2006-10-20

「乞胸と江戸の大道芸」 高柳 金芳           1981年初版 柏書房 1,800円


 江戸時代の社会構成は、良民・乞胸・賤民に分けられていた。この賤民と呼ばれる人々の職種は時代により差異・変遷がある。江戸時代初期、長吏頭・弾左エ門の支配下にあった職種は28座、享保10年(1725年)には、穢多・猿飼・非人・乞胸・茶筅の5種であった。明治維新になり、賤民開放令と呼ばれる「太政官布告 第448号」が公布され、乞胸頭・乞胸の名称が廃止されるに伴い家業の特権も無くなった。武士階級は秩禄処分の代償として現金および公債が交付され、授産事業にも援助が与えられたが、彼ら乞胸の生活の根拠である家業の奪取については何らのの配慮もされなかった。

 「乞胸 ゴウムネ」とは一体どういう人々なのか。「...慶安年間1648-1651、江戸御府内において、浪人が無為徒食を禁じられたため、已む無く編み笠に面を隠し、習い覚えた謡・浄瑠璃を唱え、三味線を弾き、家々の門口に立ち、金銭を乞うたことに始まり、編み笠を被ることが乞胸の徴であった。そして、次第に寺社境内・明地、及び大道において、あるいは各家々に立ち 芸を披露し、一般から銭金を受けることを“家業”として認められた」人々なのである。
 この時の「家業」とは、綾取・猿若・江戸漫才・辻放下・からくり・操り・浄瑠璃・説教・物まね・仕方能・物読講釈・辻勧進の十二種で、時代によって多少の変化はあるが、おおむね変わらない。
 
 乞胸の頭は九代目より仁太夫と名乗り、住まいも日本橋から下谷山崎町へと移った。1842年仁太夫の書上には、配下の乞胸は749人にもおよび、四谷天龍寺門前・深川海辺大工町と合わせて三ヶ所と主として、その他は御府内に散在して暮らしていた。尚、下谷山崎町は江戸時代から四谷鮫ヶ橋・芝新網町とともに明治の貧民屈として知られていた。

  乞胸頭の支配の及ばない者は、堺町の仲村座・葦屋町の市村座・木挽町の森田屋、所謂江戸三座と狂言座、および湯島天神境内の狂言に出演する者、三河万歳・大神楽・越後獅子など。 其の他に、乞胸頭の支配外には、「願人坊」と「香具師」がいた。

 「願人坊」は、一説に1643年に東叡山寛永寺の末寺建立のために日本橋橋本町の空地に居住し、加治祈祷および毘沙門天の守り札・秘札を頒り、代参・代垢離を業として、托鉢・願望成就の祈りなどを行っていたが、次第に困窮し町家の門口にたち、軽口謎・阿呆陀羅経と唱え、はては謡・浄瑠璃を唄って米銭を乞う僧体の乞食にまで堕落していった。慶安5年(1652年)に13人であったのが、天保14年(1843年)には7~800人と膨れ上がり、また乞胸の家業の一つである「辻勧進」とも大道芸とも抵触し紛争の種となった。

 「香具師」は、「縁日・祭礼において、品物を商う露天商(縁日商人)がその手段として技芸を行った。この手段と目的が互いに交錯して露天商を「的屋 テキヤ」、技芸を主とする者を「見世物師 タカモノシ」と称するに至った。」 香具師には乞胸のように決まった頭はいない。弁舌・力量・知恵のあるものが選ばれて「首領、総元締め」となり、元締めは縁日・祭礼の日には興行師の場所の割り当て・土地借料の世話などを行うようになったが、そもそもは浪人が武士の嗜みとして覚えていた切り傷の薬などを調合して売ったり、居合い抜きをしてみせたのが香具師の始まりと言われている。
 享保20年(1735年)の記録によれば「十三香具師」と言われ、居合抜・軽業などの愛嬌芸と共に、諸国妙薬取次売り・辻療治・膏薬売りなどを生業としていた。翌20年の南町奉行大岡越前守により定められた「香具師職法式目」には、「香具師に対しその身分を定め、十手捕縛を許し、隠密御用や密貿易の取り締まりを命じた とある。
 商いは主として医薬品の販売であったが、その手段であった愛嬌芸の多くは乞胸家業の「辻放下」に属していた為、ここでも紛争・係争が生じた。
 著者の調べたところでは、「この係争の結果が如何になったかについては、種々手を尽くしたが、遂に史料、記録を発見することができなかった。恐らくは先に述べた乞胸と願人坊の“辻勧進”問題と同様に曖昧裡に落着したのではなかろうか。」

 天保の改革・・・・・「江戸時代末期の天保年間(1830-43)に至ると、幕府を始め諸大名の財政逼迫、武士の貧困化、農村の荒廃、百姓一揆の続発、そして都市生活の退廃と、あらゆる悪条件が山積・重複し、封建制度の基盤もようやく揺るぎ始めた。このため施政者は封建支配体制の維持・強化のためにも、果敢な政策の転換に迫られた。」老中首座となった水野は天保12年、享保・寛政の改革に習って天保の改革を断行した。奢侈の禁止・風俗の粛清で有名であるが、天保13年の「無宿野非人旧里帰郷令」は俗に「人返し」といわれ、江戸の無宿人の取り締まりを非人頭に命じた。公布されて半年で5,000人もの人数が「狩りこみ」「片付け」に遭った。
 ここで「ぐれ宿」が登場する。木賃宿は時代と共に変化・発展し、宿泊に食事を出す旅籠となっていったが木賃宿も貧困者の宿泊所として残った。旅籠が行き渡ると木賃宿や姿を消し、替って「長旅・六十六部・順礼・金毘羅参り・伊勢参りおよび物貰いの徒は、乞胸頭あるいは願人坊蝕頭を便りきて、宿泊を頼むようになった。一方乞胸や願人坊にしても、その家業や所業だけでは生活に苦しいので、これらを迎え入れた。これが“ぐれ宿”である。」木賃宿に比べても安い宿泊料にその日稼ぎの貧困者の利用が増え、遂にはいかがわしい者やお尋ね者までもが紛れ込むようになっていった。「人返し」の強化取締りの対象になり、無宿者と共に乞胸や願人坊の多くが宿払いに遭い、その数を半数以下に激減させたという。

 「乞胸」とは、身分はあくまでも一般の町人で、町方の支配に属するが、家業のみをその組織の頭である仁太夫を通じて浅草の非人頭、車善七の支配を受ける。ただし、家業を止めれば乞胸頭との関係は消滅し元の一般の町民に戻った。他の賤民と異なり身分は固定されたものではなく変更することの出来る特異な存在だ。だが、慶安年間から200年近くたつと幕府側や一般町民の意識に乞胸は賤民であるとの固定観念が生じてきた。明治維新の「賤民開放令」が発布され、当然、氏の称(苗字を付ける事)が許されてしかるべきであったが、明治政府は彼らは賤業の者であり、非人頭の支配を受け、非人同様の渡世であるからという理由で、「苗字用い候儀、相成らず候。」という結論をだした。