。提案したテッド・ドバリーは26歳、編者のドナルド・キーンは若干23歳であった。言うまでも無くこの年は太平洋戦争の終結した年で、米軍のとっては終戦、日本からみれば敗戦である 。
グァム・ホノルル・マーシャル諸島のクワジェリン、京城(ソウル)・青島・南京・北京・上海、沖縄・東京・京都・佐世保・大阪・広島から、お互いに書き送った40通の書簡が収められている。23歳 D.キーン・28歳 S.モラン・29歳 F.ターナー。24歳 O.ケリー、D.オズボーン、W.ツネイシ。30歳 ヒサシ クボタ、D.ビアズレーという若い感受性に溢れる書簡であり、占領軍将校として日本語を操り接した日本人(一般人の大人や子どもたち・軍人...)、街の光景など、驚くほど素直に描いている。日系アメリカ人の二人は日本人や韓国人と接したときのお互いの戸惑いにも触れている。
内容についての紹介も説明もしない。只、2006年の出版にあたってドナルド・キーン氏の「はじめに」からの言葉を記すだけにする。それだけで充分のような気がする。
実は、アメリカでの出版は結局出来なかったのだ。戦後、同志社大学でアメリカ文化史の教授を務めたO.ケリーは、同志社大で若い学者グループと協力して日本語に翻訳し、52年抄訳で出版、75年から三回英語版が別々の出版社から異なったタイトルで出版されている。日本語での全文出版は今回が始めてである。
「はじめに」 D.キーン から.....
「1945年、太平洋戦争終結後まもなく、米軍の若い将校たちによって書かれたものである。・・・T.ドバリーの提案は“9月になった頃終戦直後の時点における私たちの経験を記した書簡を交換しよう”」
「自分達とおなじく、戦時中に日本語の翻訳と通訳をしていた他の人々も手紙の交換に招き入れることを二人で思い立った。歴史の重要な岐路に立っていると考えた私達は、それらの手紙が刺激に満ちた一つの時代を理解する、包括的な展望を与えることを望んだのである」
「日常においても。一層観察的になり、出版を計画した(この書簡を集めた)本の内容を高めようと、ある程度は意識していろいろな経験を追い求めるようになった。」
「当初の段階から決めていたのは、後日、新たな事実が判明しても手紙の内容には一切、手を加えないということだ。たとえ、そのために私たちの見解や未来への予測が実は間違っていたとしても。」
この若い日本語通訳将校たちは皆 海軍日本語学校で11ヶ月間の短期促成栽培された。小学校4年まで小樽で過ごしたO.ケーリ以外は日本語は初めてだった。将校であるから勿論捕虜の尋問や日本人兵士の復員にも携わる。外地で民間の日本人や現地人(中国人)との交流、好感をもって接していた日本軍将校の別の面に接し愕然とする。あらためて職務として尋問してもその将校の態度は変わらなかった。彼個人の性向なのか、日本人だからか、普遍的に人間にあることなのか。斉南から青島に戻ったD.キーンは、東京のT.ドバリーに書き送っている。40通の書簡に見えるのは、社会学的・文化人類学的フィールド・ワークの記録ともいえる。特に1945年12月、東京のO.ケーリからの書簡では、ピリンス・タカマツとその「お兄さん」、進駐軍の将校たちの率直な心境が伺える。書簡全体を通じて現代アメリカに繋がるジャーナリズム精神が随所に感じられることだ。
この若者達は一刻も早く帰国し、もとの大学での学究生活に入りたいと願う。日本文学者・東洋思想・アメリカ文化史・ビルマのアメリカ大使・人類学者・議会図書館東洋部門局長・ニューズウィーク日本支社・原子力研究・アジア諸国での経済顧問など戦後の業績もめざましい。
今のこの時代の我々日本人からみると、占領軍(進駐軍と日本人は呼んだ)のこの将校達は観察する側でもあり、観察される側でもあるという、そしてその時代の生の記録としての価値は初期の思惑以上に確実に存在しているのに気付く。
日比谷のマッカーサー司令部の入っている第一生命ビル(GHQ)のクリスマスの電飾について
東京のS.モランからの書簡:1945年12月23日
「クリスマスの飾りつけをしたGHQビルの写真が、あらゆる新聞の紙面を飾るのは間違いない。実に見事なものだ。ファサードの八本の巨大な御影石の柱のうち四本には緑の糸杉の大枝が約6フィートまで飾りつけられている。その大枝に星飾りがちりばめられ、その梢のさらに上に、また巨大なクリスマスツリーが両側に立てられ、色とりどりの電球が光っている。おまけに軒蛇腹のあたりは彩色され、花飾り模様を彫られた部品が夜には電灯に縁取られて、ビルの三方をぐるっと囲っている。そして、これらのすべての頂上には、燦然たる灯りをともされた、もう一つのクリスマスツリーが、屋上に聳えているのである。この大がかりなディスプレイ全体で二千を超える電球が使われているとか。」50人の作業員が四日懸かりで作った。
また、12月22・23日には、「日米クリスマス音楽大会」が開かれたとも書いている。ヘンデルの「メサイア」をN響の前身であるニッポン・シンフォニー・オーケストラで、合唱は日本人と占領軍兵士で180人。主催は日本基督教団戦後生活活動委員会・国際平和協会・道議新生会。東京大学安田講堂で、観客は1,500人。殆どは兵士・水兵・陸軍婦人部隊の兵士と看護婦。
「解説」で五百旗頭 真氏が面白いことをかいている。「ほぼ1,600年ほどのこの国の歴史において、他国により滅ぼされたのは、1945年(昭和20年)ただ一度きりである。」と始めた文章で、663年の白村江で完敗、13世紀にはモンゴル軍が日本攻略を二度しかけたが辛くも防戦、19世紀半ば馬関海峡と薩摩湾で長州・薩摩の攘夷派連合軍が西洋の艦隊に敗れた。三回とも日本が植民地化しても可笑しくない状況ではあった。が、それぞれの相手国は日本を征伐するほどの軍事力の余裕が無かった。
「...興味深い現象は、白村江と攘夷派の敗北の後、それぞれ数十年にわたって、この国が中国文明と西洋文明から猛然と学習し、その時代の世界における最高水準の文明に自らを近づける躍進期を生み出したことである。国家滅亡に至らない二度の敗戦が、日本史の飛躍的な発展期をもたらした。ならば全面的な敗戦と外国軍による占領支配まで受けることになった1945年は日本史に何をもたらすであろうか。
われわれはその長期的帰結を知っている。」と
また、この九人の若者達については、「第二次大戦直後はまだただの若者であった彼らは、実は一級の人物の青年期にあった。若き日の普通でない強烈な異文化体験が彼らを目覚めさせ、磨いた面もあろうが、優れた人物が感受性鋭い青年期に書いた手紙として本書を読んだほうが良いであろう。しかも、彼らは通りがかりのジャーナリストと違って、言語と地域についての基礎訓練を受け、重要な変革期に居合わせ、問題から目をそらさず直視する決意をもって飛び込んでいく若者であった。日本は自らの史上空前絶後の重大事態を迎えた数ヶ月に、かくもよき観察者を手にすることができたのである。」
肌の白い、眼と髪の色が黒くない人間は地球上の何処でも年齢性別を問わず出かける。絶対なる安心感がある。また彼の地の現地民たちの頭の中には「こいつらに手を出すな、百倍になって返ってくるぞ」がある。西洋ではない土地が学んだ知恵である。
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