2006-12-19

「人類の自己家畜化と現代」 尾本 恵市 編著 2002.7. 人文書院 1,600円

本書は国際高等研究所課題研究「人類の自己家畜化現象と現代文明」(1996-1998)が基になっている。

この本は殆どヒトの絶望を描いている。現在、アフリカに住む我等の従兄弟たち(ボノボ・チンパンジー・ゴリラ)が絶滅危惧種になっているが、その姿は明日の我々だと、警鐘を鳴らしている。ただ、もう人間の知恵ではどうにもならないところまで事態は進んでいるのだ。滅ぶのは人類をふくめた一部の生物で、多くの生物達は別の生態系を織り出していくことは確かなことでもある。

「はじめに」 埴原 和郎(専門は人類進化学を中心とする自然人類学):
 「人類の進化は高度に文化の影響を受け、他の生物に見られない特徴を獲得するにいたった。」
 「人類は500万年あまり前から独特の進化を始めたが、生物の進化史からいえば、極めて短時間であること、特に、脳の変化は三倍余りになり、複雑な機能をそなえるようになった。この“爆発的”進化は自然環境への適応のみによって生じたとは考えられず、文化環境への適応という要因を考慮せざるを得ない。」

 文化を運び次代に受け継がせるために遺伝子は存在するというミーム論にも関係してくると私は考える。

 「人類では文化が進化の方向を左右するという例が少なからず見られるため、身体的進化を論ずる場合にも文化の影響を無視することは出来ないにである。」「家畜は文化環境の中で生まれ、育ち、そして集団として進化する。」
 「身体的特徴が文化の影響を受けるという点では、人類も家畜も本質的に同じと考えることが出来る。」 「コントロール技術が未熟のまま文明の利器が見切り発車の状態で実用に供され始めていること。」「現代人の体が、心理的な側面を含めて、一万年以上前の旧石器時代の環境にしか適応していないということ。」

「メタファーとしての自己家畜化現象ー現代文明下のヒトを考える」
尾本 恵市
:動物における家畜化とは、咀嚼器官を中心とした顔面部の短縮がまず思いつく。「色素の減少、貧毛、縮毛など野生動物にはなく、ある種の家畜にみられる特徴が、人類では地理的変異として普通に出現し、いわゆる人種差の根拠とされる。.....人類は無意識の内に、自己をある方向に“改良”、つまり“自己家畜化”した産物ではないだろうか。.....家畜は人間によって自然から保護・管理(単に固体の管理だけでなく、生殖も管理)されて、つくられたが、人類は文化によって、自己を自然環境から隔離し、その結果として、家畜と同様の性質を持つに至った、とされる。」
 尾本氏は、「自己家畜化という比喩には、ヒトの社会における“差別”という重大な現象を理解する鍵があると気づいた。.....人間は、家畜を“有用さ”という価値判断によって改良してきた。同時に、人間は、互いに個人または集団を“有用さ”という基準によって差別するようになったのではなかろうか。」

 生物の進化にとっての一万年:「一万年前のヒトが仮にこの世に生まれて、われわれと同じ学習・教育をうけたとして、彼または彼女が現代人と著しく異なる行動をするとは考えられないのである。われわれは、一万年前の遺伝子で現代文明下の急激な環境変化にたえねばならないともいえる。」
「作り上げた環境を離れては生存できないこと、それに集団として教育やマスコミによって画一化された世界観を植えつけられ易く、個性が欠如する傾向がある。」

 平成11年2月、尾本氏は、この共同研究をしめくくる国際ワークショップでの基調講演の中で次のように発言を纏めたとある。「“自己家畜化から自己規制する発展へ”という道筋を示すことが21世紀の人類学の究極の目標である。」と。

「人間の自己家畜化を異文化間で比較する」 川田 順造:
「自己家畜化の認知的側面」 松井 健:

「清潔すぎることの危うさ」 藤田 紘一郎:今、日本が危ない、日本の子どもたちが危ないと筆者はいう。「子どもたちが自分の体からでる“きたないもの”への嫌悪感を薄めることが大切ではないかと思った。人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは“人間が生き物”であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人と自然と付き合うことができなくなっていくであろう。体から出るものを忌み嫌うことは、当然、ヒトに共生している寄生虫や細菌を“異物”として排除しようとする。その結果、人間が本来もっている免疫システムまでも弱めてしまうのである。」

 「日本の社会から全ての“異物”を排除してしまったから、その社会に住む日本人は異物とうまく付き合う術をうしなってしまったようである。いまの日本の社会にはもっともっと異物が必要である。規格はずれの人や物が必要である。街も入り組んだり、汚い場所があってよい。そうすれば、もともと本人には無関係なダニの死骸や不潔な人や物にも気がつかなくなるであろう。」

 「言葉の世界でも異物の存在を許していないようである。.....“差別語”は確かに表面上は汚く、使ってはいけない言葉かもしれない。しかし、その言葉を周囲の状況やその人との関連でみると案外暖かいものだったりすることがあるのではないだろうか。今日の言葉をとりまく状態は、差別語という異物をそれこそ疫病のように忌み嫌うあまり、確かに言葉の免疫力がうしなわれてしまったといえるだろう。」
 「社会から異物を排除し続けると、社会の免疫力が低下する。」「日本人の免疫性が低下しているばかりでなく、日本社会の免疫性が低下しているとすれば日本人の未来は無いだろう。」

 「.....私は人類はあと100年、すくなくとも1000年以内には滅亡するだろうと考えている。.....われわれの行動の遺伝的基盤は数万年の間に作られたもので、一万年前の人類とほとんど変わっていない。したがって、文明のここ数千年間の激しい変化には、にわかに対処できるはずがないのである。」
 
 藤田紘一郎氏はこう結論した。「現代の文明が過剰な清潔志向を生み、それが現代人の身体的および精神的な衰弱を導いている。その一例として、過剰な清潔志向が、雑菌や寄生虫がいるからこそ成立していた人体の免疫システムを崩している。」

「いま、子どもの口の中で何が起きているか」 桑原 未代子:
「ヒトにとって教育とは何かー自己家畜化現象からの視点」 井口 潔:

「ペットと現代文明」 吉田 真澄:「ヒトのペット化とペットのヒト化」ペットが人間社会で共生するには、人間社会のルールを学び逸脱しないようにしなければならない。欧米の公園や街路、公共施設ではペットたちが飼い主の命令に従って行動する。それが出来なければ、ルールを躾けられなかった飼い主が社会のなかで糾弾される。人格さえ疑われるのだ。家畜に対する文化の差といえよう。日本ではペットとの一体化から来る他人との摩擦が増加している。人間社会の常識的ルールを理解できない飼い主がペットを躾けることなど出来ないのだ。東洋(日本)での家畜にたいする姿勢が欧米と異なるのは、文化の成り立ちが異なることが要因である。農耕と牧畜との差といえば理解し易いかもしれない。他者に厳しくすることが不得手なのだ。他者(人・ペット)を甘やかすことが優しいことではない。

「ヒトの未来」 武部 啓:「ヒトの未来はクローン人間であってはいけない。」遺伝子の多様性こそが種の継続を可能にする。クローニングでうまれた命の細胞の年齢は、提供した個体の年齢なのだ。ヒトのクローンを作るということは、どんなに解釈しても利害が、それも個人的な利害が絡んでくる。優秀な頭脳・芸術家・運動選手などが自分とおなじ能力をもつ個体が欲しくなる、そんな固体が家系にいればと思う。また、余命いくばくも無い一歳の子どもとそれ以上妊娠できないと診断された母親がいるとしよう。その母親がクローンのわが子を望んで何が悪いという理論がある。この場合の細胞は一歳だ。だが、もし、この子に先天性の障害があっても母親はクローニングを望むだろうか。そこに選別という意識が見えてくる。もし、ヒトのクローニングが許されるならば、子どもの誕生と同時にスペアとしてのヒトが生まれるだろう。それだけの財力があればの話。SF小説の世界ではもうこの珍しい話題ではなくなっているのだ。

 「生物の最大の特徴は多様性にあると、私は確信している。多様性とは、一人一人の顔つきも、性格も、考え方もことなることであり、人間社会はそのような人間の集団なのである。クローン人間の作成は、そのような多様性に支えられた人間社会を否定し、ある特定の意図のもとに人間と人間社会を改造しようとする方向性を秘めている。西洋諸国の、クローン技術への反発は、本能的にそれを感じ、多様性を尊重する西洋文化への挑戦と受け止めた結果であった、と私は確信している。日本は本質的に人間の多様性には否定的な文化なのではないだろうか。.....人間の多様性の尊重は、障害者に対する態度にもしばしば反映する思想である。障害者を同情し、あわれむべき対象と見るのか、障害者も人間の一つの姿にすぎないと、同じ視点から見るのかという根本的な論議が日本では不足している。、と私は感じている。特に、先天的な障害に対して、そのような人は生まれてくるべきではなかった、あるいはこれから生まれないようにすべきである、という排除の概念が、いわゆる先進国の中でも日本は特につようのではないか。」
武部氏の結論:「ヒトは人類の英知によって生物種として存在し続けるだろう、との確信である。」

「おわりに」 尾本 恵市

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