2007-04-02

「闇市の帝王:王長徳と封印された“戦後”」     七尾 和晃 2007.1. 草思社 1,500円

 万年 東一氏が虚であるならば、この王 長徳氏は実である。  1946年終戦の年に,万年東一は39歳、王長徳氏は21歳。

 多くは語りたがらない王氏の聞き書きを下敷きに、かつて新橋東口や銀座で店を出していた人物を探し当てて、日本の混乱期の話を再構築していく。戦後60年という年月はその記憶の持ち主の年齢も80歳近いし、健在である人も喜んで話したがるような経験ではない。戦後を記録する時期はもう過ぎてしまったのかもしれない。七尾氏は、擁護することも無く、批判することも無く、淡々と歴史を語る。主人公以外の登場人物は宮崎学氏の著作と同じである。主人公である「万年東一」と「王長徳」、虚と実との息遣いが呼応している、不思議な二冊であった。

 あまりにも当然のことであるから、何処にも書いていない事実。漠然と解っているつもりになっていた事実が述べられている。
「其の頃の日本人が、戦勝国民となった中国人や解放国民の朝鮮人には強くモノが言い難かったのは事実だ。そして、GHQが終戦直後に出した“戦勝国民に対して日本は裁判権をもたない”という指令こそが、そうした情勢をさらに決定的なものにした。新橋や銀座で大いに商売を広げていた中国人や朝鮮人たちの土地は、やがて日本が国力を回復していくにしたがって、“東京租界”と呼ばれ、あたかも無法地帯であるかのように人々のおののきをまとっていく。」

 ヤミ市の時代を生きた当事者達の証言を記録した“東京闇市興亡史”(猪野建治編 ふたばらいふ新書、1999年発行)には、次のような記述がある。王たち中国人や、あるいは朝鮮人が繁華街で新勢力として台頭していく背景をなぞっている。
 
 <終戦の時点で、日本には236万5263人の朝鮮人と5万人を超える中国人(台湾省民を含む)がいた。彼らの大部分は、強制的に日本に連行され、炭鉱や鉱山、軍需工場、軍事施設建設の土木工事等の労働力として重陽された者たちだった。そうでない者も、朝鮮徴兵令、台湾徴兵令によって“日本兵”として兵役にかりたてられていた。日本の敗北で、彼らは強制労働現場からは解放されたが、何らの保証も受けず、無一物に近い状態で街頭に放り出された。
 街頭にあふれ出た二百数十万人の“解放国民”のうち、140万人の朝鮮人と若干の中国人は帰国したが、、朝鮮の38度線を境界とした米ソ両軍の分断進駐、持ち帰り資産の制限など、帰国しても安定した生活ができる保証がなかったため、“一時帰国”のかたちをとる者が多かった。かくて日本には、約90万人の朝鮮人と約四万人の中国人が残留することになった。しかし就職先はなく、彼らは民族的団結心を結集しつつ、都有地、公有地を占拠し、“解放区”を形成していった。彼らは、どぶろく、カストリ、ばくだんなどの密造酒の生産や、進駐軍兵士にわたりをつけ、PXから食料、洋酒、缶詰を買い取って数十倍のプレミアをつけ、闇ルートに流すことで事業基盤を固めていった。直営の露店やマーケットも建設した。
 昭和20年11月三日、占領軍総司令部は第三国人を“出来る限り解放国民として処遇する”と声明した。“解放国民”とは、“治外法権”と同義語であり、日本政府の法規制を受けないということである。これは第三国人の行動上の支えとなった。>

「1946年二月19日付けと26日付けの連合軍の指令によって、連合国軍である中国人に対しても、日本は刑事、民事両面での裁判権の執行が停止されたのは前述の通りである。これによって、王たち中国人には日本の警察権力が及ばない状況が生まれた。この日本が失った裁判権が、1950年に回復するのである。連合軍は、1950年10月18日、次のような覚書を日本政府と交わす。
“日本裁判所は今後日本にいる連合国の国民に対して占領軍要員として指定せられた以下の者を除き、その他のすべての者に対し刑事裁判権を行使するものとする。”
 これによって中国人に対しても、日本は裁判権を回復することになる。連合国側のこの方針転換に対し、日本の法務省は二ヵ月後の12月5日、念を入れて連合軍に確認している。法務省渉外課は、連合国総司令部法務局法律課のバッシン課長に電話でこう問い合わせた。
“新しい民事及び刑事の裁判権に関する覚書所定の手続規定は、本年11月一日以降においては、同日前に発生した犯罪にも適用される、と解してよいか” それに対し、バッシンはこう答える。
“しかり。そのように解してよろしい”
 今日では、刑事罰は、その法律ができる前の事犯に対しては“不遡及”が原則とされている。しかし、日本政府はこのとき、戦後がらそれまでまったく取り締まることができなかった過去の犯罪さえも、これによって裁かれるかどうか確認したのである。」

 マッカーサーが厚木に降り立ったそのかたわらで、多くの中国軍人もまた、続々と日本に到着していた。其のなかに、王長徳がいた。1946年6月、王は日本に到着する。(このとき26歳)GHQによる接収業務のかたわら、王は、新橋、渋谷といった主要な商業地を“獲得”していく。終戦直後の東京には、膨大な地主不在の土地が残されていた。ときに連合国進駐軍の一員として、またあるときは日本人から接収した大量の財をちらつかせる富豪さながらに、王はまさに焦土と化した戦後日本で縦横無尽に奔走した。」

 新橋に大量の土地を取得して国際マーケット(ヤミ市)を成功させ、上海にあったような豪華なキャバレーも経営した。彼の周りには政治家や実業家、ありとあらゆるヤミ・闇の社会の住人が取り巻いていたが、それも「1950年12月五日の占領軍による“新解釈”の発令によって、ついにその東京租界を支えてきた制度的支柱が崩れはじめたのである。隙あらばと待ち構えていた警察が、王の城に雪崩を打って突入する瞬間が着実に近づいてきた。」

 あとがきの書かれた2006年12月、王 長徳氏は健在である。

 七尾氏のこの著書は新聞の書評欄でみて、宮崎学氏の「万年東一」は図書館でふと目にした、返却された図書の中に「宮崎学」の背表紙が見えた所為。内容も知らず、ただ作者の名だけで借り出しただけだが、同じ時代背景を描いたものだとは思わなかった。同じ時期に引き合わせてくれた配剤に感謝する。
 尚、私的なことだが、当時50歳になった頃の私の父は、この時まさにこの地にいた。朝鮮総督府地質研究所・所長であった父は戦後まもなくGHQに呼び出されて、総督府時代に得た知識の全てを報告させられていた。郡山市に引き揚げていた一家に進駐軍からの電話連絡を受けた魚屋の亀さんが青い顔ですっ飛んできた時は、一瞬戦犯としての呼び出しかと思ったそうだ。それから五年ほど、父の単身赴任が続いた。月に一度、満員列車で帰ってきた。西洋のお菓子(懐かしい味だった!)やら、東京のヤミ市で買った食べ物がお土産であった。

「 人間とヘビ : かくも深き不思議な関係 」    R.& D.モリス 小原 秀雄監修 藤野 邦夫訳  2006.8. 平凡社 1,300円








日本語の勉強です。

・「この角は両目のうえにある、ちいさな突起にほかならない」
 →「この角は、両目のうえにあるちいさな突起にほかならない」または
 →「両目のうえにあるこの角は、ちいさな突起にほかならない」の方が日本語として読みやすいのでは。

・「たとえばジョン・ブラウンは“1799年にセントヘレナの要塞砲兵隊の六人の脱走兵が経験した異常な冒険と苦しみの感動的な物語”というタイトルのロマンティックな読み物で、八メートル以上もあるボアコンストリクターとの身の毛もよだつ出会いを語っている。このヘビはかれらが一本の木に寄り集まっているときに、夫の手からヒロインを強奪したのだった」
 →「...六人の脱走兵たちが一本の木に寄り集まっているときに、このヘビが夫の手からヒロインを強奪したのだった。」この文章の前とは全く繋がりのない話なので、いきなりこのヘビと書かれると混乱の極みへと転落するのだ。

・「ヘビはアルコールによる元気の回復方法が使えないときには、ウシ、ヤギ、ヒツジの乳房を吸って手にしたミルクで満ち足りていた。」
 →手にした、ではなくて、手に入れたでは?もっともヘビには手はないが.....

・「最後の数世紀間の目撃情報は、膨大な数で急速に消滅する、この動物の生命の最後のきらめきだと主張されたのである。」意味が取れません。

・「ヘビの自然な習性が知られるようになるにつれ、事実はフィクションよりエキサイティングであることが明らかになったので、かれらはたぶん悲観的すぎるのであろう。」悲観的すぎるかれらとは?

・「慣れない人が見れば、攻撃的なヘビと、ひどく落ちつかないヘビを見わけにくい。」
 →「...ひどく落ちつかないヘビとは見分けにくい。」


・「毒ヘビもときどき、手で扱わなければならないことがある。」
 →「毒ヘビも、ときどき手で扱わなければならないことがある。」


・「現在の中国のヘビ食は、広く広東地区に制限されている。」
 →「現在の中国のヘビ食は、広東地区に限定されている。」

 人間の頭の中で“”にであうとそこで思考が途切れてしまうという習性がある。句読点という印によって自動的にそうなってしまうのだ。だから、上記のような文章でちょくちょく足が止まると草臥れてしまうのだ。適当に、三頁めくっただけでこのような日本語に出会う。藤野氏の翻訳した文章を読んだ上で、監修した小原氏がいる。そして、この文章で良しとした編集者がいる。この編集者の責任は大きい。格調高い平凡社ライブラリーとしては異色の一冊といえよう。
291頁の本文に続いての監修者の解説は学者らしく真面目で分かり易い文章だし、訳者のあとがきはすこしくだけてはいるがまともな日本語である。であるから、それゆえにそこまで辿ってきた日本語の文章は何だったのか、不思議としか言えない。もしかして、丸投げ?

 著書についていえば、「岩場にのこされたヘビ・神々のなかのヘビ・エデンの園のヘビ.......」というように古今東西のヘビにかかわる事象を網羅した“ヘビオタク的”な著作である。フレーザーのような安楽椅子の生物(博物)学者を思わせる。

例えば、階段がある。階段というものは等間隔の段があり、なおかつ、その一段一段は水平を保っていることだ。階段を登っていくとする、見た目には等間隔のようでもほんの少しの差があると、人間の感覚は察知してしまう。水平面がほんの少しどちらかに傾いていても察知する。だが其の差は“ほんの少し”であり、人が登り降りするのにはなんら不都合はない。足の裏が不快なだけなのである。気にならない人もいる。この翻訳文はこの階段のようなものなのだ。日本語として読めないわけではない。気にするほうが可笑しい!

「万年 東一 上・下」 宮崎 学 2005.6.      角川書店 各1,700円

「万年 東一」という存在は虚である。その虚の存在を縦糸に実の歴史が交差している。

 昭和13年に31歳の彼が戦前のきな臭い新宿あたりの愚連隊として頭角を挙げるのは、左翼の社会大衆党の党首安部磯雄を襲撃したからである。このことが最後まで万年の名をヤクザでもテキヤでもない愚連隊という存在を裏の社会に知らしめる。フイと上海に渡り「愚連隊」として泳ぎきる。帰国した彼を赤紙が待っていて、中国戦線へ逆戻りとなる。敗戦。焼け野原の東京・新宿。闇市をめぐるテキヤ・博徒の縄張り争い。万年に憧れて愚連隊になったという設定で登場する特攻隊上がりの安藤昇。事件も人も実際の名前で登場している。そんな意味で虚の縦糸に実の横糸と表現した。作者はフィクションだと断ってはいるが、巧妙にしくまれたノンフィクションといってもいい。こんな書き方のノンフィクションがあってもいいだろう。

 60年安保の際にデモ隊の指揮をとり方で野次馬として見物していた万年の目を見張らせた宮内我久と武術家にして学者の藤沢梵天(虚)と三人で、アメリカが介入したばかりのベトナムへと向かう。サイゴンに着いてすぐ、食堂に入ってまもなく銃撃戦に遭遇。そして、最後の一行はこうだ。

 「三人は、目を見合わせて、それから自分が目指した方向に、一斉に駆け出していった。」

 「宮内我久」という男:ひょんなことから万年に引き合わされての万年との会話。
「あれは、喧嘩の指示としちゃ、適切だったよ。学生なんかが、なかなか気づくことじゃねぇ。おめぇ、ガキの頃から、相当、喧嘩してきたな?」
「いまでもまだ、ガキのまんまですけど、喧嘩は随分やりました。」
「へぇそうかい。愚連隊か?」
「いえ、うちの実家、ヤクザなんです。親父が組長してまして、子供の時分から、しょっちゅうよその組と 出入りばっかりたってましたから。普通の学生よりは、喧嘩慣れはしてるとおもいます。」

 宮内学久は自分のことをガクと呼んでくれという。ミヤウチガク。宮崎学。宮内の語る経歴は実際の宮崎学の経歴なのだ。ここには虚のような顔をした実が登場している。以前に田中清玄という人物の聞き書き本を取り上げたことがある。「面白くない筈がない...」筈のつまらない本だった。作者の筆力の差か。膨大な資料を横に、自身の経験や哲学を削げるだけ削いだ結果の著書である。戦前と戦後の社会史として格好の教科書のように感じられた。

宮崎学の本:「突破者ー戦後史の陰を駆け抜けた50年」
      「幣ー中国マフィアとして生きた男」
      「アジア無頼ー幣という生き方」     その他未読書多々あり。

2007-03-07

「“闇の奥”の奥:コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷」 藤永 茂 2006.12.三交社 2,000円

 これは恐ろしい本だ。コンラッドの「闇の奥」か、それを翻案映画化された「地獄の黙示録」か、ヴェトナムか。19世紀のヨーロッパの小さな王国から、親戚縁者の繁栄を羨み権謀術策の挙句にたどり着いた“闇の奥”の解剖の著書。真に恐ろしい本である。

 ベルギー国王・レオポルト二世の私有地、アフリカ・コンゴ川流域には、「2000万から3000万人のコンゴ人が住んでいたと推定されている。以前はいくつかの強力な王国が並列していたが、300余年にわたる奴隷貿易の結果そのほとんどすべては疲弊弱体化し多数の小部族に分裂していた。」コンラッドの見たアフリカ黒人社会は350年にわたって白人たちの濫用酷使に荒廃した社会だった。
 欧米で生産されたガラクタや酒などで土地の王や首領を手なずけ、彼らが捕虜としていた他部族の人間を奴隷として安く買った。土地の王たちは、捕虜を得る為により奥地へと人間狩りをしたが、海岸線まで到達出来た人数は少なかったし、また、大洋を渡って新大陸の各地へ降り立った人数はさらに少ない。新大陸では二世代・三世代と年を重ねるにつれ、奴隷としての需要も頭打ちになり、奴隷貿易の旨みも薄くなってきたころ、アフリカの別の意味にいち早く気がついたのが、レオポルト二世だった。
  大西洋をまたぐ奴隷貿易が衰えていったのは、需要が落ち、収益性が失われていったと見極めた各国(イギリス1807・アメリカ1808・オランダ1814・フランス1815)は相次いで奴隷貿易禁止令出していた。諸国の興味は輸入奴隷を使っての農業生産から、アフリカ大陸に眠っている天然資源の開発獲得に向けられ、アフリカ分割時代の幕が開いた。リビングストン博士の救出で名高いスタンリーのアフリカ探検報告に目をつけたレオポルト二世が登場する。ヨーロッパ列強が牽制しあっている間に彼は西アフリカを手に入れる。河口域と奥地を結ぶ鉄道建設も多くの現地人や中国人の犠牲を出しつつ完成した。死亡率は九割といわれている。1898年に開通。レオポルト二世に莫大な借金が残ったが、世界の状況が大きく変わり、彼のアフリカが富を生み始めた。1887年空気入りのゴムタイヤの発明から1890年には原料ゴムの世界的品不足が慢性化し、価格が上昇していったのだ。
 「“コンゴ自由国”の半分は熱帯雨林で蔓性の巨大なゴムの木が密林の大木の枝にまつわりついて繁茂していた。1888年にコンゴが輸出した原料ゴムの量は80トンに過ぎなかったものが、1901年には6000トンにまで増大していた。」レオポルト二世の収益はその5割だ。このころ、2000万人の現地人が多数の集落に分散して住んでいただろうといわれている。
 コンゴ自由国での象牙やゴム原料の採取と運搬には苛酷な強制奴隷労働によって行われた。奴隷の現地調達だ。逃亡する奴隷を見張るために公安軍(私設軍隊)が発足したが、これも人身売買で得た徴収された人々であった。黒人隊員に支給された銃弾は厳しく管理された。
 黒人隊員の絶対服従は保証されておらず、待遇は劣悪。白人一人に対して黒人は十数人で絶えず内部叛乱の兆しがあった。「白人支配者側は、小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、銃弾が無駄なく人間射殺のために用いられた証拠として、消費された弾の数に見合う死人の右の手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発に対して手首一つというわけである。このおぞましくも卓抜なアイデァからどんな結果がもたらされたか?銃を使わずに人を殺し、その手首を切り取って提出し、銃弾をせしめる者が現れた。わざわざ殺さなくとも、過労から、飢餓から、病気から、人々は死んでいった。生きたまま右手首を切り落とされる者も多数に上った。銃弾と引き換えるための手首には不足はなかったのだ。」
 これが、レオポルト二世のコンゴ自由国の「切り落とされた腕先」(severed hands)の真実だ。多数の証言やこのころ発明されでまわったコダックカメラでの写真も残っている。
 ここで、「地獄の黙示録」のカーツ大佐が登場する。大佐の長い告白に「...せっかくのポリオの予防接種を(アメリカ兵から)受けた子ども達の腕をすべて切り落としてまで、敵国アメリカを絶対排除しようとするベトコンのすさまじい闘争精神から、カーツは電撃の啓示をうけたのである。」
 著者はいう、「野生ゴムの樹液採取の奴隷労働の恐怖のシンボルであった“切り落とされた腕先”の蛮行の記憶が、ベトコンが自国の子ども達に対して行った異常な蛮行として歪曲移植されている。これが、驚くべき無神経さと極端な偏見(extreme prejudices!)をもって実行された人種差別行為でなくて何であろう。」
 「このエピソードを歴史的視点から取り上げた評論が見当たらないことは私の理解をこえる。」
 「ブリタニカ百科事典1994年版には、“2000万人か3000万人から800万人に減少してしまったと言われている”とある。正確な数字の決定は望めまい。しかし、1885年から約20年間の間にコンゴが数百万人の規模の人口減を経験したのは確かであると考えられる。アメリカの奴隷“解放”宣言から半世紀後、19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、人類史上最大級の大量虐殺が生起したという事実には全く否定の余地はない。
 しかし、この驚くべき大量虐殺をアフリカ人以外の人間の殆どが知らないという事実こそ、私には、もっとも異様なことに思われる。この惨劇からわずか40年後に生起したユダヤ人大虐殺ならば世界の誰もが知っている。ユダヤ人の受難に比べてコンゴ人の受難がほぼ完全に忘却の淵に沈んでしまった理由を、今こそ私たちは問わなければならない。」
 第二次世界大戦後、植民地は続々と独立し、植民地主義も終焉した、といわれている。そうではない。形を変えただけで厳然として健在だ。現在、内紛の報道の耐えないアフリカ諸国の悲惨さは目を覆う状態だ。民族紛争の形をとってはいるが、その背後に独立前からの採掘利権を手放さない外国資本が、合法的に活動している。コンゴはアフリカ屈指の天然鉱物資源の宝庫なのだ。銅・鉄・金・亜鉛・ダイアモンド・コルタン・石油。それから含有量の高いコバルト・ウラン、露天掘りのこれらの鉱脈には近隣の住民の強制移住や強制労働、さらに素手素足で盗掘する少年傭兵が、レオポルト時代さながらに行われているという。
 「2003年10月、国連はコンゴの天然資源の非合法収奪に狂奔する多国籍企業に関する詳細な調査報告書を発表し、企業名をあげて具体的に批判した。」
 「アフリカの重荷」とは、大英帝国の桂冠詩人で1907年ノーベル文学賞を受賞したキプリングの詩、「日本人には耳慣れないことがであろうが、米英系白人ならば、大抵はその意味を心理的に理解している“白人の重荷 The white man's burdenn”からきている。この詩は、海外植民地獲得に乗り出したばかりの米国に対して、その道の大先輩である大英帝国を代表する詩人としての高みから、植民地経営の心構えについて教訓忠告を与え、激励しているのである。統治の対象は“なかば悪魔、なかば子ども”のような野蛮の民でらり、彼らを文明の光に導くためには、無私の奉仕と無償の善行が要求されると説く。この「白人の重荷」の概念が欧米の根底にある概念なのである。
何を持って「未開」というのか。痩せた牛や山羊を放牧に追っていく半裸の男達、彼らの社会を「未開」というのか。欧米てきな物質文明は持たない彼らに彼らの神話があり、歴史がある。痩せた牛のぶち模様の呼び名を百以上もっている社会、何世代も遡って語れる社会。これでも「未開」というのか。「未開」と「文明」についてはもう少し考えて見なければいけない。
「地獄の黙示録」私見: 映画は確かに設定を「闇の奥」に借りているように見える。コンゴ川はメコンに。先住民から神のように崇められている男、その男を連れ戻しに行く男/抹殺しに出かける男。ベトナム戦争を描いた映画として、乾いたタッチの映像が返って剥き出しの、なくなったはずの植民地主義というか、人種偏見を如実に現れている。コッポラ監督による再三の改訂版は、この著者も述べているように、彼の「闇の奥」の解釈の不安定さを示している。最初の改訂版が出たとき、私は削るのだとおもった。饒舌なシーンをカットすればもっと説得力が出るはずだと。次の改訂版は一時間近く新たなフィルムを入れた。監督の迷走としか考えられない。
 「闇の奥」から少しだけ離れてみよう。カーツ大佐は、自分を殺しに来たであろう若い兵士に向かってこんな風に命令する。殺した後はお前がこの王国を継ぐ、あいつらを全部殺せ、と。若い兵士は斧を振るって大佐を殺し、平伏す先住民や脱走兵の前に出る。次のシーンでは、川を下る男のモーターボートと累々と重なる死体と火だ。これは、「闇の奥」ではない。カーツ大佐が若い兵士に謁見する際に、読みかけの本を置く。
 本はフレーザーの「金枝篇」the Golden Bough by J.G.Frazer だ。その第一章「森の王」で、次のように書いてある。“この聖なる森の中にはある一本の樹が茂っており、そのまわりをもの凄い人影が昼間はもとより、多分は夜もおそくまで徘徊するのが見受けられた。手には抜き身の剣をたずさえ、いつなんどき敵襲を受けるか知れないという様子で、油断なくあたりをにらんでいるのであった。彼は祭司であった。同時に殺人者でもあった。いま彼が警戒をおこたらない人物は、遅かれ早かれ彼を殺して、その代わりに祭司となるはずであった。これこそこの聖所の掟だったのだ。”
 さりげなくだがあからさまに提示された本の表紙。これが本当の種明かしかもしれない。「闇の奥」からの翻案脚色は誰にでもすぐ検討はつくが、実態は二つの合体なのだ。この表面的な設定に監督の迷走の原因があると考える。皆殺しを命ずる台詞が、先住民と出会ったときに発せられるおさだまりの言葉なのである。
 「金枝篇」は、岩波文庫 永橋 卓介氏の訳からの引用
 

2007-03-06

「アメリカの眩暈」 ベルナール=アンリ・レヴィ 2006.12. 早川書房 3,000円


副題:フランス人哲学者が歩いた合衆国の光と陰 

 アレクシス・ド・トクヴィル (1805-1859)。評価は分かれるらしいが、“優れた理論家を兼ねた大物の作家”で、彼がフランス政府の依頼によりアメリカの監獄制度の調査を名目に173年前 新大陸に残した足跡を辿るアメリカ新紀行である。もちろん当時のアメリカはミシシッピ川までの広がりしかなかったし、時代も変わっているがトクヴィルの旅行記にとらわれずに自由な発想で“可能な場合には、トクヴィルの本に出てくる行程や人物像のいくつかを取り上げた”とある。アメリカの雑誌「アトランティック・マンスリー」の企画の所為で投稿の加減か文章は短く纏められている。ふと思ったのは、これはマーク・トウェインの「赤毛布旅行記」の現代版ではないかと。だが、それもエピローグに出会うまでの話。

 しばらく読んでいて気がついた。行程を示す「日付」は何処にも無い。某月某日、どこそこにいた/どこそこに向かった/某氏に会ったというのが無い。9.11の後で エピローグを書く頃にカトリーヌに出会ったのは確かで、多分2004年春から 約一年間の車での移動ルポだ。まだある、「注」と称するものが無い、「目次」も無い。目安のために頁を捲りながら目次を作ってみた。
出発!
アメリカへの旅
 第一章 最初の錯覚・ニューポートからデモインへ
 第二章 動く西部・カロナからモンタナ州リビングストンへ
 第三章 太平洋の壁・シアトルからサンディエゴまで
 第四章 砂漠の眩暈・ラスベガスからテンピーへ
 第五章 南部とともに去りぬ・テキサス州オースティンから
 第六章 ハリケーンの眼・マイアミからピッツバーグへ
 第七章 幸せ者と呪われた者・ワシントンからケープコッドへ戻る
エピローグ 

 各章には小見出しとも言うべき表題がつけられているが、お互いに何の関連性もない。たとえば、
第一章 最初の錯覚・ニューポートからデモインへ:国民と国旗/きみの監獄がどんなものか教えて/ 一般には宗教、個別には野球について/意思と表現としてのにせもの/大都市の息の根を止める/小心者の復讐/アメリカのアラブ人のユダヤモデル/ 左車線/シカゴ変貌/ウィロークリークの神/ノックスビル流、悲劇なるものの意味

 一つの文章は短く、奔流のような単語。長く分かり難い文章に接してきた後では目に心地よい。それはヘミングウェイ的なのだが、原文がフランス語なので当りは軟らかいと思われる。筆者はアメリカの印象をひたすら書きとめるだけで、論評はしないし、結論も出さない。第七章までの彼はひたすらメモを取る。200年以上の歴史を持つのが当たり前の国から来た人間として驚き、半ば呆れ、揶揄する。だが、行間に溢れるものがやがて見えてくる。あらゆる場面に顔をだしている「作り物の歴史」のこと。作り物であることを充分に承知の上での「作り物の歴史」、まがい物の展示場。なんでもかんでもMoveOn精神。単なる取材メモなのだ。一つの章は単に地域でのまとまりを示すに過ぎない。だから、「注」は必要ないのかも知れない。

 訳者 宇京頼三氏によるあとがきによれば、基本的テーマは「21世紀はじめのアメリカの民主主義は一体どうなっているのか?」である。いはば、現代アメリカの精神・風俗・文化・思想のルポルタージュである。ただし、フランス式の皮肉なエスプリと軽妙洒脱な批判精神をたっぷり.....
 エピローグも含めて一冊の書物に纏められ出版された時に賛否両論の大嵐が巻き起こったという。

 そして、エピローグ
 1.アメリカ人とは何か?「...自らを誇り高く、自信に満ちた支配的国民であると頑固にも信じ込んでいるが、今日では、現状にこれほど不安を抱き、未来に確信がもてず、祖国の基礎を築いた価値観、すなはち神話の価値に自信をもてない国民はいない。これは混乱であり、不安である。指標となるものや確信の揺らぎ、今一度いえば“眩暈”であり、これは被観察者を捉えるからこそ観察者に伝わる眩暈である。...」

 第一の表象として彼は何でも記念化するメカニズムの狂乱を挙げている。進化論の仮説を否定するための化石の常設展示館すら存在する奇妙さ。第二の表象としては肥満。肉体の肥満ではなく社会的肥満。「この国を構成するあらゆる物体に蔓延しているのではないかと思う普遍的肥満。公共財政赤字の肥満。要するに、社会全体が、上から下まで、端から端まで、この暗い狂乱に晒されて個人や組織を膨張・爆発・氾濫・解体させているようだ。」第三は、アメリカの社会的・政治的空間の細分化、その段々と大きくなる差違化。“他から一”ではなく、“他”と“一”。少数派の台頭であり、“差違への権利”は行き着くところはゲットーだ。人工都市、金持ちと老人用特区、あの私有の要塞空間、門番・塀付きの閉鎖集落。ありとあらゆる者が自らを囲い込むこと。貧困層を囲い込み切れなくなったときに選択した究極の生活様式。貧困層の隠蔽。合衆国に住むアメリカ人のアメリカ人であることへの熱狂的レース。

 2.アメリカのイデオロギーとテロリズム問題(現状) 
 3.アメリカは狂っているか?
 
 4.追記 ここでカトリーヌの登場。「“母なる自然”自信によって跪かされた調大国!」「スリランカからの援助提案を受ける第三世界の取るに足りない国同然に貶められたー難という喜び、なんと言う僥倖だ!アメリカの友人にはなんとも哀れなことだ!だが結局は、やはりきわめて重大な出来事が起こったことは否定できない。」行政府の愚かであった行動を列挙したあとで、「私は出来事の純粋に政治的な、ましてや政治屋的な関わり合いを考えているのではない。」「違うのだ。それよりも、出来事の超政治的な教訓のことを考えたい。」
「そして今、カトリーナに荒廃させられた“ビッグイージー” ー アメリカ社会の大分析装置、その隠れた面の啓示者。たとえば、貧困の問題。...この光がけっして消えない、世界で唯一の国と言われる、何事も積極的に捉える国では、この影の部分さえも驚くべき否定の対象になるのも見た。途方も無い数の浮浪者や社会的排除の犠牲者 ー 公式には3,700万人ーが存在という明白な事実があるみのかかわらず、アメリカ国民が自らを“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ”を運命づけられた巨大な中流階級と思い続ける姿を見たし、またそういう話を聞いた。だが実際は、こうした浮浪者は、退去命令に従うとじゃ逃げる手立てさえないので、町の廃墟に閉じ込められているのだ。彼ら、あの貧困者たちは、...あの例の“gated community”の向こう側に追いやったと思っていたアメリカの前面に飛び出るのだ。彼らは町の見捨てられた中心部に安全に囲い込まれていると思われていた ー それがCNNにも登場するのだ。...彼らは統計上のことと思われていた ー だがこの統計に生命が宿ったのだ。彼らはなんども繰り返されて抽象的にになったその数字の中に石化されていると思われていた ー 数字の反乱である。...この数字が生気を取り戻し、肉体と顔を供えてきたのだ。カトリーナまたは見えないものの逆説的な出現。カトリーナまたは ー メディアのお蔭で ー 洪水以前はひとの心の底に沈んでいた、貧困というあのアトランティス大陸の急上昇。」

 人種問題。この黒人でもある、同じ貧困者の問題。民主主義国アメリカは、この放置状態が皮膚の色と無関係ではないことを、あらためて恥をもって見出すことになった。...1927年の大洪水よりはましだった。この時は、白人地区への水害圧力を弱めるために、わざと徹底的に黒人地区を氾濫させたのだから。...それでも同じ事なのだ。この怯えた貧困者の顔は黒い顔だった。この死んだ犬のように水に浮かんでいる死体は黒人の死体だった。...9.11、死は無差別に襲った。この死神は個人、ましてや人種の区別などしなかった。ここでは、死は名簿を作っていた。死神は相手を選んでいたのである。死は隔離という文字とともに消えたと思われていたその精神を取り戻した。それゆえ、八月二十八日のハリケーンは反9.11であること。」

 カトリーナのもう一つの教訓。「暴力。この暴力も現代アメリカに固有のものではない。...実際、ここでもショックは残酷である。ここでもまた、カトリーヌはニスを剥ぎ、目を開かせるという二重の効果をもたらすのだろう。狂った動物を捨てるように町を捨てる金持ちと白人の逃げるが勝ちの暴力。町にのこったものを破壊する浮浪者、貧困者、黒人の暴力 ー その怒りは、私がアフリカやアジアの忘れられた戦争の地の幽霊都市で見たのと同じで、奇妙に絶望的だった。救助のために行くが、最初の反応がしばしば銃を構えて、発砲することさえある警官の暴力 ー 同胞市民を守るために来ているのに、市民に対して、ジープに乗り、銃を手にして、ごく自然に戦争スタイルになってしまうあの州兵の暴力。」「9.11が外部からの攻撃に対するこの国の脆さをしめしたのと同様、反9.11も内部から来たあの別の脆さ、アメリカ社会がどうしても認めたくない脆さを露わにしたのだ。それは今度は、暴力の仮面を被っているだけにいっそう危険な脆さである。」
「そこで、思いやりとか同情の限界がある。」「...世界のどの国でも類例を見ない、こうした寛大な精神の高揚、多彩な救援活動は、この国の制度が生み出したもっとも気高くかつ最良のものの例証である。しかしながら、それで十分なのか?これほどの規模の悲劇に対して、人々の善意に頼るだけでいいのか?...とくに、慈善行為は事後には驚くべき効果を生むが、事前にはひどく無力ではないのか?もっとも人気のある元大統領が、大災害が起こるとすぐ、被害者のために寄付金を募るのは誰よりも立派なことだとしても、堤防やあ水門の監視、避難方法や排水設備を確保して住民の安全をはかるのは現職大統領の役目ではないのか?...これが、カトリーナが提起した別な ー きわめて単純な ー 問題である。」

 アメリカの場合の自由・平等というのは、同質の枠組みの中でのことではないのかと作者は問う。進化論と肩をならべて新創造論が平等に存在する。思想の自由は憲法にある。お見事!

 
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また、別の顔を見せている、善のアメリカがここにある。
「チャーリーとの旅・アメリカを求めて」 J.スタインベック 弘文堂 昭和39年初版
「語るに足る、ささやかな人生:アメリカの小さな町で」鶴見良次 NHK出版'05年?

2007-02-08

「移民社会フランスの危機」  宮島 喬 2006.11. 岩波書店 2,800円

報道された事件
 2005年10月末、パリ郊外の町々で燃える車の映像。警官に追われたと思った移民出身の少年が変電所施設に逃げ込み、感電死した。溜まっていた不満が噴出し暴動の気配が地方都市にも波及した。
 1981年7月、リヨン市、レ・マンゲット(移民集中地区の一つ)での「暑い夏」の暴動はマルセイユやアヴィニョンに飛び火。住民の51%が20歳以下、失業率は20%という地区。
 ワールド・カップでのフランス・ナショナル・チームの大半が移民出身者であることへの不満。

移民とは:EU内部での移民国、フランス・オランダ・ドイツ・イギリスに共通した定義。EC内移民とEC外移民。EC外移民は「ヴィジブル・マイノリティ」と呼ばれる。

 フランスでは、それまでは殆どがEC内移民であったが、1960年代からあらたな「移民社会」が形成され始めた。マグレブ系:アルジェリア・モロッコ・チュニジア、ブラック・アフリカ系:セネガル・マリ・コートジボアール・カメルーン、トルコ系:クルド人、アジア系:インドシナ三国。中国など。旧植民地などが「独立後、経済的国づくりに苦闘し、人口増に悩むこれらの国々は、移民受け入れを旧宗主国に求め、フランスはそれらの国に持っていた権益(資源採掘・軍事基地など)・友好関係の維持のためにこれを受け入れ」ざるを得なかった。

 この「ヴィジブル・マイノリティ」について言えば、平均的失業率はEC内移民の二倍になり、「ヨーロッパの大都市圏には共通に、失業(雇用差別)、学業挫折、非行などによって、特徴づけられる街区が生まれ、その中に移民外国人の集住エリアが形成される。」この著書でわざわざ「フランスの...」と限った問題はどこにあるのか、まとめてみる。

フランスの単一文化主義:言うまでも無くフランスには「フランス人」と「外国人」しか住んでいない。フランスでは国勢調査などの公式統計に於いては、人々の民族的出自に関するデータ収集は禁止され、その他にも、国や地方公共団体は宗派別人口、言語別人口のデータなどの蒐集・保持はしないことになっている。たとえば、ある地区でのある特定の母語を使う人の割合とか、公務員の女性比率、性別人口などである。したがってマイノリティへの施策と、実行に際して必要なデータとの差が何時でも問題になるという。平等の名のもとでは差別は無いとするフランスでは次のような表現を使っているという。移民・外国人の多住地域→問題地区、言語等の具体的な文化的ハンディキャップ→社会的諸条件、不熟練または半熟練労働者・農民・その他の民衆層→恵まれない状況にある階級。このように、移民とか外国人という表現は使われることはない。

 成人男子が出身国から家族を呼び寄せる。宗主国であった国の言葉を話すことは出来るが読み・書きの教育は受けていないか、母語は話せるが移民国であるフランス語は無理という家族たちも多く、家庭内での活字文化の存在も、教育を受ける意味もよく理解していないという。フランス人となったからには当然というモノリンガルでの教育現場。単一主義の弊害。児童生徒は学業挫折を起こし、移民層の厚い地区での教育水準は低下する。
 低賃金労働者向きの集合住宅・団地が郊外に作られる、開かれたゲットーだ。働ける職場・学校・文化的施設もすくない。安定した職業につき、安定した賃金が得られた順に中心部に住まいを移す。その結果、この種の郊外団地にはヴィジブル・マイノリティ層のみが集まる。理由は簡単。彼らの失業率を考えて欲しい。EC内移民層の2~4倍の失業率なのだ。成績が幾らよくても、出身地がわかる名前や住所で就職できないという。
 移民たちの第二・第三世代が生まれている。フランス生まれのフランス人だ。それでもヴィジュアル・マイノリティとして、社会的差別を受けている現実。フランス人としての「身分証明書」を持つ意味について、単なる通行証であり、日常生活を円滑にするための円滑油と言い切る。彼・彼女らは簡単に職務質問の対象になり、身分証がなければ面倒なことになる。「定冠詞の付いたカミッキレを持つ、書類上のフランス人」だという。「自分をフランス人だと自己紹介しても無意味」と感じる若者が多数いるという現実。この図式はフランスだけではなく、どの国でも マイノリティと呼ばれる人々に共通するおなじみの現象である。

 「大雑把に約550万人ほどが移民とその子ども達であると推定したい。これを広義の“移民”と捕らえる視点に立つと、フランス人の人口の約10%を占めることになる。まさに移民人口の“フランス人化”が進んでいるのだ。ということは、法的には、その内部で権利上区別のない“スランス国民”でありながら、出自、身体的特徴、母語、宗教、文化慣習などで相対的な独自性をもち、外部からは差異的カテゴリー化(差別)を受け易い個人が相当な割合で含まれているということである。」(2004年半ばの統計)

 フランス国民は同一・同質の教育を無償で受けられることになっている。が、フランス人になる為の教育という制度は公にはないのだ。出身地の文化に拘って暮らすことは許容されない。高等統合審議会の言葉によれば「“多文化”や“相違”を警戒し、移民は選択した国民共同体の価値に無関心であってはならない」のだ。これが、他の移民国(イギリス・ドイツ・オランダ)と異なる点である。

 「アングロ=サクソン世界における移民の社会学では“アイデンティティ”については、たいてい、移民は出身社会との精神的・文化的繋がりを断っては生きていけないもので、ホスト社会の価値への同一化は複雑な斬新的なプロセスでしかないことが強調されている。それに較べて、フランスの議論は、アイデンティティについて語るのを暗に避けるか、出身社会との文化的繋がりを当然視するような見方にくみせず、むしろそれに対して、警戒的でさえある。」

 「イギリス社会では、たとえばパキスタン系ムスリムの児童生徒の多い学校では、親の求めに応じウルドゥー語の教育が行われる。また、放課後にイマーム(宗教指導者)が学校を訪れ、希望者にコーランを教えることもありえないことではない。しかし、スランスでは、たとえばマグレブ系の児童生徒の多い学校でも選択にせよアラビア語の授業が設けられる可能性は殆どない。...母語教育は学校のカリキュラムの埒外である。」第二世代まで含めると1,000万人弱の移民層をかかえたフランスでは、この単一主義を疑問視する声がきかれるようになっている。

 フランス大革命は「自由・平等・友愛」を掲げており、公的生活領域を除いて、全ての成員の信仰が保証されることだ。非宗教性の枠組みの中では、精神的志向に関するあらゆる政治的介入は違法であり、国家はいかなる拘束も課さず、信条の強制も無ければ、信条の禁止もない。人々(市民)は信仰の如何にかかわりなく市民として平等に扱われる。当時、信仰といえば、カトリック・プロテスタント・ユダヤ教であった。
政治・司法・教育の場で、かたくななまでに固持している非宗教性は、元はと言えば、大革命時にカトリックの修道院からの束縛を排除するためであった。ムスリム圏からの移民が増えている現在、この宗教性はあらゆる宗教を含むことになる。信仰と生活とが密着しているムスリムにとり、日に五回の礼拝や女子のスカーフ着用はたんなる宗教上の行為ではないのだ。
 「スカーフ」は、また別の象徴にもなってきた。ムスリム社会の家長絶対主義のなかで個人の意思を剥奪され、抑圧されている女性の象徴として。

ル・モンド紙から:「ピエール神父が未明の午前5時25分、亡くなった。」というフランス通信の速報が流れたのは(2007年1月)22日午前6時38分だった。
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 ここにまた別の形の差別がある。本当に別の形なのか。差別にはそんなに色々な形があるのだろうか。自分達の属している文化が一番であるという思い込み、異質であることが劣っている、野蛮と呼ぶに値すると思う傲慢な文化がある。共生ではなく排除・無視する優越感。「ヴィジブル・マイノリティ」これが共通項であると思う。

 日本ではどうなのか。フランスほどの単一文化主義ではないが、同じようなものではないのか。中国からの残留孤児の方々にたいする「日本語教育」「日本での社会教育」の不備はどうしようもない。4ヶ月で放り出される。中国での職業上の知識も技術もすべてがゼロ。年金の計算も帰国してからの年月で計算されている。もし日本で暮らしていたなら当然20歳ごろから加入していたであろうに。こういうところはきちんと律儀に平等な扱いなのが可笑しい。
 国籍をとる際に、問題なのは「名前」の表記で、日本人的な名前でなければならない。ハードルは高い。滞在資格の無い外国人は、修業中の児童生徒であろうとも国外退去の対象となる。亡命は許可していないし、難民の査定は厳しく世界中から不審の目でみられている。弱者には住み難い国である。

2007-01-23

「土一揆と城の戦国を行く」 藤木 久志 2006.10. 朝日新聞社 1,365円

 「飢餓と戦争の戦国を行く」が刊行されたのが2001年、それから「戦国の村を行く」「雑兵たちの戦場」「戦国の作法」と続いたいわば「戦国シリーズ」の最新刊である。いままで出た中から八篇を選び、また新しく掘り起こされた古文書の解釈、安田喜憲氏らの環境考古学や古気候学などを採り入れての著書である。
 ここで言う戦国とは15世紀半ばから16世紀末までのおよそ150年間を言う。そして雑兵は、脛当てに粗末な胴丸、槍になまくらな刀を差し、背中に小さな旗指物を担ぐ。戦が終わった時に地べたに累々と残されていて、けっして武具を剥ぎ取られる対象にはならない。

 著者が丹念に多種多様の古文書から抜き出した災害や疫病の年表には、毎年どこかで長雨・旱魃・疫病などが起きている。もちろん兵乱も。これは一地方のとか 日本のとかの問題ではなく、全世界的な規模の天変地異の時代で、この間(1300~1850)地球は小氷河期に入っている。特に、1350年前後、1500年を挟む100年間、1650年からの70年間は「夏の来なかった時代」とも言われている程だ。

 飢饉になれば百姓・村人は食料のある土地へ流れていった。山野を食い尽くした流民たちが一極集中的に都、あるいはその地方の都市へと押し寄せて、二次飢饉を起こした。これを「流入型飢饉」という。また近隣の村々を襲い食料を強奪したりもした。大名領主は百姓の離反=欠落・退転を抑えるために蔵の貯蔵穀物を放出し、兵を率いて隣の領地へ押し出したりもする。戦乱では乱妨(略奪)・狼藉・乱取・苅田などが勝手とされたのが戦いの作法で、洋の東西を問わず それが兵士・雑兵への報酬なのだ。戦場を遠巻きにして眺めている者もいる。関が原の戦いの時などは京大阪あたりから弁当持参での見物衆がいたと記されている。この見物衆がある一瞬から落ち武者狩りの衆になる。

 天下統一がなされるまで百姓と雑兵とは表裏一体の意味を持っていたと言えよう。土地の豪族の下に、集落や兄弟などでまとまって参集し雑兵として戦いにでる。勝ち戦であれば、食料はもとより落武者の甲冑などの武具や奴隷も手に入った。足軽という身分は平時には百姓なのだ。こうして武器や武具を所有し、まとまった数で戦に出るようになると発言力もついてくる。百姓侘言(要求・要望)だ。領主に納める税の率や遠方の戦地への長期の陣夫動員負担の拒否や、徳政の強要など聞き入れられなければ村を捨てるぞと脅す。現に何年も戻らなかった例もあったそうだ。武器をもって領主に対抗し、要求を突きつける、百姓中心であれば土一揆で、信仰でまとまったのは一向一揆である。やがて、特定の領主には就かずに雑兵たちを束ねるいわば「足軽大将」のような者まで出てくる。凄腕の傭兵集団で、川並衆を束ねていた蜂須賀小六などがそれの代表であろう。

 飢饉には天災からくるものと、人災からくるものとがあった。人災とは戦乱である。押し出してきた軍勢は、「麦秋の調儀」とか「稲薙ぎ」とか呼ばれる「作荒らし」の戦法を取る。隣国からの飢饉の気配で百姓達は作付けの工夫をしたり、未熟でも稲や麦の穂を刈ったり、家財物を担って山城や領主の城に逃げ込む。村人単独で山城を持つことも珍しいことではないと古文書のいくつかに見られると言う。不運にも城が落ちた時には、周辺の村々の荒廃をさけるために、城に避難していた民たちは「家財物」とともに解放され帰郷を許された。

 大名領主の力が増すとともに、足軽大将たちも収斂し家の子郎党としての地位を確立してくる。そして、天下統一。信長・秀吉・家康等が苦慮したのは、百姓たちの持つ力=武器をいかに排除するかであった。信長は治外法権とも言うべき勢力を根絶やしにすることに心血を注いだ。地ならしが出来た状態で登場した秀吉は、「刀狩」と「山城停止令」・「一国一城令」を実行した。大名同士の争いを禁止し、支配を嫌って逃げ込む山城を廃止、百姓の武器を持つことを禁止した。
「刀狩」の意味はこれだ。別の言葉で表現すれば「一揆禁止令」なのだ。

 「刀狩」を理解するためには、戦国の雑兵たちの作法を理解しなければならない。雑兵・一揆・刀狩とが、私の中で、やっと一つに繋がった。


参考図書:黒田弘子「ミミヲキリハナヲソギ・・・片仮名百姓申状論」
     吉田豊彦「雑兵物語」、
     保坂智「百姓一揆とその作法」などがある。

2007-01-09

「ブラック・アトランティック~近代性と二重意識」  ポール・ギルロイ 2006.9. 月曜社 3,200円

 一言でいえば、非常に読みにくい。物理的にだが...
536頁で、厚さ4.5cm高さ19cm幅13cm。杉浦日向子さんがいみじくも名づけたように「弁当箱」なのだ。紙質が悪い。まるで薄手の画用紙のようだ。手にとって読むにも、机の上に広げて読むにも勝手が悪い。500頁ならせいぜい3cmになる筈だろう。

 巻末に「訳者解説」がかなりな分量占めているが、そこでも原著の読みにくさ・理解の難しさを書いている。その通りで非常に読みにくい。日本語に訳された漢字のルビにカタカナ語が使われている。それも半ば日本語化したカタカナ語ではなく、原著で使用された言葉そのままの読みをカタカナで表記している。例を挙げる。黒人文学:ブラック・リテラチュア、霊歌:スピリチュア、混血:ムラー、導き手:リーダー、人間主義:ヒューマニズム、黒人性:ラックネス.....こういう処理の仕方が一頁の中に2,3個から15,6個はある。(以下イタリック部分はルビを表す)
 確かに著者の言い表す言葉の意味と翻訳された日本語とでは感触が違うだろう。だからといって安易に原語の読みをルビにするのはどうかと思う。むしろ ブラック・イングリッシュ:イングランド黒人、ブラック・ブリテッシュ:英国黒人、アジェンダ:議案 ではなかろうか...

 一つの文章がかなり長い。3行以上もあり、主語がどこから来るのか分からなくなるほどだ。原文が長いからといって訳文も忠実に長いままで示す必要があるのか。訳者の力量不足ではないか。ルビの問題といい、この冗舌さといい、日本語の文章まで原書と同じに読みにくく理解し難くしなくてもよかろうほどに。

 もう一つの難点は、著者の挙げている人名だ。人名を具体的に挙げ、その論点を解析しているのだが、文脈からすると黒人:ブラック・ピープル らしい。我々から見ると普通の西洋人(欧米人)の名前なのだ。それらの人々‐知識人・研究者‐の主張するところは、膚の色とあいまって重要になっているのだが、それが分からない。殆どが始めて目にする名前だし、日本に紹介されてもいない。翻訳され出版されたとしても極く一部の研究者が知っている程度だろう。ブラック・ピープルの主張はそれ自体の内容と共に「人種」がまた別の主張をしているらしい。ここに最初の高い越えがたいハードルがある。
 この場合のブラック・ピープルとはアフリカに住む人びとではなく、言うまでも無く、西洋に移り住んで教育を受けた人びとのことだ。著者自身、父は英国人で、母はガイヤナからの移民だそうな。そういう背景をもった著者が、アフリカン・アメリカンに主導され独占された形の「黒人問題」を大西洋の両側の問題として捉え、元の宗主国と植民地という関係から来る複雑性に焦点を当てている。確かに、現在イギリス・フランス・オランダ・ゲルギー・ドイツなどでの人種問題が度々報道されているが、著者の述べるようなブラック・ピープルの二重意識として捉えたことはなかった。

 目次には 一章:近代性の対抗文化としてのブラック・アトランテック
       二章:主人、女主人、奴隷、そして近代のアンチノミー
       三章:「奴隷の時代からのたからもの」
          ブラック・ミュージックと真性性の政治学
       四章:「疲れた旅人を励まそう」 W.E.B.デュボイス、ドイツ、
          そして(非)位置取り/(転)地の政治学
       五章:「お慰みの涙なしに」 リチャード・ライト、フランス、
          そしてコミュニティの両義性アンビヴァレンス 
       六章:「伝えられるような話ではなかった」
          生きた記憶と奴隷の崇高

 第一章から:西洋の黒人、特に英国のブラック・イングリッシュとして「ヨーロッパ人植民地の反省的な文化と意識、そして、植民者たちに奴隷化されたアフリカ人たちや、虐殺された“インディアンたち”、そして売買されたアジア人たちの反省的な文化と意識がその蛮行のもっともひどい状況にあっても互いに付け入る隙もなく閉じているわけではない、ということの湾曲な表現とさして代わらないように見えるとすれば、たしかにそうであるかもしれない。.....」

「.....この歴史的連結関係とは、感覚し、生産し、コミュニケートしあい、記憶する構造のなかで離散した黒人たちが創出し、しかし、もはや黒人たちだけが占有しているわけではない立体音響的ステレオフォニク で二重言語的バイリンガル で二重の焦点をもった文化の形式のことである。この構造のことを、私はさらなる発見のためにブラック・アトランティック(黒い大西洋)世界と呼んだのだ。」

「黒人を行為主体エージェント として、つまり知的な能力をそなえ、ひとつの知の歴史すらもっている‐近代の人種主義によって、黒人には否定されている諸属性であるが‐人々として認めようとする苦闘にこそ、わたしがこの本を書く第一の理由がある。」

「人種の格付け+分類は、黒人の非人間ないし非市民としてそこから排除されているナショナルなアイデンティティをめぐる人種排外的な考え方に由来し、またこの」考え方を称賛している。」

 なかなか一筋縄ではいかない文章だとわかっていただけただろうか。

2006-12-30

「グリム童話の世界~ヨーロッパ文化の深層へ」 高橋 義人 2006.10. 岩波新書 700円

 メルヘンは むかしむかしあるところに ではじまり、いつまでもしあわせにくらしましたとさ で終わる、どの時代・どの国の誰にでも当てはまる現実には実現不可能な夢の話。その土地の集団記憶とも.....

 ヨーロッパに於けるキリスト教は西暦313年時の皇帝コンスタンティヌス一世による公認(ミラノ勅令)といわれているが、これは単にローマ帝国内のことで、それも教会内での闘争の繰り返しが激しくいまだ基盤が確立していなかった。異教徒・異端者の改宗を強い 後のヨーロッパ共同体の基礎を築いたのは西暦800年に即位したカール大帝である。
 「今日のイタリアからドイツに至る西欧社会がほぼキリスト教化された後でも、北欧にはまだキリスト教化の波は訪れてはいなかった。そのため いわゆる西欧社会では古代ゲルマン神話を示す文献がほんのわずかしか残らなかったのに対して、北欧では12世紀から14世紀にかけて編纂された“サガ”、9世紀から13世紀にかけて書かれた“エッダ”が、キリスト教以前のゲルマン神話・ゲルマン信仰を記した貴重な文献として残った。」「ニーベルンゲンの指輪」や「カレワラ」も含めよう。

 グリム兄弟はドイツ民衆の間に広まっていた童話=メルヘンを蒐集し始めてまもなく、メルヘンの中の非キリスト教的な性格に気づいた。グリム兄弟より前に、イタリアのバジーレ(1575?-1632),フランスのペロー(1628-1703)等の蒐集したメルヘンがあったが、どれも彼ら自身の好み・近代的な解釈に合わせて脚色されていた。グリム兄弟は、そうした方法はキリスト教以前にルーツを有するものの多いメルヘンの原型が損なわれてしまうと考え、自分達が蒐集したメルヘンは出来るだけ原型に近づけようと心がけた。とは言っても、「より多くの読者を獲得するために読みやすく、文学作品としても認められるように、文章に磨きをかけた。」のだが...

 読む人びとの存在・印刷物の流布。固定化されたメルヘンは口承物語とか伝承物語とはかけ離れた別種のモノになっていく。キリスト教社会になって、その重圧のなかで生き延びてきた物語からキリスト教色を剥ぎ取り、G兄弟の考えた「古代ゲルマン信仰」の時代に戻す為の善意からなる「改変」をした。民俗学的・神話学的資料としての価値は薄められてはいるが、その時代背景を考えれば革新的意識の変化と言えよう。

 「ハーメルンの笛吹き男」で阿部謹也氏が述べているように、教会は、土着の民間農耕儀礼は異教的なルーツに由来していたとして完全に弾圧するよりは、キリスト教のなかに取り込んでしまう方を選んだ。12月から5月までの農耕儀礼を見てみよう。冬至祭・太陽神の誕生日(ミトラ教)=クリスマス、冬の最も寒い時期のカーニバル=謝肉祭、春の来訪を告げるのは復活祭、夏の到来を祝う五月祭り。これらはより多くの収穫を願う「冬追い、夏招き」の行事である。これらの農耕儀礼は古代ゲルマンに限らず普遍的なものである。日本では立春の前の「節分会」や、正月に祝われる奥三河の「花祭」、秋田のナマハゲなど。短絡的に古代ゲルマンの あるいは古代ケルトやドルイド教の伝播の証拠として面白可笑しく論を言い立てる輩すらいる。

 「シンデレラと変身譚」:「シンデレラ」には種々の変容が見られるが、一貫して同じなのは幸福な時代から不遇のどん底に、再三変身しては歓喜を垣間見て、最後には結婚して幸せに暮らしましたとさ、で終わる。この苦難から幸福へという移行が冬から春への推移と合致すると言うのだ。「民衆がこのようなメルヘンを作り出したのは、単に劇的効果を狙っただけではあるまい。私見では、シンデレラが美から醜へ、また醜から美へと変遷してゆくのは、季節が夏から冬へ、冬から夏へと移り変わるのと対応しているのである。」と筆者は述べているのだが、はたしてそこまで深読みしていいのだろうか。疑問である。民間伝承の現代的解釈、いわば後知恵ではなかろうか。

 「異類婚姻譚」:メルヘンでの異類婚姻の形式は、父親が目先の願望をかなえる為につい口走った約束から娘と動物との婚礼話が始まる。その動物はもともとは人間で、ある種の呪いの下にあり、呪いが解けたときに人間に戻って幸せになる、というのがお決まりの筋立て。変身させられていたモノが人間に戻ることであり、動物が人間になることではない。動物に変身させられていた人との婚姻で、動物との婚姻ではない。
 境界の外に住まう生き物は獣で、家畜とは異なった存在だ。そして家畜とは明確に人間の下に位置づけられ、従属物なのだ。また、人間にも当てはまる。この場合の人間とは市民であり、勿論 境界内に住むキリスト教徒である。野山の獣と家畜:異教徒とキリスト教徒:市民権を持たない者と市民。この構図が西洋のキリスト教国の原理なのだ。
 日本にも異類間婚姻の物語はある。「鶴の恩返し」がそうだし、「天女の羽衣譚」「南総里見八犬伝」なども広く言えばこの範疇にはいるだろう。まず人間からなんらかの恩をうけた動物(獣)がいる、危機に陥った恩人を助ける為に人に変身しその身を削って尽くす、最後は人の欲深さからくる言動に絶望し、あるいはその本性が露見して山に帰るところで終わる。あとには自分の愚かさを嘆く人がたたずむだけでハッピーエンドはない。あるのは悔恨の情だ。動物は自らの意思で人に変身し、意思に反して去っていく。

 西洋でもキリスト教が広く深く浸透する前はこうではなかったろう。筆者は、L.レーリヒの著書「メルヘンと現実」に次のようにあると紹介している。レーリヒが特に注目しているのは、イヌイットの研究家として名高いK.ラムッセンの残したイヌイット・メルヘンの研究のなかで、動物が人間に、人間が動物になり、人間が四足で地面を這い回ることがまるで当然のことのように描かれている。そのことから「動物への変身はもともとは罰でも呪いでもなければ、不思議なことでも厭わしいことでもなかった。というのも動物世界と人間世界の間には、後世に見られるような教会が無かったからである。むしろ動物世界と人間世界は同等の地位を持つものとして隣接していた。」と。

 野や山の獣が人間社会で生き残るには、人間の命令に従う家畜という身分を受け入れなければならない。砂漠で生まれたキリスト教の下では、自然界の現象や動物、異教徒はねじ伏せて支配せねばならない存在だ。東洋では、宗教は森で生まれた。命あるものはすべて複雑に係わり合い、主従ではなく対等の存在である。明治維新から、特に第二次大戦後からの意識の変化はめまぐるしい。その中で薄められたとはいえ動物への親和性が根底にある社会で、ペットを完全に人間の命令通りにさせるのは不得手なのは仕方が無いのかもしれない。それどころか人間同士ですら管理しなければ不要な摩擦が起きるの社会になっている。ここから、「人間の自己家畜化」という発想が醸しだされてくるのである。

 文字化されたメルヘンはもはや口承文芸ではない。「固定化したメルヘンは、結局のところメルヘン世界全体の死を招いたとG兄弟と同時代人のアルニムはいった。」口承文芸が文字化され固定されると、そこから創作童話・幻想小説が生まれた。ホフマン、アンデルセン、ルイス・ キャロル、サン=テクジュベリ、イエーツ。エンデやC.S.ルイス、トールキン、マクドナルドに代表される新しい文学ジャンルである。そして、今、映画という新しいメディアと手を携えて「映像の文化」へと進んできた。CGでの合成はどんな世界でも現実化してしまえる。もはや個々人の自由な発想の場は少なく、固定化されつつある。

 ペローがその時代の読者層である宮廷人たちに、G兄弟がより多くの読者を獲得する為に文章を練ったように、ディズニーに代表される「映像の文化・アニメや漫画」は口承も伝承も関係ない、かつてメルヘンが持っていた農耕的性格を失い、歴史的な背景を持たない他愛のない夢物語と化してしまった。

2006-12-19

「人類の自己家畜化と現代」 尾本 恵市 編著 2002.7. 人文書院 1,600円

本書は国際高等研究所課題研究「人類の自己家畜化現象と現代文明」(1996-1998)が基になっている。

この本は殆どヒトの絶望を描いている。現在、アフリカに住む我等の従兄弟たち(ボノボ・チンパンジー・ゴリラ)が絶滅危惧種になっているが、その姿は明日の我々だと、警鐘を鳴らしている。ただ、もう人間の知恵ではどうにもならないところまで事態は進んでいるのだ。滅ぶのは人類をふくめた一部の生物で、多くの生物達は別の生態系を織り出していくことは確かなことでもある。

「はじめに」 埴原 和郎(専門は人類進化学を中心とする自然人類学):
 「人類の進化は高度に文化の影響を受け、他の生物に見られない特徴を獲得するにいたった。」
 「人類は500万年あまり前から独特の進化を始めたが、生物の進化史からいえば、極めて短時間であること、特に、脳の変化は三倍余りになり、複雑な機能をそなえるようになった。この“爆発的”進化は自然環境への適応のみによって生じたとは考えられず、文化環境への適応という要因を考慮せざるを得ない。」

 文化を運び次代に受け継がせるために遺伝子は存在するというミーム論にも関係してくると私は考える。

 「人類では文化が進化の方向を左右するという例が少なからず見られるため、身体的進化を論ずる場合にも文化の影響を無視することは出来ないにである。」「家畜は文化環境の中で生まれ、育ち、そして集団として進化する。」
 「身体的特徴が文化の影響を受けるという点では、人類も家畜も本質的に同じと考えることが出来る。」 「コントロール技術が未熟のまま文明の利器が見切り発車の状態で実用に供され始めていること。」「現代人の体が、心理的な側面を含めて、一万年以上前の旧石器時代の環境にしか適応していないということ。」

「メタファーとしての自己家畜化現象ー現代文明下のヒトを考える」
尾本 恵市
:動物における家畜化とは、咀嚼器官を中心とした顔面部の短縮がまず思いつく。「色素の減少、貧毛、縮毛など野生動物にはなく、ある種の家畜にみられる特徴が、人類では地理的変異として普通に出現し、いわゆる人種差の根拠とされる。.....人類は無意識の内に、自己をある方向に“改良”、つまり“自己家畜化”した産物ではないだろうか。.....家畜は人間によって自然から保護・管理(単に固体の管理だけでなく、生殖も管理)されて、つくられたが、人類は文化によって、自己を自然環境から隔離し、その結果として、家畜と同様の性質を持つに至った、とされる。」
 尾本氏は、「自己家畜化という比喩には、ヒトの社会における“差別”という重大な現象を理解する鍵があると気づいた。.....人間は、家畜を“有用さ”という価値判断によって改良してきた。同時に、人間は、互いに個人または集団を“有用さ”という基準によって差別するようになったのではなかろうか。」

 生物の進化にとっての一万年:「一万年前のヒトが仮にこの世に生まれて、われわれと同じ学習・教育をうけたとして、彼または彼女が現代人と著しく異なる行動をするとは考えられないのである。われわれは、一万年前の遺伝子で現代文明下の急激な環境変化にたえねばならないともいえる。」
「作り上げた環境を離れては生存できないこと、それに集団として教育やマスコミによって画一化された世界観を植えつけられ易く、個性が欠如する傾向がある。」

 平成11年2月、尾本氏は、この共同研究をしめくくる国際ワークショップでの基調講演の中で次のように発言を纏めたとある。「“自己家畜化から自己規制する発展へ”という道筋を示すことが21世紀の人類学の究極の目標である。」と。

「人間の自己家畜化を異文化間で比較する」 川田 順造:
「自己家畜化の認知的側面」 松井 健:

「清潔すぎることの危うさ」 藤田 紘一郎:今、日本が危ない、日本の子どもたちが危ないと筆者はいう。「子どもたちが自分の体からでる“きたないもの”への嫌悪感を薄めることが大切ではないかと思った。人間の体から出るものを忌み嫌うことを続ければ、それは“人間が生き物”であることを否定することにつながる。やがて自分もなるであろう老人や病人と自然と付き合うことができなくなっていくであろう。体から出るものを忌み嫌うことは、当然、ヒトに共生している寄生虫や細菌を“異物”として排除しようとする。その結果、人間が本来もっている免疫システムまでも弱めてしまうのである。」

 「日本の社会から全ての“異物”を排除してしまったから、その社会に住む日本人は異物とうまく付き合う術をうしなってしまったようである。いまの日本の社会にはもっともっと異物が必要である。規格はずれの人や物が必要である。街も入り組んだり、汚い場所があってよい。そうすれば、もともと本人には無関係なダニの死骸や不潔な人や物にも気がつかなくなるであろう。」

 「言葉の世界でも異物の存在を許していないようである。.....“差別語”は確かに表面上は汚く、使ってはいけない言葉かもしれない。しかし、その言葉を周囲の状況やその人との関連でみると案外暖かいものだったりすることがあるのではないだろうか。今日の言葉をとりまく状態は、差別語という異物をそれこそ疫病のように忌み嫌うあまり、確かに言葉の免疫力がうしなわれてしまったといえるだろう。」
 「社会から異物を排除し続けると、社会の免疫力が低下する。」「日本人の免疫性が低下しているばかりでなく、日本社会の免疫性が低下しているとすれば日本人の未来は無いだろう。」

 「.....私は人類はあと100年、すくなくとも1000年以内には滅亡するだろうと考えている。.....われわれの行動の遺伝的基盤は数万年の間に作られたもので、一万年前の人類とほとんど変わっていない。したがって、文明のここ数千年間の激しい変化には、にわかに対処できるはずがないのである。」
 
 藤田紘一郎氏はこう結論した。「現代の文明が過剰な清潔志向を生み、それが現代人の身体的および精神的な衰弱を導いている。その一例として、過剰な清潔志向が、雑菌や寄生虫がいるからこそ成立していた人体の免疫システムを崩している。」

「いま、子どもの口の中で何が起きているか」 桑原 未代子:
「ヒトにとって教育とは何かー自己家畜化現象からの視点」 井口 潔:

「ペットと現代文明」 吉田 真澄:「ヒトのペット化とペットのヒト化」ペットが人間社会で共生するには、人間社会のルールを学び逸脱しないようにしなければならない。欧米の公園や街路、公共施設ではペットたちが飼い主の命令に従って行動する。それが出来なければ、ルールを躾けられなかった飼い主が社会のなかで糾弾される。人格さえ疑われるのだ。家畜に対する文化の差といえよう。日本ではペットとの一体化から来る他人との摩擦が増加している。人間社会の常識的ルールを理解できない飼い主がペットを躾けることなど出来ないのだ。東洋(日本)での家畜にたいする姿勢が欧米と異なるのは、文化の成り立ちが異なることが要因である。農耕と牧畜との差といえば理解し易いかもしれない。他者に厳しくすることが不得手なのだ。他者(人・ペット)を甘やかすことが優しいことではない。

「ヒトの未来」 武部 啓:「ヒトの未来はクローン人間であってはいけない。」遺伝子の多様性こそが種の継続を可能にする。クローニングでうまれた命の細胞の年齢は、提供した個体の年齢なのだ。ヒトのクローンを作るということは、どんなに解釈しても利害が、それも個人的な利害が絡んでくる。優秀な頭脳・芸術家・運動選手などが自分とおなじ能力をもつ個体が欲しくなる、そんな固体が家系にいればと思う。また、余命いくばくも無い一歳の子どもとそれ以上妊娠できないと診断された母親がいるとしよう。その母親がクローンのわが子を望んで何が悪いという理論がある。この場合の細胞は一歳だ。だが、もし、この子に先天性の障害があっても母親はクローニングを望むだろうか。そこに選別という意識が見えてくる。もし、ヒトのクローニングが許されるならば、子どもの誕生と同時にスペアとしてのヒトが生まれるだろう。それだけの財力があればの話。SF小説の世界ではもうこの珍しい話題ではなくなっているのだ。

 「生物の最大の特徴は多様性にあると、私は確信している。多様性とは、一人一人の顔つきも、性格も、考え方もことなることであり、人間社会はそのような人間の集団なのである。クローン人間の作成は、そのような多様性に支えられた人間社会を否定し、ある特定の意図のもとに人間と人間社会を改造しようとする方向性を秘めている。西洋諸国の、クローン技術への反発は、本能的にそれを感じ、多様性を尊重する西洋文化への挑戦と受け止めた結果であった、と私は確信している。日本は本質的に人間の多様性には否定的な文化なのではないだろうか。.....人間の多様性の尊重は、障害者に対する態度にもしばしば反映する思想である。障害者を同情し、あわれむべき対象と見るのか、障害者も人間の一つの姿にすぎないと、同じ視点から見るのかという根本的な論議が日本では不足している。、と私は感じている。特に、先天的な障害に対して、そのような人は生まれてくるべきではなかった、あるいはこれから生まれないようにすべきである、という排除の概念が、いわゆる先進国の中でも日本は特につようのではないか。」
武部氏の結論:「ヒトは人類の英知によって生物種として存在し続けるだろう、との確信である。」

「おわりに」 尾本 恵市

2006-12-09

「大地の咆哮ー元上海総領事が見た中国」 杉本信行 2006.7. PHP研究所 1,700円

 初めて中国へ行ったのは1979年3月、夜遅く北京に着いた。市内まで暗い道をバスが行く。広い道の交差点には裸電球が吊り下げられていて、人が大勢歩いている。全ての職場は3交代だからとのこと。3~5階建ての大きな建物の窓ガラスは割れたままであったり、ところどころぼんやりした灯りが見える。やっと開放が政策として始まったころで、外国人は日本でいうパンダ並の奇異な動物として見物の対象だ。トルファンなどのシルクロードを訪ねた。それから2000年までに何度も少数民族を訪ねて地方を旅した。

 山を幾つも越えてやっと車の通れる道が出来た村。水は竹や木の樋で山からひいて来る。電気もまだの土地が多かった。細い電信柱が道の端にたっている。電線はない。通訳の中国人に尋ねるとこう答えた。地方の人は教育がないから盗むのだそうだ。公のものは所有者がいないから貰っても気にならないのだと。公衆に係わることについては 工夫するとか改善するとかの意識は皆無のようだ。生ゴミは店のそとに放り投げる。共同厠所は使用に耐えられない。バスや路面電車に乗るときに並ぶという事はしない。生活のすべてがわれがちになのだ。

 大きな都市に近づくと工場からの色とりどりの煙が煙突から勢いよく噴出している。河は汚染された水が泡を巻き上げて流れている。建築現場や道路工事で働いている男達は私服。革靴や穴のあいたスニーカー。
老朽化した工場では劣悪な環境で、生産効率がいいとはお世辞にもいえない。環境破壊はすさまじい。
 
 現代の中国がかかえる最大の脆弱性は、国民の貧富の差。それと地域間の格差。都市と農村の間の差別感情。東京などより凄い林立する高層建築物。超豪華なホテルから地方の招待所まで泊まったが、部屋の水回りの完全に施工されているところはなかった。壁や床の亀裂へと滴り落ちた水が流れていく。見かけは豪華だが仕事はやっつけ仕事、職人の仕事ではない。

 この著書のなかで溜息と共に活字になっているのは、「何故、中国は気づかないのだろうか」ということだと思う。あまりにも広大で、あまりにも多い人口。殆ど現金収入のない地方の奥に住む少数民族。いままで中国の人が書いた「現代中国の悩み」の本を随分読んだ。ジャーナリズムという歴史のない、あるいはその教育のない報告は正直なところ、気の毒とは思うが説得力が弱い。なにもかもが桁外れなのだ。

 杉本氏のこの著書の中で述べている「水」について述べよう。中国で豊かな水資源のあるのは江南の地、揚子江の潤す土地と砂漠のオアシスだろう。黄河の水は無いに等しく、大きな河川は勝手にダム建設で水を取り込む。中国の年間平均降水量は660mm、日本の四割程度。使用可能な水資源保有量は世界第四位だが、一人当たりの水資源量は世界の一人当たりの平均量の四分の一。「貧水国」なのだ。
 
 驚くべき統計が紹介されている。降水の五分の四は南部に、耕地の三分の二は北部に。降雨量は夏と秋に集中し、夏の四ヶ月の降雨量が南部では年間降雨量の60%、北部では80%、このため水資源の三分の二は洪水として流失してしまうし、夏の豪雨を溜めようがない土地が多い上、黄土高原では樹木が極端に少なく、保水能力が乏しい。沿海部の都市や北京での水消費は増加し続け、地下水の汲み上げから地盤沈下をもたらしている。都市部での水不足の解消には農業用水をあて、また工業用水にはやはり農業用水をまわす。同じ量の水を消費しても工業製品は価格にして70倍もの価値があるからという理由で。
 その結果、農民が生活に使う水の確保もままならない土地すら出てきている。人口増加に伴い水消費は増加する上に、生活が豊かになれば肉や野菜の消費も増える。水の絶対量は増えない。地下水の水位が70mも下がった山西省の例も報告されているという。水難民が出始めている。水の浪費も問題だという。大都市での水道管からの漏水は20%にも及び、また工業面でいえば、先進国で1トンの鉄鋼を生産するのに平均6トンの水を使うが、中国では20~50トンに水を使う。紙の生産でも2.5倍に水を使う。設備の改善が早急な問題になってきている。

 温暖化による生態系の破壊、気候変動などによる砂漠化が着実に進行している。中国の砂漠地域の面積は国土の28%にもなり、90年代には毎年神奈川県の面積に相当する面積が砂漠化していたし、現在ではもっとその速度が加速し、毎年大阪府の二倍の面積が砂漠化している。飛行機からみる北京はオアシスなんだと実感できるし、砂漠は18kmのところまで迫っている。

 著者はこの本の目次に、「中国との出会い・尖閣諸島問題・経済協力について・台湾人の悲哀・対中ODAのこと・搾取される農民・反日運動の背景・靖国問題・転換期を迎えた中国の軍事政策」をあげている。

中国で問題なのは、差別・教育、それに公共という概念だろう。
 農村と都市の間の法的な裏づけのある身分差、貧富の差は仕方ないとしても。あって無きが如きの義務教育。三権の独立性、わけても司法の独立。国政に加わっていない黒子の存在。環境破壊についての認識。
 中国は大きすぎるのかもしれない。広すぎるし、人口も多すぎる。世界中の環境の見本市のような自然。どんな意味においてもコントロール不可能なことを認めようとしない政府。もしかしたら、人類の生存の鍵は中国が握っているのかもしれないと思う。
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中国人留学生の話:弁当屋にバイトに入ったという情報が流れると、友人や友人の友人は弁当を買いにいく。知り合いがくると何も言わなくても一ランクも二ランクも上の惣菜をサービスするから...

スーパーの地下の食堂で:札幌ラーメンとかコーヒースタンド、クレープ屋と並んで本場中国の味と称して店ができた。しばらくすると中国人の女性が一人で切り回すようになった。一服するのにその食堂の隅で一息入れていると嫌でも目につく。いつ行っても知り合いらしい人が何人かテーブルを囲んでいる。頼んでいないのに料理が次々運ばれる。中国茶も。店の女性も一緒になって中国語でおしゃべりに夢中。日本人の客が何かを注文している姿は見たことが無かった。

2006-11-30

WAVY さん! 

J: いつもお訪ね戴いて有難うございます。なんやらこのブログはへんですね。じつは、投稿した記事もこんな風に超長駄文が続かないように「一つ目の段落、もしくは全角で127字の短い方」に設定してあるのですが、Mr.Google はちっとも言う事を聞いてくれません。どうなっているんでしょうね、これこそ何かのエラーなのに。それについて彼は黙して語らず。先頭のみ/完全 なんて選択させない方がいいのに。でもいまのところ、彼のご機嫌はいいのであまり悪口を言いたくありません。 2006.10.30. 00:02

J:えぇっと、どなたかは存じませんが、はじめまして。(初めての方の前では丁寧語も使えます。大人ですから.....) お近くへお出での際はどうぞお立ち寄りください、でしょうか。この出会いではどんな挨拶がいいか、難しいです。ともかく よろしく!
          

2006-11-23

「祖先の物語 」  リチャード・ドーキンス  2006.9.   小学館 上下 各3,200円

THE ANCESTOR'S TALE:A Piligrimage to the Dawn of Life
「祖先の物語:ドーキンスの生命史」

 歴史の本はどれもそもそもの始まりから記述されている。お伽話も「昔々あるところに...」から始まる。生命史の場合、極端に言えば、濃いスープの中の化学反応から始まり、進化が進むにつれて生物達は複雑になり、最高位の哺乳類の頂点に人間:ヒトが君臨している、という図式だ。他の霊長類はヒトになれなかった劣った生物となり、発展した現代社会が享受している文化を持たない社会は劣った社会という認識が自然に生まれてくる。
 ドーキンス先生は別の考え方を示した。今までの歴史の記述法は「前向きの年代記」で枝別れして多様化していく物語で「いま」で終わる。では「後ろ向きの年代記」ではどうか。どこから出発しようと生命の単一性へ向かい、共通の祖先への収斂へと導かれる筈だ。これならばヒトを主人公に据えても問題はない。我々はヒトであり、ヒトのことは一番よく知っているからだ。あなたがイヌならばイヌを主人公にしようではないか。ヒトが生命の根源・始源に向かって旅するのを、チョーサーの「カンタベリー物語」の巡礼になぞらえて生命史を書いたのがこの著書である。
 
思い上がりの歴史観: 「生物学的な進化には、いかなる特権的な地位を占める家系もなければ、あらかじめ設計された目的もない。進化は何百万回となくその折々での暫定的な目標(観察時点で生き残っている種)を達成してきており、どれか一つの目標をほかの目標よりも特権的であるとか、究極的であるとか称するのは、虚しい自惚れ(あいにくそれは人間の自惚れである。なぜなら私たちが代弁しているのだから)以外の何者でもない。」

「生物学的な進化は方向性を持ち、進歩的で予測可能と言えるような場面が存在すると私は思う。しかし、進歩は断じて人間に向かう進歩ではなく、その予測についての判断や感覚は確固としたものではなく、都合よく思い込むべきものではないことを、私たちは受け入れなければならない。歴史家は、どんなわずかな程度であってさえ、人間という極相(クライマックス)に向かっているという物語を紡ぎ出すことのないよう、注意しなければならない。」

 「後ろ向きの年代記は、現生の哺乳類のどれを出発点に選んでも、つねに同じ唯一無二の原哺乳類、すなわち、恐竜と同時代の、謎につつまれた食虫性の夜行性動物に収斂していく。...中略...私は“収斂 convergence” という言葉を使ったが、これは前向きの年代記では全く違う意味で使うために、是非ともとっておきたいと思っている。したがって私は、本書の目的に合うようこれを“合流 confluence”あるいはすぐ説明する理由によって、“ランデヴー rendezvous”に置き換える積りである。...中略...後ろ向きの年代記では、どの種の組み合わせを取り上げても、その祖先どうしは、かならずどこか特定の地質学的な瞬間に出会うことになる。そのランデヴーの時点は、彼らすべてにとっての最後の共通の祖先で、私はこれを彼らの“concestor”と呼ぶことにする。コンセスターとは、すなわちたとえば、合流点にいる齧歯類、合流点にいる哺乳類、合流点にいる脊椎動物のことである。また最も古いコンセスターは、現在生きているすべての生物の始祖で、おそらくは一種の細菌であろう。

 この地球上に現在生きているすべての生物のたった一つのコンセスターが、本当に存在することについては強い確信がある。証拠は、これまで調べられたすべての生物が、同じ遺伝暗号を共有していることである。(大部分は厳密に同じ、その他はほぼ厳密に同じ。)遺伝暗号は、その複雑さのあらゆる部分に至るまで、あまりにも詳細に決定されているために、二度も発明されたとは考えられない。」

 「他の種に属する動物、植物が存在することも忘れてはならない。彼らは、それぞれ異なった出発点から独立に過去に向かって歩み、最終的に私たちと共有するものを含めて、それぞれの祖先を求めての巡礼の旅をするのである。もし、私たちが祖先の足跡を逆にたどっていけば、必然的に、ある定められた順序で、他の巡礼者たちと合流することになるだろう。その順序とは、彼らの系統が私たちの系統とランデヴーし、しだいしだいに親戚関係の幅を広げていく順序である。」

 具体的に言えば、およそ500万年さかのぼった時点で、すでに合流を果たしたボノボとチンパンジーに出会うのだ。それからゴリラと合流し、オランと合流する。こんな風にたった40回のランデブーで、我々ヒトの巡礼者は生命の起源そのものに行き当たるというのは、驚くべきことだ!

 ドーキンス先生は巡礼の旅に送り出す選にかかる。古代型ホモ・サピエンス(アファール原人)は10万年前まで現代型人類ホモ・サピエンスと共存していた。勿論ネアンデルタール人も一緒に。彼らは2万8千年前に消滅したが。100万年もさかのぼるとホモ・エレクトゥスで出会う。150万年前にケニアに住んでいた「トゥルカナ・ボーイ」。200万年前はホモ・ハビリスの時代、ケニアの「KNM-1470」と呼ばれているヒトは190万年前。
 「私たちの先祖であって、チンパンジーの先祖でない最初の動物はどれだったのか。」 どうやら、ホモ属の直接の祖先は頑丈型のロブストゥスではなく、華奢型アウストラロピテクスのどれかの種であったようだ。250万年前プレトリアにいたMrs.プレス。320万年前のMs.ルーシー。360万年前、ラエトリで並んで歩いていた親子を思われる三人は足跡だけ残している。そして、440万年前のラミダス猿人、「リトル・フット」が最古のヒトの化石ではないかと思われていたが、2000年にケニアで発見された「オロリン」は600万年前、2001年にはサハラ南部のチャドから7~800万年前の「トゥマイ」と名づけられた化石が発見された。サルではない特徴の方が多いので、目下のところ彼らがヒトの最初と見られている。

 このヒトの過去に遡る旅の中で、ドーキンス先生はそれぞれがそれだけで一冊の本が出来るぐらいの問題を提示している。出アフリカは従来考えてこられた二回ではなく三回(15~8万年前・84~42万年前・170万年前)であったとするアラン・テンプルトン説。狩猟採集・牧畜・農耕民の文化のあり方。ネアンデルタール人。ミトコンドリア・イブ(14万年前)とY染色体アダム(6万年前)。二足歩行を選択した理由。ネオテニー論。ミーム説。脳重量の対数.......。
 これらの問題はこれからどこかの合流点で出会う他の生物達が語ってくれる、チョーサーの物語のように。

 人選の最初に先生は今はもういないタスマニア島人ではとも考える。彼らは1万3千年の間孤立して生活していたが、19世紀の白人入植者達によって農業の外敵として絶滅させられた。タスマニア島人の最後の一人、トルカニニが1876年に死んだ。1万3千年の孤立は巡礼の旅に出すに充分な資格ではないか、と。

700万年前から500万年前の何処かで、初めて他の種の巡礼者と出会う。すでにチンパンジーとランデヴーを済ませたボノボであった。我々ヒト属と違って、彼らがどのような道のりでここまでやって来たのかはわからない。途中の証拠(化石)が何も発見されていないからだ。森に住んでいたというのも一つの理由だが、彼らが出会ったヒト属はさほど彼らと異なった姿ではなかった筈だ。ヒトとチンプに共通する化石はまだ見つかっていない。

我らが巡礼の旅:矢印→の先にいるのは次にランデヴーする相手であるが、現生動物の分類法による約1,000万種の生き物が我々と同時に巡礼に出て出会うのだが、もしかしたら今日我々が目にしている姿とは似ても似つかぬ姿であるかもしれない。「彼らの祖先であって他の生物の祖先でない最初の生物」という理論はここでも有効である。彼らも彼らなりの巡礼をしてきているのだから。既に何回かの合流を果たして大人数になった巡礼団やナメクジウオのように自分達だけの道をひっそりと旅して5億6千万年後にヒトの巡礼団と合流するものもいる。

 2006年11月16日、ネアンデルタール人のDNA断片解析から、37万年前に現代人と分岐したと報道された。つい最近まで共存していた彼らに敬意を表していまから2万8千年後に巡礼の旅に出発させてもドーキンス先生はうなずいてくれると思う。

 ヒト→チンプ・ボノボ→ゴリラ→オラン→テナガザル(系統樹と分岐樹、種の系統樹と遺伝子の系統樹)→旧世界ザル(世界の気候と植生が現在とほぼ同じだと認められる最後の地点・2,500万年前)→新世界ザル(色覚のこと)→メガネザル(毛のはえたカエル)→キツネザル(6,300万年前・白亜紀の大絶滅を終えて)→ヒヨケザル(滑空する!)・ツバイ(植物の隆盛)→齧歯類とウサギ類(遺伝子の延長された表現型)→ローラシア獣(カバ・アザラシなど異質な哺乳類たち)→異節類(貧歯類・アルマジロ)→アフリカ獣類→有袋類→単孔類(カモノハシ)→蜥形類(爬虫類・鳥類:ゴンドワナ大陸の分裂と走鳥類の分布、古磁気)→両生類(サンショウウオ・ネオテニー説)→肺魚→シーラカンス→条鮱類(ヴィクトリア湖のシグリット)→サメとその仲間→ヤツメウナギ・メクラウナギ→ナメクジウオ→ホヤ類→ヒトデとその仲間→旧口類(分子時計・牧畜と農業・光感受性・眼の誕生・交雑と種内差異・ショウジョウバエに於ける発生学と遺伝学・ホック遺伝子・中立説)(愛しのカイアシ類とはここで合流!)→無体腔型扁形動物(スノーボールアース説)→刺胞動物(クラゲなど)→有櫛類(ゴカイ・バッタ・フジツボ・ハキリアリなど)→板形動物→カイメン類→襟鞭毛毛虫類→ドリップス→菌類→アメーバ動物→植物→不確かなグループ→古細菌→真性細菌

 生命の始原までの巡礼を終えてドーキンス先生はこう問いかける。生物の進化=進歩の原動力である軍拡戦争とは? もう一度始原から始められたらどんな生き物が生まれるか?これについて先生はこんな風に書いている。赤外線感熱・反響ソナー・電気的接触・パラボラ反射器などの光学的原理に基づいた眼は宇宙の他の惑星に生命が存在しうるなら、私たちが地球上で知っていると同じやり方で発達させたという方に賭けてもいいだろう。それから、毒針・発音・滑空・ジェット推進方・反響定位などは多様の生物がそれぞれ工夫して進化させたであろう(一種の収斂現象)。また一つの種だけに見られる一回かぎりの進化もあるだろう。移動方法は二足歩行・四足歩行・うねらせての移行・滑空・飛行などあろう。だが、我々のような異常に発達した脳細胞を持つ二足歩行の奇妙な生物が誕生することは無いかもしれない。

 「島」という概念:生物学的な制約から移動できない距離が二つの場所を隔てていること。尾根の反対側や密度に異なる水、隣の浅瀬もある生き物にとっては「島」になる。地球自体も「島」なのだ。

 「最初に自然淘汰を始動させ、最終的に累積的な進化の壮大な叙事詩のすえに、ネズミや人類にまでたどり着かせることになった決定的な要素は何だったのか」
 「最初の遺伝子(自己複製子)」「最初の細胞(代謝体)」

 「超音波を発するコウモリは、一連の一寸刻みの微細な改良の結果であり、それぞれの改良は同じ方向上にある進化的趨勢を前に進めるように先行物に累積的な付け加えをして行く。これは当然ながら進歩である。...中略...しかし、こういった種類の進歩は、進化が始まったときから現在まで不変の、一様なものではない。それは韻を踏むのである。...軍拡戦争の過程における進歩...個別の軍拡戦争は、ひょっとしたら恐竜におこったような種類の大量大惨事の過程を通じて、やがて終わる。そしてまたふたたび全プロセスが始まるが、まったくのゼロからではなく、その軍拡戦争のはっきりと認められる初期の段階から始まるのである。...恐竜絶滅の後を受けてただちに上昇をはじめて以来、哺乳類もまたいくつもの絶滅の後のいくつもの小さな軍拡戦争、そのまた後の新たな軍拡戦争を行ってきたのである。軍拡戦争は、周期的な何段階もの進歩的進化の奔流において、以前の軍拡競争の韻を踏むのである。」

我々は、自らを知恵ある人 ホモ・サピエンス Homo-sapience と称しているが、何万年もあとの古生物学者はもしかしたら、愚かなるヒトという動物 Homo-insipience と呼ぶかもしれないとドーキンス先生は予見する。
 
 生命という点では植物の存在も私の始原の先祖とは思うのだが、古細菌や真性細菌になると、彼らに対する親近感はない。生命の誕生は濃いスープからなのは理解するが、(化学は昔から苦手だ)よく分からない。何年かたったら理解できるようになっているかもしれない。この著書自体が生物学の濃いスープのようなものだと思う。

2006-11-10

「レッドパージ・ハリウッド」 上島 春彦 2006.7.    作品社 3,800円

 私が始めて自分の小遣いで映画を見たのは1951年作「探偵物語」であった。渋谷東急名画座。授業の終わった後だったから四時ごろからの上映だったろう。館内は空いていたけれど、なんだか許されていない場所に潜り込んだような気がして、一番後ろの席でみた。その後では自信も付いてきてしばしば映画をみた。地下にはニュース映画だけの館もあり、そこは10円で、名画座は60円、まもなく75円に値上げされた。そのころは封切館は日比谷で,二番館といっていた新宿・渋谷になるとほとんど2本立て、その次の近所の小さな映画館では3本立てで、どこも満員で座れるのは一巡した後でやっとという時代。

 1938年、非米活動調査委員会(HUAC)が設立された。この委員会は演劇人団体を召喚して“左翼的”と非難している。だが一方で真珠湾攻撃の年には左翼主導による「脚本家戦時動員組織」も発足し、1942年には戦時情報局(OWI)が設立され、リベラル派の拠点になった。大戦が終わってすぐの1946年には“鉄のカーテン”で隔たれた冷戦が始まった。翌47年にはHUACによる映画人の喚問が開始された。ブラックリスト体制が公然化し、ハリウッドテンの業界追放がはじまった。1951年、映画人喚問が再開し、いわゆる「密告・ネーミング ネームズ」の時代がきた。「ブラックリストへの反対者は即、共産主義者の陰謀に加担する者としてブラックリストにのせる。」そして業界追放。公民権に関する嘆願書に署名?追放だ。アクターズ・スタジオ?この俳優集団は爆竹花火のように赤い連中だ。どいつを追放しようか。

 この、戦後アメリカにおける極端に排他的・全体主義的でヒステリックな反共産主義を一般的にマッカーシズムと呼ぶ。ただし、上院議員J.R.マッカーシーが活躍したのは50年代初頭の数年間であったが、そのずっと前からのマッカーシー主義的政治委員会がHUACなのだ。反ニューディール主義、反リベラル、反ユダヤ主義、人種差別主義などで、一言でいえば極右だ。
 映画産業から始まったブラックリスト作りはやがてTV産業、新聞、ラジオ、教育施設さらに公務員、公社職員へと爆発的に広まっていった。映画制作者協会は「自分が共産党員ではないことを公に誓約するまでは誰も再雇用しない」と宣言した。マスメディアの発展と共にいよいよヒステリックになっていく。

 奥平康弘氏はその著書「表現の自由を求めて」で次のように書いている。「マッカーシズムとは何であったのだろうか。これはワシントン政府ー合衆国議会・大統領府・国務省・司法省などーがとったさまざまな種類の権力装置を頂点に、諸州・地方公共団体の多種多様な同調的な類似政策を含む。そしてそれは、たとえばもっとも典型的には、学問の府である大学その他研究機関内部の人事のありように響き、同じ動きが法曹界その他の自由職業分野に及び、果ては、鉛管工・医療関係者などの職場に波及し、さらに社会保険受給者の需給資格を脅かす、といったありさまであったのである。つまりマッカーシズムは公私の区別を越え、社会の風潮、ひとびとの思想・信条の中身にまで食い込む態のものであった。」 2006年に封切りの「Good night and Good Luck」(アカデミー監督賞?作品賞?最優秀賞?を受賞した。なんとも皮肉なこと。)に詳しい。

 50年代はTV時代の幕開けだ。勿論、TV局内には思想傾向取締り機関が元FBI職員の天下り先として設置されていた。映画業界から追放された脚本家たちは変名を使い、またフロントと呼ばれる表の実在人物の名前を借りて、仕事をしていた。50年代はまた黒人主導による人種差別撤廃運動が高まり、55年にキング牧師による人種差別バスのボイコットが始まっている。それにリベラルであることはもはや左翼的ではなくなってきていた。59年、アカデミー賞の規約から「ブラックリスティ排除」の項目が消えた。ブラックリスティたちの活動を無視することが困難になって来たからでもあった。

 「探偵物語」51年、監督はウィリアム・ワイラー、脚本はブラックリスター。主演のカーク・ダグラスはバート・ランカスターと並んでブラックリスターの脚本家に理解があったという。助演の女優リー・グラントは批評家協会賞をとりオスカーにノミネートされ、カンヌでは最優秀女優賞までもらったが、ブラックリスターの葬儀でHUACに批判的な発言をしたためにTV・映画からもしめだされている。
 50年代に殆ど毎週、父に映画館に連れて行かれた。60年代も随分映画館にいった。そのころ見た映画が大なり小なりこの「レッド・パージ」に関係があることを認識してあらためて思い出すと、また違ったものが出てくる。

 その頃役者を志す人間にとっては、スタニスラフスキー・システムという演技理論は絶対であり、アメリカでそれを実践に移して活動している、リー・ストラスバーグやエリア・カザンを中心としたアクターズ・スタジオは憧れの的でもあった。ブラックリスターであった脚本家たちの名誉が復活した後で、密告者として名高いエリヤ・カザンにアカデミー特別賞が与えられた。会場は拍手と失笑が半々だった。

 著者の「注」について:章ごとに数多くの「注」がある。これだけ読んでも価値のあるという素晴らしい力作といえる。が、「注」だけでは読めない。本文と照らし合わせなければ一体誰についての「注」なのかわからないのだ。また、本文を読みながら「注」に出会ったからといっていちいち参照しながら読むことはしない。実際「注」はこのようになっている。
 *66 監督。ハリウッドテンの一人。メッセンジャーボーイからスタートし、編集者を経て監督に。低予算の反日プロバガンダ映画で評価され、やがて製作者E. スコットとのコンビで.....後略
とこんな具合。「注」66は誰かといえば、87頁5行目、エドワード・ドミトリクでなかなか見つからない。非常に不親切な「注」で、もったいない作り方と思う。全部で20章あり行数が増え、ページ立てが何ページか増えたにしてもそうして見るべきであった。

2004年9月出版のサラ・パレッキー「ブラック・リスト」はこの赤狩りの旋風に巻き込まれ、翻弄された人々の癒えることなき傷を描いてある。また彼女は9.11以後の社会を憂えている。そのわずか一ヶ月半ののちに成立した「愛国者法」に危惧を抱いている。今のアメリカは、かっての「赤狩り」時代のアメリカに戻りつつある...そんな危機感から、この作品が誕生したのであろう。...訳者山本弥生氏のあとがきから...
 

2006-11-05

「カイアシ類・水平進化という戦略」 大塚 攻 2006.9. NHK出版 1,070円

副題に「海洋生態系を支える微小生物の世界」とある。著者は「はじめに」でつぎのように記している。
「はじめに」が面白ければ本文も面白い、その通り!

右図:カンブリア紀末期のオルステン動物群の生態図
左図:深海のカイアシ類 
    A・カイアシ類を襲う肉食性
      ヘテロラブドゥス属




「生物のヒトに至る複雑化・高度化を“タテ”の進化とすれば、カイアシ類のように多様化によって地球生命圏にあまねくはびこる生命は“水平進化”という戦略を選んだのではないだろうか。われわれヒトが知性を得てからは、まだたった10万年にすぎない。しかし、すでに地球環境に大きな影響を与え、自滅の兆候さえある。一方、カイアシ類は四億年以上のたゆみなき多様化に道をたどり、ヒトが絶滅した後も地球にはびこり続けるだろう。」

 では、そのカイアシ類とは一体どんな生物なのか。要約してみる。...海では動物プランクトンとして最も生物量(バイオマス)が多いものの一つで、通常、プランクトンサンプルの総固体数の7~8割を占めるほど圧倒的に優占する。
 プランクトン? 水中を漂う生き物の総称で、大きさは1m、重さ200kgにもなるエチゼンクラゲから、数マイクロメートル以下のバクテリアなども包合する。つまり、大きさでなくその遊泳能力で定義されており、遊泳能力がゼロか、ごくわずかな水中浮遊生物群の総称。

 カイアシ類は海洋微小甲殻類で、大きいもので1cmぐらい、普通は1~2mm。東南アジア・ヨーロッパでは地方食とされているが、日本では同じプランクトンのアミ・オキアミ以外は食さない。魚類は、特にサンマ・イワシは一生カイアシ類を食べ続ける。シラスの腹部の赤い点が甲殻類カイアシの入っている胃袋だ。生息場所はヒマラヤの氷河から湖沼・田んぼ・地下水・古タイヤに溜まった水溜りから水深1万mの深海など、ありとあらゆる水圏に進出している。その中には魚介類に寄生する種類もあり、養殖場では被害も出ている。

食事:雑食性、つまり何でも食べる。数マイクロメートル~体長の20~30%前後の大きさの別の種類のカイアシ類の卵・繊毛虫などの原生動物・植物プランクトン・マリンスノー。

休眠する卵!:300年たって目を覚ました例有り。この休眠卵は乾燥・高湿・低温に強く、常温で25年耐えられる種もいる。

成長段階:受精してから成体まで基本的に12ステージ。成体になってからは脱皮しないで成長が打ち止 めとなる。

カイアシ類の眼:現生種のカイアシ類には複眼がなく、通常単眼のみを備える。結像する機能は持たないと推定。深海性カイアシ類の眼は広範な波長の光を効率よくキャッチする集光器と分析されている。視覚 以外の感覚器官を特化した動物であり、このおかげで光のない世界にもおおいに進出した。

運動能力:浮遊性のプランクトンであるのに、捕食者から逃げるために、海面から15cmもジャンプする。たいしたことないって! とんでもない。体長2~3mmのカイアシ類からみれば体長の50倍だ。

最古のカイアシ類の化石:一億二千万年~一億七千万年前、ブラジル白亜紀前期の汽水産硬骨魚化石の鰓腔に寄生していたのが見つかっているという。彼は寄生性カイアシで体長1mm、現生の分類群におさまるのだそうだ。彼らはいってみればカブトガニたちと同様生きた化石なのだ!

 さあ、ページを開いて、本文に進もう。
著者のいう奇妙奇天烈な生物の驚天動地の世界へ...

2006-11-03

「旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶」   読売新聞西部本社編 2006.7. みずのわ出版 3,000円


 1969年八月、会津若松駅で目じりに皺をいっぱい寄せて笑う宮本常一の写真でこの本は始まる。「民俗学者宮本常一は、生涯のうち四千日以上を民俗調査に充てた。作家の佐野真一さんは“旅する巨人”と呼ぶ。三千を超える地域を訪ね、子どもや労働に汗を流す男や女たち、街角、橋、看板、洗濯物~~とあらゆるものにレンズを向けてきた。戦後だけで約十万枚。山口県周防大島町で2004年開館した周防大島文化交流センターが保管している写真から、九州・山口の戦後をたどり、“いま”を取材する。」

 最初の一枚は、長崎県対馬・厳原町浅藻。ここは宮本常一の生まれ故郷である周防大島から渡ってきた漁師たちが移って来て出来た集落である。1950年、浅藻に最初に住み着いた人の家で、梶田富五郎と会う。今八十一歳になる梶田富五郎さんの五男の嫁、梶田味木さんは写真を手にして当時を思い出す。「私はお茶を出しました。じいちゃんは上半身裸、宮本先生は半袖シャツ。長いこと話しているもんだから、ちらっと様子を見に行くと、山口弁でのやりとりに夢中、昼ごはんも食べずにね。じいちゃんも先生も何だかうれしそうでしたよ。」
 また、別の土地でのこと。当地の民謡を夜の更けるのを忘れて歌ってくれた年寄りの女性達については、「もうお目にかかることはないだろうが、ゆうべのようにたのしかったことはなかった。死ぬまで忘れないだろうが、あなたもいつまでもゆうべのことをわすれないでほしい。」 宮本は出会った人々とこんな風に接し、そしてそのことを「私の日本地図」という著書に書き留めている。

 宮本が出会った土地の人びとのまなざしもまた優しい。「一升は入るホラガイでみんなが酒の飲み比べをするのを眺めて楽しそうでした。」熊本県矢部町、通潤橋を訪ねて出会った高宮家現当主晃裕氏。
萩市浜崎の蒲鉾店の主、一利さんはこう回想する。「そういえば八月一日の住吉祭りの時。暑いのに、炭火で蒲鉾を焼いているのを目の前で、長いこと一生懸命見ていた人がいた。こんな本を書く人やったんか。」宮本はこう書いているという。“ーまぁ食べて見なさい”と主人。これは“うまい”と宮本。話を弾ませた後、“持っていきなさい”と勧めるのを丁重に断っている。名乗りあうこともなく別れ、二度と会うことのなかった二人。本の中には名前も屋号も出てこない。その主は四年前に他界し柳井良子さん(70才)は夫を偲ぶ。

 失われた風景、幼いころの友や自分、逝ってしまった夫・父母・祖父、あそこにあった店、そんなものがいっぺんに胸に溢れてくる。その写真を目にしなければ思い出すこともなかったのに。誰もが暮らしの中に埋没させている記憶。戦後の食糧難の時代から「もはや戦後ではない」といわれた復興の大波の押し寄せる中で、その土地から失われつつある風景、利便性の大鉈で切り落とされていく暮らし。そんな日常を宮本は十万枚もの記録に残した。
 「島をほんとに発展させてゆくのは、ここに住んでいる人たちの努力にたよる外はない。」と記す一方で、「やがて消え行くもの」の気配、「地方の町の個性が失われていく」のを確実に予見している。残念ながら記者たちが古い写真をもっておとずれた場所には宮本の見たであろう風景は残っていなかった。老いた人たちの色褪せていない記憶に「その時代」が残っていた。

 民俗学者宮本常一の姿勢は何だろう。彼に接した人々を魅了する宮本常一。膨大な写真の中から宮本に語りかけるもの。同時にその写真を手に新聞記者は写された関係者を探し、その土地に流れた三十年から五十年の時間を辿り直した記録である。二十一人の手になる記録ではあるが、まるで一人の宮本に執り付かれた人間が書いているようだ。これは一体なんだろう。多分、これが「宮本常一」なのだ。

民俗学者である宮本常一はまた営農指導者でもあった。訪れた農村・漁村・島でどうしたらその土地が、土地にすむ人々が活気ずくのか、中央や大きな資本に収奪されずに地場産業が興せるかということを真剣に考え、その土地の人たちと議論した。
「地方にいくほど銀座が多い。涙ぐましいほどの中央追随の姿である。そして、そういうことによって次第に地方都市の自主性を失っていくようである。」
「この町が長い歴史の中から生み出したようなよさを、いつまで持ち伝えていくことができるであろうか。」
「島の人々は島につよい愛着をもっており、何とか島をよくしようとしているのだが、今の政治はそういう意欲をそぐ方向に向かっている」
「離島振興事業もかならずしも期待するほどの効果をあげているとはいえない。次々に無人島のふえてきていることがそれをものがたる。」2006年、過疎の村は増加し日本から切り捨てられつつある。
「進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。」

長崎県長崎半島の突端に野母崎がある。そこから椛島まで赤いアーチの樺島大橋が架かっている。まだ橋のなかった1961年、宮本は島の悲願である架橋についてこう記している。「“橋でも架かるといいのですが”と島の人がこぼすから“その気になりなさい。わずか300メートルの海に橋がかからぬこともありますまい。ただ、その橋を観光めあてにかけたのでは意味がない。できあがった橋がほんとに役にたつ産業をもつということでしょう。お互いに考えてみようではありませんか”とはなしたのであった。」
1966年、宮本は種子島にいた。離島振興法の施行から13年たって、産業や人びとの暮らしぶりなどについての調査団を率い、約10日間滞在した。当時、調査団に同行した田上利男さん(74歳)は「宮本先生はほとんど休むことなく、島中を駆け回っていたのを思い出します。本当に忙しそうでしたが、人と話すときだけは時間を忘れていました。」

 ずっと前、TVの特集番組で佐渡の漁師が「宮本常一」のことを懐かしんで話していた。何故かその情景が思い出される。

*山口県周防大島にある宮本の古里、東和町に彼自身が設立した「郷土大学」がある。この大学は彼の精神の継承を掲げ、いまも地域の人びとの学びの場になっている。この「宮本学」の中心施設として2004年に、町立の周防大島文化交流センターが開設された。
 この本の監修は全国離島振興協議会・財団法人日本離島センター・周防大島文化センターである。

*「土佐源氏」という彼の収録した話を、沼田耀一氏は一人芝居に仕立てて全国を回った。沼田氏は2005年  逝去された。

2006-10-26

「ヒトは今も進化しているー最新生物学でたどる人間の一生」 R. フーパー 2006.8. 新潮社 1,500円

「The Evolving Humann:How new bioloby explains your journey through life」
by Rowan Hooper

1970年、イングランド生まれ。1988-94年、シェフィールド大学で生態学・行動生態学・性選択の理論を学ぶ。1995-99年にかけて、つくば市の国立環境研究所に在籍。この間「The Japan Times」紙に生物学に関する記事を寄稿しはじめ、現在も同紙に「Natural Selections」と「Animal Tracker」のコラムを連載している。ダブリン大学トリニティ・カレッジ客員研究員。著書に「脳とセックスの生態学」2004年  新潮社

然り、生物は今も進化している。

 もし手っ取り早く科学的教養をひけらかしたいのならば、最適の本。

 新聞のコラムであり、4~5ページで、ヒトの一生をなぞっての生物学をやさしく解説、読みやすい。。目次は以下の通り。生殖・妊娠・出産/子どもから大人へ/恋愛・結婚・子育て/感情と知性のはざまで/病気と健康/老化と死。話題の新聞記事や事件、人気俳優の名前を挙げたり、難解な生物学もこれでバッチリ。
あなたの教養度もこれで急上昇すること間違いなしの一冊。読書の秋は教養を深める秋でもある。 以上

 

2006-10-25

「哺乳類天国ー恐竜絶滅以後、進化の主役たち」   デイヴィッド R. ウォーレス 早川書房

「哺乳類天国ー恐竜絶滅以後、進化の主役たち」 
ディヴィッド R. ウォレス  2006年7月初版 早川書房 2,500円

  著者の言うには、「この本はイェール大学 ピーポディ自然史博物館にある風景画“哺乳類の時代”を紙の上に甦らせるものである。数多くの本が恐竜のためにしてきた事を、私は先史時代の哺乳類のために試みる積りだ。」
 画家はルドルフ・ザリンガー。博物館専属の画家である。進化の「システィナ礼拝堂」だという。この18メートルの絵の中にザリンガーは「自然史博物館では、古生物の復元図は一種の動物の1頭から数頭の集団を描くことで、地質学上の時間と場所を厳密に表すのが従来の習慣だったが、私はまったく異なる手法を用いた。壁全体を使って“時間のパノラマ”を再現し....地球生命の進化の歴史を象徴的に表現したのだ。」ラクダは巻物を紐解く様にプエブロテリウム→プロカルメス→カメロプス、またサイはサブヒラコドン→ディケラテリウム→テレオケラスと進化の道筋を示して登場する。ウマやゾウ達がいびつなサボテンのような系統樹を創りながら今に至っている。

 なんとも、これだけで胸がわくわくする、次のページを捲るのが待ち遠しくなる。哺乳類が中生代に「発達停止」したかに見えた理由も、その後、巨大な爬虫類が姿を消したあと、シンデレラ顔負けの変身を遂げた理由もいまだ謎のままだと言う。

 最初期の哺乳類モルガヌドン(三畳紀後期)はわずか数センチで、現在もたくましく生きているトガリネズミぐらいの大きさだという。日本のトガリネズミは大雪山にしか生息していないと思われていたが、近年本州(関東)でも発見された。「夜行性の微小ともいえる動物は生き延びるために制約は多々あったが、進化は止まらなかった。小さいままで遺伝子の多様化の道を選んだのだ。数を増やして広い範囲に進出し、それぞれその地の環境に適応しつつ、分岐点をふやしていった。」

 たとえば歯。哺乳類だけが永久歯を持つ。そして用途に応じた進化を遂げた。噛み切る・噛み砕く・突き刺す・擂り潰すという複雑な機能を持つ。爬虫類の「多生歯性」は、歯のある他の背椎動物の特徴だが、機能の分化の度合いが低く単機能である。これは、食いちぎったものを一度も噛まずに丸呑みするワニを思い起こせば直ぐ理解できる。爬虫類の下顎は複数の骨から成り、それに比べて哺乳類は単に歯骨が単関節で頭骨に結合しているだけで、構造の単純さが、歯種を分化させた。さらに槌骨と砧骨は下顎から中耳に移動することで聴覚は鋭敏になり、鼻の部分が大きく複雑になって嗅覚、ひげが生えることで触覚を発達させた。夜間にも活動できるようになり、特徴的な顎と歯のおかげで、恐竜が見向きもしなかった様々な食物を得、小さいままでニッチを広げて行った。
 2001年5月25日の新聞は、雲南省で一億五千万年前の新種の動物の頭骨(12ミリ)が発見されたと報道した。爬虫類から哺乳類に進化する途中の「哺乳類の祖先」で、推定体重2g,体長3cm。恐竜の栄えたジュラ紀前期、学名を「ハドロゴデイゥム」という。この本の中ではもっと詳しく書いてある。「名前の意味は“重い頭、または中身の詰まった頭”といい脳や顎・内耳はこれまでわかっていたよりもずっと発達していた。大きさやその他の特徴は4,500万年後の動物によく見られるものだった。ということは、哺乳類の発達はこれまで考えられていたほど恐竜の支配に阻まれていたわけではなかったのだ。」

 彼らには「何より適応性があったからである。適応能力のおかげで、巨大爬虫類の息の根を止めた環境変化の危機を乗りきれたのだ。そして、巨大爬虫類が絶滅すると、哺乳類はその適応能力の高さで急速に増加し、それまで爬虫類との競争のせいで手に入らなかった新しい生態を選び取った。」

 各章で著者は描かれた主役や名脇役について述べる。ピーポディ自然史博物館を中心にして回る究極の哺乳類たちの戦いにも触れる。それぞれが聖杯を求めてアメリカ西部やパタゴニア・モンゴル、エジプトへと発掘にでかける。その間にも殴り合い、引っかきあい、袈裟懸け、足払い、闇討ちと何でもござれのようだが、ダーウィンの始めた進化論は激しい議論の中でそれ自体進化していったのだ。

 20世紀の初頭まで、地球の年齢は一億年というのが科学的な事実であったし、生物は絶滅せずに変化するだけだというのもまた生物学的常識だったとは、驚くべき事実である。1920年代になってやっと五億年になった。そしてこの頃から古生物学はフィールドで発掘した化石の研究ではなく、研究室の中で遺伝から進化理論を、遺伝学に基づいて理論を構築するのに必要な統計的分析が主となっていく。クリック・ワトソンの二重螺旋構造の解明、ドーキンスの画期的な遺伝子論、ミームとしての生命。脚光を浴びている理論生物学者の傍ら、発掘は続き幻の聖杯がすぐそこにあるような新しい報告がなされている。

 科学と解析技術の進歩は進化論に大きく揺さぶりをかけた。1915年、ウェゲナーの「大陸移動説」が発表された。最初はたいして注目されなかった。「土地の隆起と沈降に伴って海岸線が変動したり、時には内海が大きく広がることはあっても、大陸は少なくとも中生代以降は、およそ現在の位置にあった。」というのがそれまでの学者の統一した見解だったという。第二次大戦後、調査船チャレンジャー号による計測などから「プレートテクトニクス」理論が登場した。古地磁気の研究解明も進み、生物が陸続きに住処を広げて適応・進化したという考え方、根底から怪しくなってきたのだ。
 従来の分類法は祖先と思しき生物の系譜をたどることで成り立っていた。科学史家のJ.シコードの反論は「それまでの分類学者は構造の並行進化、すなはち器官の類似性を自然界の秩序の基準にしてきた。この考え方が誤りで、類似性を基準にして似ている種を一グループにまとめるのではなく、遺伝系統による分類法が必要だったのだ。」
 系統分類学は1950年代に分岐学と名を改め、推定される祖先ではなく、共通する「派生形質」の数で化石種を結びつけ、「分岐図」によって進化を図式化する方法で、生物の時間的位置は示さない方向に進んでいく(1960年代)。1980年代には、化石生物と現生生物の進化を図式化するのに化石の定量的分析という流れの延長上にあるコンピューター・モデリングで作業し、地質データと摺り合わせることが可能になった。同時に顕微鏡の性能も格段に向上し、いままで出来なかった植物化石や花粉分析が可能となっていた。
 物理学者アルヴァレス親子の「イリジウム濃度」の研究から、新しい説が登場した。「小惑星衝突説」。数十億年かけてこつこつと適応してきた地球の生物を気まぐれな彗星がうっかりと全滅させてしまったというなんとも情けない話である。
 現在ではこのイリジウム層「K/T境界」の上と下との生物相の差異は明白と証明されているが、まだ激しい議論が続いている。新旧のダーウィニズムが落ち着く1930年代以来、主流であった「漸進説」に対して、エルドリッチとグールドの「断続平衡説」が華々しく登場した。

 絶滅の解釈の違いがそれぞれの進化論を形ずくっているが、多くの科学者の分析は地球外物体との衝突が6,500万年前一度だけではなく、地球の軌道が小惑星帯やその他の天体群を通過する度に大量絶滅が定期的に(2,600万年毎)巡ってきているという結果も出ている。ダーウィニズムにしろ何にしろ、これまで説明されてきた進化の物語は人類の出現を持って幕を閉じている。そのため往々にして、生命の進化はその役割を終了したように錯覚させられる。未来を語る進化論はない、とおもっていたら、人間の想像力の素晴らしさは あの時絶滅しなかった“新恐竜ー進化した恐竜たちの世界”やこのまま未来に進み“二億年後の世界”などが極彩色の挿絵入りで出版された!

S.J.グールドの言葉が締めくくるのに適当と思う。
「人間が進化したのはもっぱら白亜紀の大絶滅のおかげであり、この絶滅が行手の障害を一掃し、なおかつ 我々の祖先の命を救ってその道を進めるようにしたのだ。」
「人間は運がよかったのでここにいるのだ。」
「生がもっとも発達したように見えるときは、絶滅間近なのかもしれない。たとえばウマは賢いとはいえ  ない葉食性の小型動物から賢い草食性の大型動物に発達したようにみえるが、それは生き残った属が一つ だけだったからである。進化の頂点」としては、数百もの種がある現生のコウモリや齧歯類とは対照的  だ。」
「進化の典型的な“傾向”の多くはこうした不運なグループの物語である。細い小枝だけ残して剪定されて しまった木のようなもので、それが絶頂期だと謝って理解されているが、じつはかっての力強さを失った 枝がやっと残っているだけなのだ。」

 最後の三分の一は主としてダーウィンに始まる進化論の変異について語っている。それまでの発掘された化石の分類とか系統とかの話は出てこない。訝しく思われるかもいれないが、至極当然なのである。ザリンガーの言葉を思い出してみよう。「...生物の生態を描くことで時間のパノラマを再現しようとした...」

 中世からヨーロッパの知識人たる者ならラテン語の知識は必須であり、学名のラテン語の意味も我々がカタカナで読むチンプンカンプンとは異なり理解していたのだ。ラテン語をそのまま訳せば、爬虫類の王、犬の顎、猛々しく凶暴なものとなるのは、それぞれバシロザウルス・キノグナトラス・オニシエナのこと。(嵐泥棒:ザラングダレステスという詩的な名前を貰ったウサギ状の生き物もいる...)漢字文化圏の学者の不利な点である。恐竜の学名も意味が分かったらどんなにか面白かろう。

 登場する動物にあわせてザリンガーの絵の部分がモノクロで一ページずつ紹介されている。表紙はマストドンと巨大な角を持つバイソン、立ち上がったグリズリーのようなメガテリウム。見開きで全部を何頁かにわけても見せて欲しかった。細部はともかく、全体のつながりが見たかった。

 この風景画を観た事で古生物学者になろうとした子供(著者)がいたのだ。
       __________________________________________________________

大陸移動の説明として、分かり易く書いている。ぜひ紹介したい。科学記事もこんな風になる見本だ。
「...初期の単弓類が栄えた三畳紀前期には、大陸はパンゲアという一つの巨大な陸塊を形成していたらしい。やがてパンゲア大陸は、新しくできた拡大中心に引き裂かれて北半球のローラシアと南半球のゴンドワナの二大陸に分裂し、さらにごたごたと小さな陸塊に分かれ、それ以降は手のかかる子供のようにあちこち動き回っている。ゴンドワナ大陸の分裂は波乱に富んでいた。南極大陸はアフリカと南アメリカを手放して極寒の南極で孤立を守り、オーストラリアとインドはアジア方面に逃げていき、その間にニュージーランド、ニューギニア、マダガスカルといった浮浪児が押し入った。ローラシア大陸はそれよりすっきりと分裂した。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸は大西洋中央の亀裂を境におおむね穏便に縁を切り、生まれた浮浪児の数はすくなかったのである。」

2006-10-20

「乞胸と江戸の大道芸」 高柳 金芳           1981年初版 柏書房 1,800円


 江戸時代の社会構成は、良民・乞胸・賤民に分けられていた。この賤民と呼ばれる人々の職種は時代により差異・変遷がある。江戸時代初期、長吏頭・弾左エ門の支配下にあった職種は28座、享保10年(1725年)には、穢多・猿飼・非人・乞胸・茶筅の5種であった。明治維新になり、賤民開放令と呼ばれる「太政官布告 第448号」が公布され、乞胸頭・乞胸の名称が廃止されるに伴い家業の特権も無くなった。武士階級は秩禄処分の代償として現金および公債が交付され、授産事業にも援助が与えられたが、彼ら乞胸の生活の根拠である家業の奪取については何らのの配慮もされなかった。

 「乞胸 ゴウムネ」とは一体どういう人々なのか。「...慶安年間1648-1651、江戸御府内において、浪人が無為徒食を禁じられたため、已む無く編み笠に面を隠し、習い覚えた謡・浄瑠璃を唱え、三味線を弾き、家々の門口に立ち、金銭を乞うたことに始まり、編み笠を被ることが乞胸の徴であった。そして、次第に寺社境内・明地、及び大道において、あるいは各家々に立ち 芸を披露し、一般から銭金を受けることを“家業”として認められた」人々なのである。
 この時の「家業」とは、綾取・猿若・江戸漫才・辻放下・からくり・操り・浄瑠璃・説教・物まね・仕方能・物読講釈・辻勧進の十二種で、時代によって多少の変化はあるが、おおむね変わらない。
 
 乞胸の頭は九代目より仁太夫と名乗り、住まいも日本橋から下谷山崎町へと移った。1842年仁太夫の書上には、配下の乞胸は749人にもおよび、四谷天龍寺門前・深川海辺大工町と合わせて三ヶ所と主として、その他は御府内に散在して暮らしていた。尚、下谷山崎町は江戸時代から四谷鮫ヶ橋・芝新網町とともに明治の貧民屈として知られていた。

  乞胸頭の支配の及ばない者は、堺町の仲村座・葦屋町の市村座・木挽町の森田屋、所謂江戸三座と狂言座、および湯島天神境内の狂言に出演する者、三河万歳・大神楽・越後獅子など。 其の他に、乞胸頭の支配外には、「願人坊」と「香具師」がいた。

 「願人坊」は、一説に1643年に東叡山寛永寺の末寺建立のために日本橋橋本町の空地に居住し、加治祈祷および毘沙門天の守り札・秘札を頒り、代参・代垢離を業として、托鉢・願望成就の祈りなどを行っていたが、次第に困窮し町家の門口にたち、軽口謎・阿呆陀羅経と唱え、はては謡・浄瑠璃を唄って米銭を乞う僧体の乞食にまで堕落していった。慶安5年(1652年)に13人であったのが、天保14年(1843年)には7~800人と膨れ上がり、また乞胸の家業の一つである「辻勧進」とも大道芸とも抵触し紛争の種となった。

 「香具師」は、「縁日・祭礼において、品物を商う露天商(縁日商人)がその手段として技芸を行った。この手段と目的が互いに交錯して露天商を「的屋 テキヤ」、技芸を主とする者を「見世物師 タカモノシ」と称するに至った。」 香具師には乞胸のように決まった頭はいない。弁舌・力量・知恵のあるものが選ばれて「首領、総元締め」となり、元締めは縁日・祭礼の日には興行師の場所の割り当て・土地借料の世話などを行うようになったが、そもそもは浪人が武士の嗜みとして覚えていた切り傷の薬などを調合して売ったり、居合い抜きをしてみせたのが香具師の始まりと言われている。
 享保20年(1735年)の記録によれば「十三香具師」と言われ、居合抜・軽業などの愛嬌芸と共に、諸国妙薬取次売り・辻療治・膏薬売りなどを生業としていた。翌20年の南町奉行大岡越前守により定められた「香具師職法式目」には、「香具師に対しその身分を定め、十手捕縛を許し、隠密御用や密貿易の取り締まりを命じた とある。
 商いは主として医薬品の販売であったが、その手段であった愛嬌芸の多くは乞胸家業の「辻放下」に属していた為、ここでも紛争・係争が生じた。
 著者の調べたところでは、「この係争の結果が如何になったかについては、種々手を尽くしたが、遂に史料、記録を発見することができなかった。恐らくは先に述べた乞胸と願人坊の“辻勧進”問題と同様に曖昧裡に落着したのではなかろうか。」

 天保の改革・・・・・「江戸時代末期の天保年間(1830-43)に至ると、幕府を始め諸大名の財政逼迫、武士の貧困化、農村の荒廃、百姓一揆の続発、そして都市生活の退廃と、あらゆる悪条件が山積・重複し、封建制度の基盤もようやく揺るぎ始めた。このため施政者は封建支配体制の維持・強化のためにも、果敢な政策の転換に迫られた。」老中首座となった水野は天保12年、享保・寛政の改革に習って天保の改革を断行した。奢侈の禁止・風俗の粛清で有名であるが、天保13年の「無宿野非人旧里帰郷令」は俗に「人返し」といわれ、江戸の無宿人の取り締まりを非人頭に命じた。公布されて半年で5,000人もの人数が「狩りこみ」「片付け」に遭った。
 ここで「ぐれ宿」が登場する。木賃宿は時代と共に変化・発展し、宿泊に食事を出す旅籠となっていったが木賃宿も貧困者の宿泊所として残った。旅籠が行き渡ると木賃宿や姿を消し、替って「長旅・六十六部・順礼・金毘羅参り・伊勢参りおよび物貰いの徒は、乞胸頭あるいは願人坊蝕頭を便りきて、宿泊を頼むようになった。一方乞胸や願人坊にしても、その家業や所業だけでは生活に苦しいので、これらを迎え入れた。これが“ぐれ宿”である。」木賃宿に比べても安い宿泊料にその日稼ぎの貧困者の利用が増え、遂にはいかがわしい者やお尋ね者までもが紛れ込むようになっていった。「人返し」の強化取締りの対象になり、無宿者と共に乞胸や願人坊の多くが宿払いに遭い、その数を半数以下に激減させたという。

 「乞胸」とは、身分はあくまでも一般の町人で、町方の支配に属するが、家業のみをその組織の頭である仁太夫を通じて浅草の非人頭、車善七の支配を受ける。ただし、家業を止めれば乞胸頭との関係は消滅し元の一般の町民に戻った。他の賤民と異なり身分は固定されたものではなく変更することの出来る特異な存在だ。だが、慶安年間から200年近くたつと幕府側や一般町民の意識に乞胸は賤民であるとの固定観念が生じてきた。明治維新の「賤民開放令」が発布され、当然、氏の称(苗字を付ける事)が許されてしかるべきであったが、明治政府は彼らは賤業の者であり、非人頭の支配を受け、非人同様の渡世であるからという理由で、「苗字用い候儀、相成らず候。」という結論をだした。