2006-11-03
「旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶」 読売新聞西部本社編 2006.7. みずのわ出版 3,000円
1969年八月、会津若松駅で目じりに皺をいっぱい寄せて笑う宮本常一の写真でこの本は始まる。「民俗学者宮本常一は、生涯のうち四千日以上を民俗調査に充てた。作家の佐野真一さんは“旅する巨人”と呼ぶ。三千を超える地域を訪ね、子どもや労働に汗を流す男や女たち、街角、橋、看板、洗濯物~~とあらゆるものにレンズを向けてきた。戦後だけで約十万枚。山口県周防大島町で2004年開館した周防大島文化交流センターが保管している写真から、九州・山口の戦後をたどり、“いま”を取材する。」
最初の一枚は、長崎県対馬・厳原町浅藻。ここは宮本常一の生まれ故郷である周防大島から渡ってきた漁師たちが移って来て出来た集落である。1950年、浅藻に最初に住み着いた人の家で、梶田富五郎と会う。今八十一歳になる梶田富五郎さんの五男の嫁、梶田味木さんは写真を手にして当時を思い出す。「私はお茶を出しました。じいちゃんは上半身裸、宮本先生は半袖シャツ。長いこと話しているもんだから、ちらっと様子を見に行くと、山口弁でのやりとりに夢中、昼ごはんも食べずにね。じいちゃんも先生も何だかうれしそうでしたよ。」
また、別の土地でのこと。当地の民謡を夜の更けるのを忘れて歌ってくれた年寄りの女性達については、「もうお目にかかることはないだろうが、ゆうべのようにたのしかったことはなかった。死ぬまで忘れないだろうが、あなたもいつまでもゆうべのことをわすれないでほしい。」 宮本は出会った人々とこんな風に接し、そしてそのことを「私の日本地図」という著書に書き留めている。
宮本が出会った土地の人びとのまなざしもまた優しい。「一升は入るホラガイでみんなが酒の飲み比べをするのを眺めて楽しそうでした。」熊本県矢部町、通潤橋を訪ねて出会った高宮家現当主晃裕氏。
萩市浜崎の蒲鉾店の主、一利さんはこう回想する。「そういえば八月一日の住吉祭りの時。暑いのに、炭火で蒲鉾を焼いているのを目の前で、長いこと一生懸命見ていた人がいた。こんな本を書く人やったんか。」宮本はこう書いているという。“ーまぁ食べて見なさい”と主人。これは“うまい”と宮本。話を弾ませた後、“持っていきなさい”と勧めるのを丁重に断っている。名乗りあうこともなく別れ、二度と会うことのなかった二人。本の中には名前も屋号も出てこない。その主は四年前に他界し柳井良子さん(70才)は夫を偲ぶ。
失われた風景、幼いころの友や自分、逝ってしまった夫・父母・祖父、あそこにあった店、そんなものがいっぺんに胸に溢れてくる。その写真を目にしなければ思い出すこともなかったのに。誰もが暮らしの中に埋没させている記憶。戦後の食糧難の時代から「もはや戦後ではない」といわれた復興の大波の押し寄せる中で、その土地から失われつつある風景、利便性の大鉈で切り落とされていく暮らし。そんな日常を宮本は十万枚もの記録に残した。
「島をほんとに発展させてゆくのは、ここに住んでいる人たちの努力にたよる外はない。」と記す一方で、「やがて消え行くもの」の気配、「地方の町の個性が失われていく」のを確実に予見している。残念ながら記者たちが古い写真をもっておとずれた場所には宮本の見たであろう風景は残っていなかった。老いた人たちの色褪せていない記憶に「その時代」が残っていた。
民俗学者宮本常一の姿勢は何だろう。彼に接した人々を魅了する宮本常一。膨大な写真の中から宮本に語りかけるもの。同時にその写真を手に新聞記者は写された関係者を探し、その土地に流れた三十年から五十年の時間を辿り直した記録である。二十一人の手になる記録ではあるが、まるで一人の宮本に執り付かれた人間が書いているようだ。これは一体なんだろう。多分、これが「宮本常一」なのだ。
民俗学者である宮本常一はまた営農指導者でもあった。訪れた農村・漁村・島でどうしたらその土地が、土地にすむ人々が活気ずくのか、中央や大きな資本に収奪されずに地場産業が興せるかということを真剣に考え、その土地の人たちと議論した。
「地方にいくほど銀座が多い。涙ぐましいほどの中央追随の姿である。そして、そういうことによって次第に地方都市の自主性を失っていくようである。」
「この町が長い歴史の中から生み出したようなよさを、いつまで持ち伝えていくことができるであろうか。」
「島の人々は島につよい愛着をもっており、何とか島をよくしようとしているのだが、今の政治はそういう意欲をそぐ方向に向かっている」
「離島振興事業もかならずしも期待するほどの効果をあげているとはいえない。次々に無人島のふえてきていることがそれをものがたる。」2006年、過疎の村は増加し日本から切り捨てられつつある。
「進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。」
長崎県長崎半島の突端に野母崎がある。そこから椛島まで赤いアーチの樺島大橋が架かっている。まだ橋のなかった1961年、宮本は島の悲願である架橋についてこう記している。「“橋でも架かるといいのですが”と島の人がこぼすから“その気になりなさい。わずか300メートルの海に橋がかからぬこともありますまい。ただ、その橋を観光めあてにかけたのでは意味がない。できあがった橋がほんとに役にたつ産業をもつということでしょう。お互いに考えてみようではありませんか”とはなしたのであった。」
1966年、宮本は種子島にいた。離島振興法の施行から13年たって、産業や人びとの暮らしぶりなどについての調査団を率い、約10日間滞在した。当時、調査団に同行した田上利男さん(74歳)は「宮本先生はほとんど休むことなく、島中を駆け回っていたのを思い出します。本当に忙しそうでしたが、人と話すときだけは時間を忘れていました。」
ずっと前、TVの特集番組で佐渡の漁師が「宮本常一」のことを懐かしんで話していた。何故かその情景が思い出される。
*山口県周防大島にある宮本の古里、東和町に彼自身が設立した「郷土大学」がある。この大学は彼の精神の継承を掲げ、いまも地域の人びとの学びの場になっている。この「宮本学」の中心施設として2004年に、町立の周防大島文化交流センターが開設された。
この本の監修は全国離島振興協議会・財団法人日本離島センター・周防大島文化センターである。
*「土佐源氏」という彼の収録した話を、沼田耀一氏は一人芝居に仕立てて全国を回った。沼田氏は2005年 逝去された。
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