「飢餓と戦争の戦国を行く」が刊行されたのが2001年、それから「戦国の村を行く」「雑兵たちの戦場」「戦国の作法」と続いたいわば「戦国シリーズ」の最新刊である。いままで出た中から八篇を選び、また新しく掘り起こされた古文書の解釈、安田喜憲氏らの環境考古学や古気候学などを採り入れての著書である。
ここで言う戦国とは15世紀半ばから16世紀末までのおよそ150年間を言う。そして雑兵は、脛当てに粗末な胴丸、槍になまくらな刀を差し、背中に小さな旗指物を担ぐ。戦が終わった時に地べたに累々と残されていて、けっして武具を剥ぎ取られる対象にはならない。
著者が丹念に多種多様の古文書から抜き出した災害や疫病の年表には、毎年どこかで長雨・旱魃・疫病などが起きている。もちろん兵乱も。これは一地方のとか 日本のとかの問題ではなく、全世界的な規模の天変地異の時代で、この間(1300~1850)地球は小氷河期に入っている。特に、1350年前後、1500年を挟む100年間、1650年からの70年間は「夏の来なかった時代」とも言われている程だ。
飢饉になれば百姓・村人は食料のある土地へ流れていった。山野を食い尽くした流民たちが一極集中的に都、あるいはその地方の都市へと押し寄せて、二次飢饉を起こした。これを「流入型飢饉」という。また近隣の村々を襲い食料を強奪したりもした。大名領主は百姓の離反=欠落・退転を抑えるために蔵の貯蔵穀物を放出し、兵を率いて隣の領地へ押し出したりもする。戦乱では乱妨(略奪)・狼藉・乱取・苅田などが勝手とされたのが戦いの作法で、洋の東西を問わず それが兵士・雑兵への報酬なのだ。戦場を遠巻きにして眺めている者もいる。関が原の戦いの時などは京大阪あたりから弁当持参での見物衆がいたと記されている。この見物衆がある一瞬から落ち武者狩りの衆になる。
天下統一がなされるまで百姓と雑兵とは表裏一体の意味を持っていたと言えよう。土地の豪族の下に、集落や兄弟などでまとまって参集し雑兵として戦いにでる。勝ち戦であれば、食料はもとより落武者の甲冑などの武具や奴隷も手に入った。足軽という身分は平時には百姓なのだ。こうして武器や武具を所有し、まとまった数で戦に出るようになると発言力もついてくる。百姓侘言(要求・要望)だ。領主に納める税の率や遠方の戦地への長期の陣夫動員負担の拒否や、徳政の強要など聞き入れられなければ村を捨てるぞと脅す。現に何年も戻らなかった例もあったそうだ。武器をもって領主に対抗し、要求を突きつける、百姓中心であれば土一揆で、信仰でまとまったのは一向一揆である。やがて、特定の領主には就かずに雑兵たちを束ねるいわば「足軽大将」のような者まで出てくる。凄腕の傭兵集団で、川並衆を束ねていた蜂須賀小六などがそれの代表であろう。
飢饉には天災からくるものと、人災からくるものとがあった。人災とは戦乱である。押し出してきた軍勢は、「麦秋の調儀」とか「稲薙ぎ」とか呼ばれる「作荒らし」の戦法を取る。隣国からの飢饉の気配で百姓達は作付けの工夫をしたり、未熟でも稲や麦の穂を刈ったり、家財物を担って山城や領主の城に逃げ込む。村人単独で山城を持つことも珍しいことではないと古文書のいくつかに見られると言う。不運にも城が落ちた時には、周辺の村々の荒廃をさけるために、城に避難していた民たちは「家財物」とともに解放され帰郷を許された。
大名領主の力が増すとともに、足軽大将たちも収斂し家の子郎党としての地位を確立してくる。そして、天下統一。信長・秀吉・家康等が苦慮したのは、百姓たちの持つ力=武器をいかに排除するかであった。信長は治外法権とも言うべき勢力を根絶やしにすることに心血を注いだ。地ならしが出来た状態で登場した秀吉は、「刀狩」と「山城停止令」・「一国一城令」を実行した。大名同士の争いを禁止し、支配を嫌って逃げ込む山城を廃止、百姓の武器を持つことを禁止した。
「刀狩」の意味はこれだ。別の言葉で表現すれば「一揆禁止令」なのだ。
「刀狩」を理解するためには、戦国の雑兵たちの作法を理解しなければならない。雑兵・一揆・刀狩とが、私の中で、やっと一つに繋がった。
参考図書:黒田弘子「ミミヲキリハナヲソギ・・・片仮名百姓申状論」
吉田豊彦「雑兵物語」、
保坂智「百姓一揆とその作法」などがある。
2007-01-23
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