2007-04-02

「 人間とヘビ : かくも深き不思議な関係 」    R.& D.モリス 小原 秀雄監修 藤野 邦夫訳  2006.8. 平凡社 1,300円








日本語の勉強です。

・「この角は両目のうえにある、ちいさな突起にほかならない」
 →「この角は、両目のうえにあるちいさな突起にほかならない」または
 →「両目のうえにあるこの角は、ちいさな突起にほかならない」の方が日本語として読みやすいのでは。

・「たとえばジョン・ブラウンは“1799年にセントヘレナの要塞砲兵隊の六人の脱走兵が経験した異常な冒険と苦しみの感動的な物語”というタイトルのロマンティックな読み物で、八メートル以上もあるボアコンストリクターとの身の毛もよだつ出会いを語っている。このヘビはかれらが一本の木に寄り集まっているときに、夫の手からヒロインを強奪したのだった」
 →「...六人の脱走兵たちが一本の木に寄り集まっているときに、このヘビが夫の手からヒロインを強奪したのだった。」この文章の前とは全く繋がりのない話なので、いきなりこのヘビと書かれると混乱の極みへと転落するのだ。

・「ヘビはアルコールによる元気の回復方法が使えないときには、ウシ、ヤギ、ヒツジの乳房を吸って手にしたミルクで満ち足りていた。」
 →手にした、ではなくて、手に入れたでは?もっともヘビには手はないが.....

・「最後の数世紀間の目撃情報は、膨大な数で急速に消滅する、この動物の生命の最後のきらめきだと主張されたのである。」意味が取れません。

・「ヘビの自然な習性が知られるようになるにつれ、事実はフィクションよりエキサイティングであることが明らかになったので、かれらはたぶん悲観的すぎるのであろう。」悲観的すぎるかれらとは?

・「慣れない人が見れば、攻撃的なヘビと、ひどく落ちつかないヘビを見わけにくい。」
 →「...ひどく落ちつかないヘビとは見分けにくい。」


・「毒ヘビもときどき、手で扱わなければならないことがある。」
 →「毒ヘビも、ときどき手で扱わなければならないことがある。」


・「現在の中国のヘビ食は、広く広東地区に制限されている。」
 →「現在の中国のヘビ食は、広東地区に限定されている。」

 人間の頭の中で“”にであうとそこで思考が途切れてしまうという習性がある。句読点という印によって自動的にそうなってしまうのだ。だから、上記のような文章でちょくちょく足が止まると草臥れてしまうのだ。適当に、三頁めくっただけでこのような日本語に出会う。藤野氏の翻訳した文章を読んだ上で、監修した小原氏がいる。そして、この文章で良しとした編集者がいる。この編集者の責任は大きい。格調高い平凡社ライブラリーとしては異色の一冊といえよう。
291頁の本文に続いての監修者の解説は学者らしく真面目で分かり易い文章だし、訳者のあとがきはすこしくだけてはいるがまともな日本語である。であるから、それゆえにそこまで辿ってきた日本語の文章は何だったのか、不思議としか言えない。もしかして、丸投げ?

 著書についていえば、「岩場にのこされたヘビ・神々のなかのヘビ・エデンの園のヘビ.......」というように古今東西のヘビにかかわる事象を網羅した“ヘビオタク的”な著作である。フレーザーのような安楽椅子の生物(博物)学者を思わせる。

例えば、階段がある。階段というものは等間隔の段があり、なおかつ、その一段一段は水平を保っていることだ。階段を登っていくとする、見た目には等間隔のようでもほんの少しの差があると、人間の感覚は察知してしまう。水平面がほんの少しどちらかに傾いていても察知する。だが其の差は“ほんの少し”であり、人が登り降りするのにはなんら不都合はない。足の裏が不快なだけなのである。気にならない人もいる。この翻訳文はこの階段のようなものなのだ。日本語として読めないわけではない。気にするほうが可笑しい!

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